第15話 open(扉) return null
第15話です。石段の下へ。二百段、分かれ道が七つ、その先に、開かない扉があります。
そして地下の深いところで、あるものが戻ってきます。
『 名を、告げよ 』
「……ソウイチ」
何も、起きなかった。
「桐生創一。二十九歳。前の世界で、死んだ」
何も、起きなかった。
「…………レン。ヴェルダンの、南の村の。四男の、レン」
何も、起きなかった。
三つ持っていた。
捨てた名前と、選んだ名前と、前の世界の名前。
三つとも弾かれた。
*
――四時間前。
石段の一段目で、空気が変わった。
冷たい。乾いている。土の匂いではない。
石を、長いあいだ水が撫でていったあとの匂いだ。
十段目で、日の光が届かなくなった。
ソウイチはそこで足を止めて、火を起こした。
火打ち石を三十回打って、やっと芯に移った。
手が少し震えていた。寒さではない。
――ここでつかなかったら、それで終わりだった。
松明が、じり、と鳴って、壁を照らした。
*
背中に二十七・八キロ。
油壺が十二。芯を細く巻き直した松明が二十四本。
火打ち石を三つ。水が六リットル。乾物が七日ぶん。ロープが四十メートル。膝と肘に当てる皮。
そして、削った木の板を三十枚と、焼いて作った炭。
――これがいちばん重要だ、とアイに言ったら、あいつは少し黙った。
《……板と、炭がですか》
「地図だよ。向こうじゃ、お前が地形スキャンできない。頭の中の地図も出せない。何歩歩いたかも数えてくれない」
板を一枚、指で弾いてみせた。
「だから、俺が書く。曲がるたびに、一枚」
《…………》
「なんだよ」
《いえ》アイは言った。
《去年のあなたなら、その発想が、出てきませんでした》
*
ソウイチは、段を数えながら降りた。
十。二十。三十。
五十を過ぎたところで、ふと気づいた。
――軽い。
二十七・八キロが、背中にある。
一段ごとに、その全部が前の膝に乗っている。それを五十回、繰り返した。
息が上がっていなかった。
百段目。まだ上がらない。
百五十段目。腿の前が、じんわり熱を持ちはじめた。
それだけだ。
二百段目で、ソウイチは底に立って、一度深く息を吸った。
――去年なら。
去年の自分なら、この二百段の途中で座り込んでいた。荷なしでも怪しい。
あの円の中で、四歩で膝が折れた男だ。
「…………はっ」
声が勝手に出た。
嬉しいのか、可笑しいのか、自分でも分からなかった。
底は平らだった。
松明を掲げても、天井が見えない。左右の壁は見える。
人が三人並んで歩けるくらいの幅。それがまっすぐ先へ続いている。
ソウイチは板を出して、炭を走らせた。
――階段、二百段。底、通路、まっすぐ。
書いてから、少し考えて、余白に一行足した。
――脚、余裕あり。水、六リットル。松明、一本目。
歩いた。
何もいなかった。
虫も、蜘蛛の巣も、鼠も、苔も、かびも。四十三年、いや、それよりずっと長く閉じていたはずの地下に、生き物の痕跡が、ひとつも無い。
――そりゃそうか。
魔物は魔素で生きている。ここに魔素はない。
ただの虫や獣は、食うものがなければ来ない。ここには食えるものが何もない。
だから、何もいない。
安全だ、とソウイチは思った。
そう思ってから、背中がじわりと冷えた。
――安全だ。何も出ない。誰も襲ってこない。
だったら、ここで自分が死ぬとしたら、何に殺されるんだ。
答えはすぐに出た。
――自分の失敗にだ。
火を落とせば死ぬ。道を忘れれば死ぬ。水を落とせば死ぬ。
段を踏み外して脚を折れば、それだけで死ぬ。
この地下には敵が一匹もいない。だから、殺すものは全部、自分の側にある。
ソウイチは松明を、持ち直した。
握りが汗で滑っていた。
分かれ道は思ったより早く来た。
通路が三つに割れていた。
ソウイチは、それぞれの入口に松明を近づけて、壁を確かめた。
――あった。
左の入口の、腰の高さ。石に、傷が刻まれていた。
縦の線が一本。その根元から、右へ短く払う線が一本。
矢印だ。乱暴に、何度も刃を当てて彫った、深い傷。
「……あんたか」
ソウイチはその傷を、指でなぞった。
四十三年前、この矢印を刻んだ手がある。松明を片手に、剣の切っ先で、石を削った手が。
「案内、頼むわ」
板に、書いた。
――三叉。左に印あり。左を選ぶ。
書いた下に、線を引いて、こう足した。
――帰りは、右から出て、まっすぐ。
自分の書いた字が、下手すぎて、少し笑えた。
二つ目の分かれ道。印あり。
三つ目。印あり。
四つ目。印あり。
どれも同じ深さ、同じ角度、同じ乱暴さで彫られていた。
ソウイチは、そのたびに板を出し、炭を走らせ、荷を背負い直した。
――五つ目。
ここで、ソウイチの手が、止まった。
印が二つあった。
