第16話 mute(アイ); hunt();
第16話です。坂の下の水場で、はじめて本物と戦います。
そして、アイを黙らせます。
「――いまの、聞こえたか」
坂の途中で、ソウイチは足を止めた。
《はい》
アイの声が、ぴたりと硬くなっていた。
「何の音だ」
《…………分かりません》
「分からない?」
《生体反応は、捉えました。下に、ひとつ》アイは言った。
《ですが、大きさが出ません。……端が、スキャンの範囲から、出ています》
二百メートルを、ソウイチは黙って下った。
濃度は二十歩ごとに上がり続けた。
三割。四割。
剣の手応えが、一歩ごとに変わっていく。
坂の上で握り直したときは、刃に乗る魔素が糸のように細かった。
いまは、指の太さになっている。
視界の隅の操作画面も、坂の上では輪郭だけだったものが、下るにつれて数字を並べはじめた。
それと同じ速さで、下の反応がはっきりしていった。
《動いていません》
「寝てんのか」
《分かりません。……ですが、四十年以上、誰も来ていない場所です》
ソウイチは剣の柄を指で確かめた。抜いたまま、ここまで下りてきた。
「さっきの音は」
《岩を、こすった音です》アイは言った。
《この個体の、体表だと思います》
「……起きてんじゃねえか」
ソウイチは足を止めて背負子の紐を外した。
二十七・八キロを坂の脇の岩棚に下ろす。油も水も板も、全部そこに置いた。
腰に残したのは、剣だけだ。
「アイ。ここ、覚えといてくれ」
《記録しました。坂の下から数えて十四歩目。左の岩棚》
「戻ってこれなかったら」
《戻ってきてください》
ソウイチは笑って、松明だけを持ってまた下りはじめた。
*
坂が終わって、道が開けた。
水の音が、すぐそこにあった。
松明を掲げると、光の先で、黒い水面が鈍く光った。
浅い。膝までもない。
底の石まで見える。
縁の岩は、黒く濡れて光っていた。
その水面が、盛り上がった。
ソウイチは、半歩、下がった。
それだけだった。
水の中から出てきた太い何かが、さっきまで彼の胸があった高さを、横に薙いだ。風が、耳を叩いて抜けた。
――遅い。
そう思った自分に、少し驚いた。
白かった。
濡れた石のような、艶のある白。太さは大人の胴ほど。
長さは、光の届く範囲では終わりが見えない。
水場から半分だけ這い出して、こちらを向いている。
顔が無かった。
正確には、顔の位置に目が無い。
皮膚がそのまま滑らかに繋がっている。鼻も耳も無い。
あるのは口だけだった。
縦ではなく、左右に開く口。開いた内側に、細い歯が奥へ向かって何列も生えている。
《鑑定、通りません》アイの声が早口になった。
《図鑑に該当なし。名前も、脅威度も、出ません》
「だろうな」
ソウイチは剣を抜いた。
「――王国の調査隊が十二人来て、図鑑に一行も足せてないんだ。そういうことだろ」
白い胴が、しなった。
縄を振るような、重い動き。
速い。第九話の森の主より速い。
だが、見えていた。
ソウイチは足を止めたまま、上体だけを落とした。
胴が頭の上を通る。髪が、風に持っていかれた。
戻ってくる胴の下を、今度は歩いて抜けた。
走らなかった。走る必要がなかった。
三撃目で、ソウイチは初めて剣を振った。
通り過ぎる白い腹に、刃を当てる。走る。
皮膚が裂けて、粘つく液が飛んだ。
白い胴が、水場へ引いた。
「……硬いな」
ソウイチは刃を見た。
切れてはいる。だが浅い。
指の腹ほどの深さで止まっていた。
《表皮の下に、繊維状の層があります》アイが言った。
《刃を、逃がす構造です。横から斬っても、通りません》
「じゃあどこだ」
《腹側の、いちばん太いところ。そこに魔石があります。……ですが、正面から潜らないと、届きません》
「潜ればいいんだな」
