第17話 register(名前) throws 未登録
穴は、自分の背丈より深く掘った。
半日かかった。アイが手伝えば四半刻で終わったはずだが、断った。
「これは、俺がやる」
《……はい》
白い穴の中には、魔素が無い。
だからアイは円のへりまでしか来られない。声も届かない。
掘っているあいだ、ソウイチはずっと一人だった。
それでよかった。
十二本目の剣の下に、埋めた。
四十三年前、まだ歩けたうちにこの人が自分で立てた一本だ。
いちばん深く、いちばんまっすぐに刺さっている剣。
その真下に、その人が入った。
土をかけ終わって、そこに座ったまま動かなかった。
剣は十二本。骨は十二人ぶん。
やっと、数が合った。
「……四十三年、待たせたな」
声は、誰にも届かなかった。
この円の中では、いつもそうだ。
*
境界を越えると、耳の奥にあの気配が戻った。
《おかえりなさい》
「……おう」
《手のひらを、見せてください》
「いいよ」
《見せてください》
ソウイチは、掌を開いた。
木の柄を半日握った手は、握る前と同じ形をしていた。
アイは、しばらくそれを見ていた。
《――結構です》
「なんで見たかったんだ」
《さあ》アイは言った。
《心配、というものかもしれません》
*
家に帰って、二日で荷を作った。
背負子に入れたのは、食い物と、水と、毛布と、着替えだけだ。
残りは全部、収納に放り込んだ。
「木の板の束。手記と、地下の地図」
《はい》
「杖」
《三千二百十四のうち、千九百まで解けました》アイが言った。
「終わったら、何が分かる」
《分かりません》アイは言った。
《読めても、わたしの目が足りないのは、変わりません》
「紋章の板」
《――いちばん奥へ》アイが、そこで口を挟んだ。
《街で、間違っても出さないでください》
「なんでだ」
《四十三年前の王命の、直接の証拠です》アイは言った。
《意味が分かる人間に見られた場合――あなたは、いちばん面倒な立場になります》
ソウイチは、その小さな金属の板をつまみ上げた。
剣と、天秤と、茨。
そして、円と、そこから伸びる三本の線。
「……そうだな」
板は、指の先から消えた。
「で、金だ」
視界に、収納の一覧が開いた。
灰色の石が並んでいる。森の主のもの。
ブラッドタスクのもの。白い胴のもの。
この一年半で溜まった大小の魔石。
《鑑定によれば、いちばん大きいもの一つで、銀貨四十枚から六十枚》アイは言った。
《ただし、これは“正規の買取所での相場”です》
「含みのある言い方だな」
《はい》アイは、あっさり認めた。
《売るには、身元が要ります》
ソウイチは、手を止めた。
「……身元」
《冒険者ギルドの登録証、あるいは、村や領主の発行した証文。そのどちらかです》アイは言った。
《書庫の本に、そう書いてありました》
「俺、どっちも持ってねえぞ」
《はい》
「村を出るとき、何ももらってない」
《はい》
ソウイチは、光の一覧に並んだ石を見ていた。
金貨何枚ぶんかが、そこにある。
それを金に換える方法が、無い。
「……なあ、アイ」
《はい》
「俺、この世界で、何なんだ」
アイは、少し黙った。
《――記録の上では》
「うん」
《何者でもありません》
*
出発の朝、クッキーは、扉の前に座っていた。
留守番のときの座り方ではなかった。前脚を揃えて、まっすぐこちらを見ている。
「……来るか」
琥珀色の尻尾が、床を一度だけ叩いた。
《アンバーテイルは、街に入れません》アイが言った。
《門で止められます。魔物ですので》
「止められたら、外で待っててもらう」
《この子が、待ちますか》
「待つだろ」ソウイチは、そのごつい頭を撫でた。
「俺が地面の下にいたあいだ、ずっと上で待ってたんだから」
*
南へ、三日。
森は、行くほど明るくなった。
木が細くなり、間隔が開き、下草が増える。魔物の反応は二日目の朝を最後に消えた。
二日目の午後から、クッキーはソウイチの前を歩かなくなった。