《創一さん。一撃です》アイは言った。
《潜って外せば、次はありません。あの口の下です》
「分かってる」
白い胴が、また出てきた。
ソウイチは、その先端を見た。
――正確に、こっちを向いてる。
目が無い。耳も鼻も無い。
なのに、ソウイチが横に二歩動くと、顔の無い先端が、同じだけ横へ滑った。
「アイ」
《はい》
「こいつ、何で俺が分かる」
アイが、一拍、黙った。
その一拍で、ソウイチは答えを察した。
《――魔素です》
アイの声が、変わっていた。
《この個体は、周囲の魔素が、どこで、どう動いたかを追っています。目でも音でもありません。……創一さん。この個体が見ているのは、あなたではありません》
「じゃあ誰だ」
《わたしです》
ソウイチは、白い先端を見たまま、動かなかった。
《あなたは体内に魔力を持ちません。何も発していない。この個体にとって、あなたはそこに存在していません》アイの声は平坦だった。
《ですが、わたしが身体強化を通すたび、刃に魔素をまとわせるたび、鑑定を走らせるたび――そこに、光が点きます》
「……この三分で、何回だ」
《四十一回です》
白い胴が、その言葉を待っていたように、跳ねた。
ソウイチは身体を開いて、それを見送った。頬の横を、白い表面が抜けていった。
――全部、俺の場所を教えてたってことか。
息は上がっていない。脚も残っている。
背中も濡れていない。
身体は、いくらでも動く。
問題は、そこじゃなかった。
「アイ」
《はい》
「悪い」
《…………》
「もう一回、黙っててくれ」
《できません》
即答だった。
《身体強化を切れば、あなたの出力は落ちます。この個体の速度に――》
「ついていく必要ねえだろ」
ソウイチは、はっきりと言った。
「見えてない相手に、追いつく必要があるか?」
《――》
「こっちが見えなくなれば、あいつは俺を探す。探してるあいだ、あいつは止まる。俺は歩いて近づいて、潜って、刺す」
《外せば、死にます》
「外さねえよ」
長い間があった。
白い胴が、水場の縁で、左右に揺れている。ソウイチの位置を、まだ正確に捉えている。
《…………創一さん》
「なんだ」
《それは、この一年で、あなたが一度もやっていない状態です》
「やってたよ」
ソウイチは言った。
「毎日やってた。あの部屋で、一年間、ずっとだ」
《――了解しました》
《四十秒、落とします。それ以上は、あなたの脈拍の監視も切れます》
「じゅうぶんだ」
《創一さん》
「なんだ」
《――勝ってください》
視界の操作画面が畳まれた。
剣の手応えが抜けた。ただの硬い塊に戻る。
身体強化が抜けて、足の裏に、岩の硬さがそのまま届いた。
最後に、声が消えた。
――静かだ、とは思わなかった。
広い、と思った。
松明の届く範囲の外に、どれだけの闇があるのか、いままで考えたことがなかった。
アイが地形を読んでいたからだ。
天井の高さも、壁までの距離も、聞けば数字で返ってきた。
それが無い。
闇が、急に本当の大きさで、こちらへ寄ってきた。
――一人だ。
ソウイチは、その言葉を口の中で転がしてみた。
一人になったことなら、もう何度もある。白い穴の三時間も、二百段の下りも、松明を消して眠った夜も。
こいつの声が無い場所を歩くのは、慣れた。
だが。
――戦うときは、いつも、いた。
村を出て最初に兎を狩った日も。森の主が月を隠した夜も。
灰色の部屋で三百二十七回死んだ初日も、そのあとの三百六十四日も。
剣を握って、何かと向き合ったとき。
耳のそばに、あの声が無かったことが、一度もない。
――消えたんじゃない。
ソウイチは、暗闇の中で、そう思い直した。
白い穴のときは、入ったら勝手に消えた。奪われたのだ。
今度は違う。自分の口で、消させた。
その状態で。
目の前に、人を殺したものがいる。
――怖いか。
自分に聞いてみた。
答えは、返ってこなかった。
代わりに、右足が、勝手に半歩、前へ出ていた。
白い胴の動きが、止まった。
いままで正確にソウイチを追っていた顔の無い先端が、ゆっくりと左へ振れた。
右へ振れた。また左へ。
――迷ってる。
松明は、水から離れた乾いた岩の上に、立ててきた。
沈黙させる前に、最後にやったのがそれだった。あと四十秒、あれだけは消せない。
火はただの火だ。魔素じゃない。
だから、こいつには見えない。
自分の呼吸だけが、耳の中で鳴っていた。
一歩、出た。
濡れた岩に、足の裏の外側から置く。かかとを落とさない。
体重を移す。膝をぶれさせない。
――一年、これをやった。
灰色の空間で毎日。走って、止まって、また走った。
アイが組んだ地面を、音を立てずに。
何の役に立つのかと聞いたら、あいつは《いずれ》としか答えなかった。
二歩目。三歩目。
白い先端は、まだ左右に振れている。
距離、十メートル。
ソウイチは剣を腰の高さに構えた。
刃の角度を指で確かめる。
手のひらに、あの吸いつく感じは無い。ただの硬くて鋭い塊だ。
それでいい。
――ブレ幅、〇・六センチ。
一年かけて、七・二センチをそこまで削った。
いま要るのは、その数字だけだ。
七メートル。
白い胴が、水場のほうへ向き直った。諦めたのか、別の何かを感じたのか。
いまだ。
ソウイチは走った。
五歩で距離を潰した。三歩目までは音を殺した。
四歩目で、浅い水を踏んだ。
白い先端が、弾かれたようにこちらを向く。
口が、左右に開きはじめる。
その速度が、はっきり見えた。
〇・一倍速のスロー再生を、四ヶ月見続けた目だ。等速の動きは、いまはもう遅い。
ソウイチはその開きかけた口の下へ潜った。
白い腹。
鱗も甲羅も無い。濡れた皮膚だけ。
いちばん太いところの、少し前。
――ここだ。
ソウイチは剣を突き上げた。
肩から先だけで振らなかった。
踏み込んだ右脚から、腰、背中、肩、肘、手首。順番に力を通す。
一年、毎晩アイに数えさせた順番だった。
厚い皮膚が抵抗した。構わず体重を全部、柄に乗せた。
刃先が、硬いものに当たった。
――魔石だ。
押し込んだ。
割れる音が、腹の中から響いた。
白い胴が跳ね上がる。
ソウイチは剣から手を離した。
抜こうとしなかった。抜く時間が惜しかった。
柄を捨てて、その場から後ろへ、三歩で抜けた。
跳ね上がった胴が、さっきまで彼の頭があった空間を薙いだ。
ソウイチは膝を落として止まった。
背中を岩に打たなかった。転ばなかった。
息は、上がっていた。
初めて、上がっていた。
白い胴が、水場をめちゃくちゃに叩いた。
跳ねた水が、岩の上の松明まで届いた。火が細くなる。
ソウイチは走って松明を掴み、さらに奥の岩へ移した。火がひとつ息を吹き返す。
その明かりの中で、白い胴の動きが、少しずつ小さくなっていった。
止まるまで、ずいぶん長かった。
《――創一さん》
耳のすぐそばで、声が戻った。
「……おう」
《外傷、ありません》アイは言った。
《打撲も、裂傷も、骨の異常も、ありません》
「そりゃそうだ」
ソウイチは、掌を開いて、閉じた。
剣を握っていた形のまま、少ししびれている。それだけだった。
《三十四秒でした》
「……早かったか」
《いいえ》アイは言った。
《――ちょうどでした》
*
坂を十四歩登り返して、背負子を取ってきた。
紐を肩に掛け直した瞬間、二十七・八キロがずしりと戻ってきて、ソウイチは少しだけ笑った。
――こっちのほうが、落ち着く。
乾物を二切れと、水を三口。帰りのぶんを数えながら飲んだ。
剣は、白い胴の腹から抜いた。刃先が三センチ、欠けていた。