夜は、火を焚かなかった。
干し肉と、水と、毛布が一枚。それで足りた。
灰色の部屋で一年、寝床は床だった。
クッキーは、毎晩、腹の上で丸くなった。一年前より、ずっと重い。
*
三日目の昼。
木が、切れた。
道があった。
人が踏み固めた、幅三メートルほどの土の道。わだちが二本、並んで続いている。
ソウイチはその手前で足を止めた。
「…………」
《創一さん?》
「いや」
ソウイチは、そのわだちを見下ろしたままでいた。
――車輪の跡だ。
当たり前のものだった。前の世界なら一日に何千回と見たものの、その原型。
この一年半、一度も見ていない。
森の奥に家を建て、畑を作り、結界を張り、亜空間で一年こもり、地下に三回潜った。
そのあいだ目にした人工物は、全部、自分とアイが作ったものだった。
「……アイ」
《はい》
「人間、久しぶりだな」
《正確には、まだ会っていません》
「わだちは見た」
《はい》アイは言った。
《――おかえりなさい、と言うべきでしょうか》
「どっちだろうな」
道に出て、南へ歩いた。
半刻ほどで、前のほうから、音が届いた。
馬のいななき。木の裂ける音。人の声。
「クッキー」
言い終わる前に、琥珀色の影が走り出していた。
道が曲がった先で、荷馬車が横倒しになっていた。
車軸が折れている。麻袋が道にぶちまけられ、こぼれた穀物が土に散っていた。
馬は一頭が倒れ、もう一頭が脚を取られて暴れている。
その周りに、灰色の背中が六つあった。
【鑑定:グレイウルフ】
一匹が、横倒しの荷台の陰へ回り込もうとしていた。
――陰に、人がいる。
《創一さん》
「六だ」
《はい》アイは言った。
《どうぞ》
馬は、まだ暴れていた。
その脚が地面に戻るより早く、六匹目が倒れた。
ソウイチは剣を振って、血を払った。
息は、上がっていなかった。
荷台の陰から、男が這い出してきた。
四十くらい。日に焼けて、首に布を巻いている。
左の二の腕が裂けて、血が肘まで垂れていた。
男はまず、倒れている六つを見た。
次にソウイチを見て、最後に、その足元にいるクッキーを見て、身体を硬くした。
「……そいつは」
「俺の連れだ」
「連れ」
「ああ」
男は、口を開けたまま動かなかった。
「腕、縛るぞ」
ソウイチは背負子を下ろして、布を裂いた。
《位置は、傷口の上、指四本ぶんです》
「分かってる」
男は、されるがままだった。
車軸は、根元から折れていた。
ソウイチは折れ口に手を当てて、黙っていた。
《添え木を三本。長さは、肘から指先まで》アイが言った。
《工房に、板が残っています》
「出してくれ」
何も無かったところに、板が三枚、現れた。
男が、尻もちをついた。
「……いま、どこから出した」
「収納だ」
「収納って、あの、貴族が使うっていう」
「知らねえよ」ソウイチは言った。
「そこ、退いててくれ」
折れ口に添え木を当てて、三箇所を縛った。
四半刻で、馬車は立った。
男は、口を閉じるのを忘れたまま、それを見ていた。
「……あんた、何者だ」
ソウイチは、手を止めた。
同じことを、三日前に自分でアイに聞いたばかりだった。
「バルドだ」男は言った。
「ガランドで乾物を売ってる」
「ソウイチ」
バルドは、次の言葉を待った。
それが来ないと分かると、添え木を指で弾いた。
「……乗れよ。街まで」
「いいのか」
「六匹だぞ」バルドは言った。
「俺の荷は、あんたが守ったんだ。護衛料を払わねえと、こっちの筋が通らねえ」
*
馬車は、ゆっくり進んだ。
クッキーはその後ろを歩いている。バルドは十回ほど振り返って、そのたびに前へ向き直った。
「なあ」
「なんだ」
「従魔証は」
「無い」
「……登録証は」
「無い」
バルドは、手綱を握り直した。
「あんた、証が何も無えのか」
「無い」
車輪の音だけが、続いた。
「――門で止まるぞ」バルドは言った。
「証の無えやつは、通れねえ」
「やっぱりか」