《ひとつ、報告します》アイが言った。
《この個体の魔石を、回収しました》
視界の隅に、握り拳ほどの灰色の石が浮いた。
ひびが入っている。ソウイチの剣が割ったところだ。
《それと、もうひとつ。この個体は、四十年以上ここにいます》
「分かるのか」
《水場の縁に、脱皮の痕が層になって残っています。いちばん下のものは、腐葉土に変わりかけていました》
ソウイチは、あの爪痕を思い出した。
白い穴の境界の手前。森の主が四十三年、掻き続けた土。
――同じだ。
ここにも、四十三年ぶんの跡がある。
《創一さん。……水場の、向こう側です》アイの声が、落ちた。
《骨が、あります》
ソウイチは松明を掲げ、水場を回り込んだ。
向こう側の岩の窪みに、それはあった。
人の骨だった。
仰向けではなかった。背中を岩に預けて、脚を投げ出して、座った格好のまま崩れている。
鎧の金具は無い。革帯も無い。
地上の十一人が着ていたものを、この人は着ていなかった。
右の脇腹のあたりの骨が、三本、まとめて無い。
折れて欠けたのではなかった。えぐり取られたような、丸い縁をしている。
《――この個体の口の形と、一致します》
膝の上に、木の板が二枚、載っていた。
ソウイチの背負子に入っているものと、同じ形の板だった。
「……あんたか」
ソウイチはその場に膝をついた。
骨は、逃げた姿勢ではなかった。座っていた。
背中を岩に預けて、膝に板を置いて、そこで動かなくなった。
《この方は、書いていたのだと思います》アイが静かに言った。
《脇腹を、えぐられた状態で、です》
ソウイチは手袋を外し、上の一枚を取った。
新しく彫った板ではなかった。地上の手記と同じ束の、使い残しだ。
表面に、彫りかけて消した線が一本、残っている。
文字は、地上で読んだのと同じ手だった。ただし、はるかに乱れていた。
線が震えて、途中で切れて、彫るというより引っ掻いてある。
読むのに長くかかった。
『下りたり。水あり。魔法、使える。』
ソウイチはそこで一度、目を閉じた。
――そうか。
あの円の中で、火も出せず、傷も塞げず、仲間が一人ずつ立てなくなっていくのを、この人は見ていた。何もできないまま、十一人を置いてきた。
そして、ここまで下りてきて、魔法が戻った。
どれだけ嬉しかっただろう。
『水より、出づ。』
『我に、寄り来たる。』
「……アイ」
《はい》
「この人、魔法を使ったって、どこにも書いてないよな」
《はい》
「なのに、来たのか」
《――創一さん。この方は、人間です》
ソウイチは、板から目を上げた。
《円の中では、体内の魔力が枯れます》アイは言った。
《ですが、円を出れば、また作られはじめます。……この方は、坂を下りきった時点で、それが戻っていました》
「…………」
《火も、魔法も、必要ありません》
アイの声が、平坦だった。
《生きていること、それ自体が、この個体からは、灯りに見えます》
二枚目。文字は、もう、ほとんど形になっていなかった。
『腹を、やられたり。』
『奥へ逃る。追い来たらず。なぜか、分からぬ。』
「……分からぬ、って書いてる」
ソウイチは、その一行を、指でなぞった。
「なんで追ってこなかったんだ」
《――この方の魔力が、尽きたからです》
ソウイチは、しばらく動かなかった。
《脇腹の傷です。出血で、体力が落ちる。体力が落ちれば、魔力の生成も止まります》アイは言った。
《ある一線を下回った時点で、この方は、この個体から見えなくなりました》
「……死にかけて」
《はい》
「死にかけて、やっと助かったのか」
《結果として、そうなります》
ソウイチは、自分の掌を見た。
この一年、魔素を使わない訓練をした。使わなくても歩けて、走れて、斬れる身体を作った。
あのときは、ただ強くなるためだと思っていた。
この人は、逆だ。
魔法が戻ってきたことが、嬉しかった。
当たり前だ。火が出せる。
傷が焼ける。動ける。
この世界の人間は、みんなそうやって生きている。魔素を使って、体温を保って、傷を治して、明日まで生き延びる。
それが、ここでは、灯りになる。
「……アイ」
《はい》
「俺が、この人と同じところを歩いてたら、どうなってた」
《どういう意味でしょう》
「脚も無事で、火も起こさないで、ただ歩いてきたとする。……それでも、来たか」
《――いいえ》アイは、静かに言った。
《あなたには、生成する魔力がありません。坂を下りても、円を出ても、ゼロのままです。……この個体には、最初から、見えません》
「だよな」
ソウイチは、板を膝に戻した。
――同じ場所を歩いて、片方だけが生きて帰る。
この人が死にかけてやっと手に入れた状態を、自分は、生まれたときから持っている。
第二話で笑われた数字が、あの日からずっと、自分の首に下がっている。
あれを笑ったやつらは、ここでは、全員死ぬ。
嬉しくはなかった。
二枚目の、残りを読んだ。
『動けぬ。血、止まらず。』
そして、その下。
『奥に、穴あり。』
文字が、そこで途切れていた。
次の一行を彫りかけた跡が、板に残っている。線が二本。
三本目の途中で、刃が滑ったように逸れて、そのまま終わっていた。
消したのではない。書けなかったのだと分かった。
そして、いちばん下に。
別の深さで、力を込めて、はっきりと。
『開けるな。』
ソウイチは長いこと、その一行を見ていた。
地上の手記には、こう書いてあった。
――これを読む者あらば。杖を持ちて出でよ。
あれは、託す言葉だった。
これは、違う。
「……あんたの仲間の杖、俺が持ってる」
ソウイチは、骨に向かって言った。
「家に置いてきた。ここじゃ、まだ使えないんだ。……アイが、人の中身を読めるようになったら、使う」
骨は、当然、何も言わなかった。
「だから、それまで預かる」
「――なあ、アイ」
《はい》
「この人たち、何しに来たんだ」
《……不明です》
「王命だって書いてあったよな。年代記に」
《“王命により、魔の森へ調査隊を派す。隊員十二名”》アイは、記録を読み上げるように言った。
《それだけです。目的は、一行も書かれていません》
「調査隊なら、調べに来たんだろ」
《その可能性は、あります》
「けど?」
《――調べに来ただけの隊が、あの大狼を鎖で繋ぎますか》
ソウイチは、顔を上げた。
《四名が深手を負ってまで、道を確保しています》アイは、一語ずつ置くように言った。
《そして十二人全員で、円の中へ入っている。誰も外に残していません。……見て、帰るつもりの編成ではありません》
「……じゃあ、開けに来たのか」
《分かりません》
「分からないって」
《本当に、分からないのです》アイは言った。
《点検に来た隊が、念のため全員で入った。そう読むこともできます。……ですが、もうひとつ、読み方があります》
《開けに来て、開けられなかった》
松明だけが鳴っていた。
「……開けに来た人間が」
ソウイチは、板を見た。
「最後に、開けるな、って書いたのか」
《その場合、この方は》アイは、そこで少しだけ、声を落とした。
《どこかで、何かを見たことになります》
ソウイチは、その言葉の意味を、少し遅れて理解した。
板を、もう一度見る。
『奥に、穴あり。』
その次の、彫りかけて終わっている線。
ゆっくりと、顔を上げた。
骨の座っている窪み。その、さらに奥。
岩が大きく裂けていた。人が二人並んで通れるほどの、縦の割れ目。
松明の光は、三メートルほどで届かなくなる。その先は、黒い。
「……見たんじゃないのか」
ソウイチは言った。