「やっぱりって、あんた」
バルドは呆れた顔をして、それから笑った。
「まあ、俺が口を利いてやる。命の借りだ」
「助かる」
「獣のほうは、無理だ」バルドは言った。
「あれは、俺でもどうにもならねえ」
「……アイ」
《はい》
「あの人、俺のこと、一回も“お前”って言わなかった」
《はい》
「“あんた”だった」
ソウイチは、自分の手を見た。
「親父も、兄貴も、俺を名前で呼ばなかった」
ソウイチは、少し笑った。
「知らない人間って、いいもんだな」
*
街が見えたのは、その日の夕方だった。
丘を越えた先に、灰色の壁があった。
高さは家の三倍ほど。左右に長く続いていて、端が見えない。
その手前に、人の列ができていた。
荷馬車が四台。徒歩が二十人ばかり。
門の手前で、ゆっくりと進んでいる。
バルドが馬を止めた。
ソウイチは御者台からその列を、しばらく見ていた。
人が、いた。
二十人。四十人ではない。百人でもない。
ただの二十人が、列を作って、順番を待っている。
それを見ているだけで、胸のあたりが少し変な感じだった。
《創一さん》
「なんだ」
《脈拍が、上がっています》アイは言った。
《戦闘時より、高い数値です》
「……うるせえよ」
《記録します》
「やめろ」
残るのは、クッキーだった。
ソウイチは馬車を降りて、丘の草の上にしゃがんだ。
《創一さん》アイが言った。
《ひとつ、試していないことがあります》
「なんだ」
《この子の、見た目を変えます》
「……できるのか、そんなこと」
《投影は、亜空間の中でしか届きませんでした》アイは言った。
《あの部屋で、一年、あなたに魔物を見せ続けたので――外でも、届くようになりました》
「訓練してたの、俺だけじゃなかったのか」
《はい》
クッキーの輪郭が、一度だけ、揺れた。
琥珀色の毛並みが、くすんだ茶に沈んだ。
鼻先が短くなり、牙が引っ込み、耳が丸くなる。
村で荷車の脇を走っていたような、どこにでもいる中型犬が、そこに座っていた。
ソウイチは、その頭に手を置いた。
手触りは、いつものクッキーだった。
「……お前、いま、どんな気分だ」
尻尾が、草を叩いた。
馬車の上から、バルドが覗き込んでいた。
「……おい」
「犬だ」
「犬じゃねえだろ、いま」
「犬だ」ソウイチは言った。
「そういうことにしといてくれ」
バルドは口を開けたまま、手綱を握り直した。
「……狼六匹より、いまのほうが、よっぽど怖えよ」
*
列に並んだ。
馬車の脇を歩いた。前には荷を背負った老人、その前が親子連れ、その前が行商らしい男が二人。
誰もソウイチを気にしなかった。それが少しありがたかった。
列は、思ったより速く進んだ。
門の脇に机がひとつ置いてある。
その向こうに鎧の男が二人。片方が座って台帳に書き込み、もう一人が立って列を見ている。
声が、聞こえてきた。
「――名は」
「マルセル。リンドの村から。麦を運んできました」
「証は」
「へえ、これで」
老人が木の札を出した。座っている男がそれを受け取り、台帳と見比べる。
何か短く書いて、札を返した。
「通れ」
簡単だった。
ソウイチは、そのやりとりをじっと見ていた。
――名前を言って、札を出して、台帳と照合される。
それだけだ。
あの老人はどこかの村に登録されていて、その村が札を発行していて、この街の台帳がそれを受け付ける。
だから通れる。
「……アイ」
《はい》
「俺、あれ、持ってない」
《はい》
「村に戻れば、もらえるか」
アイは、答えなかった。
「……だよな」
ソウイチは前へ一歩、詰めた。
バルドの番が来た。
座っている男は、顔を上げもしなかった。
「よう、バルド。遅かったな」
「狼に食われかけた」
「その腕か」
「その腕だ」
男は台帳に二文字書いて、顎で門をしゃくった。
「通れ」
札は出なかった。名も、出身も、聞かれなかった。
「――こいつは、俺の護衛だ」バルドが言った。
「行きから雇ってる」