「ここで。動けなくなってから」
《…………》
「だから、書きかけて、やめたんだ」
アイは、しばらく答えなかった。
《――創一さん。濃度を測ります》
「頼む」
《割れ目の一メートル奥で、四割。三メートルで六割。五メートルで、地上と同じです》アイは言った。
《――その先が、読めません》
「光が届かないからか」
《いいえ。わたしのスキャンは、光を使いません。魔素を使います》
「じゃあ、なんで読めない」
《濃すぎるからです》
ソウイチは、割れ目の奥の黒を見た。
《濃度が、一定を超えると、分解能が落ちます》アイは言葉を選ぶように続けた。
《水の中で、水の音を聞き分けるようなものです。……輪郭が、全部、溶けます》
「じゃあ、そこに何かいるかどうかも」
《分かりません》
「いるとも、いないとも」
《どちらとも、言えません》
《創一さん。ひとつだけ、申し上げます》
「なんだ」
《読めない、というのは》アイは言った。
《わたしにとって、初めてです》
ソウイチは、割れ目の縁に手をついた。
顔を近づける。
風が来ていた。生ぬるい。
地下の風は冷たいはずだ。ここまで、ずっとそうだった。
松明を、持ち上げかけて――止めた。
「……油、何本だ」
《十一本です》
「水は」
《二リットルを、切っています》
「登りに何時間かかる」
《四時間から、五時間》
ソウイチは、割れ目から手を離した。
「――次だ」
《よろしいのですか》
「よくねえよ」ソウイチは言った。
「見たいに決まってんだろ」
松明を持ち直す。
「けどな。お前が読めないんだ」
《…………》
「お前が読めない場所に、油十一本で入るのか。俺が」
《――いいえ》
「だろ」
ソウイチは、板をもう一度見た。
「それに、この人が見て、書くのをやめて、代わりに開けるなって彫ったんだ。……それを、覗いて帰るだけってのは、失礼だろ」
《…………》
「準備してから、来る」
三度目の、同じ台詞だった。
ソウイチは、立ち上がった。
「アイ。帰るぞ」
《はい》
「この人も、連れて帰る」
ソウイチは、岩の窪みの骨を見た。
《……創一さん》
「板は八枚余ってる。ロープが四十メートル」ソウイチは言った。
「運べる」
《…………はい》
「四十三年だぞ」
ソウイチは屈み込んだ。
「――もう、いいだろ」
*
坂を登りながら、ソウイチは一度だけ振り返った。
水場は、もう見えない。松明の光は、そこまで届かない。
『開けるな。』
あの一行の意味が、少しだけ分かった気がした。
――あの人は、たぶん、開けようとしてた。
王様に言われて、十二人で来て、大狼を繋いで、道を通して、仲間を十一人置いてきて、それでも扉の前で二日粘った。
そして、開かなかった。開かないまま、ここまで下りてきて、腹を裂かれて、暗闇の中で、何かを見た。
開けるな、と。
「……何を見たんだ、あんた」
誰も答えなかった。
背中に、割れ目の闇があった。
ソウイチは、そこへ松明を向けなかった。
第16話、お読みいただきありがとうございました。
主人公は体内魔力がゼロです。この一点を、ずっと「落ちこぼれの証」として書いてきました。今回はじめて、それが武器になります。
相手には目も耳も鼻もありません。魔素が動いた場所だけを追ってきます。つまり追われていたのは主人公ではなく、彼を助けているAIのほうでした。避けるたび、守るたび、そこに灯りが点いていた。
だから彼は、自分の口でAIを黙らせます。前回やっと声が戻ってきたばかりなのに。
四十秒、本当に一人で戦います。
次回、いよいよ名前を探しに行きます。あの扉を開ける鍵は、この地下にはありません。
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