座っている男が、顔を上げた。
三十くらいの、疲れた目をした男だった。ソウイチの服を見て、背負子を見て、腰の剣を見た。
白い剣だ。牙から削り出した、この世界のどこにも無い剣。
男の目が、そこで一度止まった。
目は、また台帳に落ちた。
「名は」
その一言に、ソウイチの背中がかすかに冷えた。
――同じだ。
四十三年ぶんの暗闇の底で、黒い面に浮かんだ文字。
あれとまったく同じことを、いま聞かれている。
「……ソウイチ」
男が、書きかけて、手を止めた。
「家名は」
「無い」
「出身は」
「――」
ソウイチは、そこで、詰まった。
言える名前が、ひとつも無かった。
あの村の名を言えば照合される。照合すれば、レンという名が出てくるか、何も出てこないかだ。
どちらでも終わる。
「出身は」
男がもう一度言った。苛立ってはいない。
同じ抑揚で繰り返しただけだ。
一日に何百回も同じことを聞いている人間の言い方だった。
「……森だ」
男の手が、止まった。
顔を上げた。今度はちゃんとソウイチの顔を見た。
「森のどこだ」
「奥」
「奥ってのは、どのへんだ」
「……北の、いちばん奥」
立っていたほうの男が、こちらを向いた。
座っている男は、しばらくソウイチを見ていた。
それから台帳をめくった。
前へ。さらに前へ。
指で行をたどりながら、何かを探している。
めくる音だけが、聞こえていた。
やがて、男は顔を上げた。
「――無い」
「え」
「ソウイチ。家名無し。出身、魔の森」男は言った。
「そんな記録は、うちの台帳にも、王国の写しにも、無い」
「……無いって」
「あんた、この国で、生まれてないのか」
ソウイチは、答えられなかった。
生まれている。この身体は。
だがその名前は、十二の年に、返せと言われて、返した。
「――失礼」
立っていたほうの男が、前に出てきた。
若い。二十そこそこだ。
だが腰の剣の握りが、使い込まれて黒くなっている。
「そちらの剣を、見せていただけますか」
ソウイチは、腰の白い剣に、手を置いた。
置いただけだ。抜いていない。
それでも若いほうの男の重心が、わずかに落ちた。
《創一さん》アイの声が、耳の奥で鳴った。
《抜かないでください》
「抜かねえよ」
《声に出ています》
「……悪い」
ソウイチはゆっくりと、剣ごと腰帯を外した。
鞘に入れたまま、柄を相手へ向けて両手で差し出した。
「どうぞ」
若い男がそれを受け取った。
鞘から少しだけ抜く。
乳白色の刃が、夕日を受けて鈍く光った。
男の動きが、止まった。
「……これは」
「牙だ」
「何の」
「森の、狼の」
男は刃をもう少し出した。
そして鞘に戻した。両手で、丁寧に。
それをソウイチに返しながら、机の向こうの相棒を見た。
「隊長を、呼んだほうがいい」
「――待て」
ソウイチは言った。
「俺は、何か悪いことをしたか」
二人とも答えなかった。
座っているほうの男が、台帳を閉じた。
「悪いことは、してない」男は言った。
「してないから、困ってるんだ」
「おい、待てよ」バルドが割って入った。
「こいつは俺の荷と、俺の命を守ったんだ。俺が保証する」
「あんたが保証できるのは」男は言った。
「こいつが狼を六匹殺したってことだけだ」
バルドが、口を開いて、閉じた。
「こいつが誰かは、あんたには保証できねえ」
「名前があって、証がねえやつなら、突っ返せばいい」
男はソウイチを見上げた。
「あんたは、名前が無え。それでいて、剣は本物だ。……そういうのを通すかどうかは、俺の裁量じゃねえんだよ」
*
日が、壁の向こうへ落ちていった。
門の内側で、灯りがひとつずつ点いていく。小さなオレンジ色の火が、いくつも。
ソウイチは、それを門の外から見ていた。
《創一さん》
「なんだ」
《いま、分かったことがあります》アイの声は、平坦だった。
《報告しても、よろしいですか》
「……言えよ」
《あの扉が要求していたのは》
《これです》