ひとつはこれまでと同じ矢印。右を指している。
その少し下に、もうひとつ。
こちらは線が浅かった。刻みが細く、途中で二度途切れている。
同じ刃で彫ったとは思えないほど、力が入っていない。
そして――逆を指していた。
深いほうは、右。
浅いほうは、左。
――書き足したのか。
最初に通ったとき、右へ行った。
そのあと、もう一度ここへ戻ってきて、左を指す印を彫り直した。
力の入らない手で。
「……あんた、帰りに、こっちを選んだのか」
ソウイチは左の入口に、松明を向けた。
通路が闇の奥へ、下っていた。
下り坂だ。ここまでの道は全部、水平だったのに。
――先に、扉だ。
ソウイチは、自分にそう言い聞かせて、右へ折れた。
六つ目。印あり。
七つ目。印あり。
七つ目を抜けたところで、ソウイチは荷を下ろした。
――腹が減った。
当たり前だった。家を出てから、何も食っていない。
そして、誰もそれを教えてくれない。
去年まではアイが数えていた。走行十二キロ。
素振り二千四百回。献立まで組んでくれていた。
いまは、腹が減ったと自分で気づいて、自分で座って、自分で袋を開ける。
乾物を三切れ。塩を少し。水を二口。
――二口だ。
飲みたいだけ飲めば、帰りが無くなる。
誰も止めてくれないから、自分で栓を閉めた。
松明の残りを数える。二本目の半ば。
板に書いた。
――七つ目通過。飯。水、残り五・二リットル。松明、二本目。
そして、通路が終わった。
扉だった。
高さは、ソウイチの背丈の三倍ほど。幅はその半分。
黒かった。
艶のある深い黒。磨いた黒曜石に似ている。
だが、黒曜石なら、松明を近づければ炎が映る。
映らなかった。
鏡のように滑らかな面に、火も、自分の顔も、何ひとつ映らない。光が当たった場所で、そのまま消えている。
ソウイチは手を伸ばした。
――冷たいだろうな。
そう思って、触れた。
冷たくなかった。
温かくもなかった。手のひらと、まったく同じ温度だった。
指を離して、数を数えてから、もう一度触れた。
やはり、同じだった。
――おかしい。
石なら、離しているあいだに冷える。金属ならもっと速く冷える。
この面は触れた瞬間に、こちらの体温になる。
枠と扉の境目に、線が一本走っていた。
床から天井まで、まっすぐに。
太さが上から下まで、少しも変わらない。人の手で引いた線なら、必ずどこかで太くなったり細くなったりするはずのものが、一本の毛ほども揺れていない。
爪を当てた。入らない。
板の端を差し込もうとした。入らない。
鍵穴は無かった。
扉の前の床に、それはあった。
革の背負い袋がひとつ。金属の水筒が二つ。
折れた剣が一本。燃え尽きた松明の柄が、六本。
どれもきちんと、壁際に寄せて置かれていた。散らかっていない。
倒れてもいない。置いた者が、あとで取りに来るつもりで、そこに並べたように見えた。
骨は、なかった。
ソウイチは松明を掲げて、扉の前を、端から端まで歩いた。壁際も、天井も、隅も。
人の骨は、ひとかけらも無かった。
そのとき、扉の面に文字が浮いた。
黒の中に、それより淡い黒で、線が引かれていた。さっきまで、何も無かったところに。
ソウイチは後ろへ二歩、下がった。
文字は消えなかった。
――見たことのない形だった。
この世界の文字ではない。書庫の千二百冊のどれにも、こんな形は無かった。
前の世界の、どの国の文字でもない。
曲線が三つ、縦の線に絡んでいる。ただの模様にしか見えない。
なのに。
読めた。
『 名を、告げよ 』
意味が入ってきた。
目で追ったのでもない。頭の中で組み立てたのでもない。
文字を見た瞬間に、意味だけが直接、置かれた。
――そして、いま。
*
三つ告げて、三つとも弾かれた。
ソウイチは扉の前に、座り込んだ。
文字はまだそこにあった。同じ言葉のまま、待っていた。
「……そういうことか」
鍵は下には無い。
あの男が最後の板に、そう書いた。
鍵は鉄でも、石でも、呪文でもなかった。
――名前だ。
この扉は、正しい名を知っている者にしか開かない。そして、その名はこの地下には無い。
どこかに在る。外に。
人の住む世界の、どこかに。
四十三年前、あの男もここで名を告げたはずだ。
自分の名を。隊長の名を。王の名を。
思いつく限りの名を、この平らな面に向かって、何度も。
そして、開かなかった。
「……あんたも、ここに座ったのか」
ソウイチは、壁際に並んだ背負い袋と水筒を見た。
きちんと寄せてある。倒れていない。
置いた者が、あとで取りに来るつもりで、並べたように。
――取りに、来なかった。
ソウイチは板を出した。
――扉。継ぎ目なし。鍵穴なし。触ると体温と同じ。文字が浮く。『名を、告げよ』。
――ソウイチ/桐生創一/レン、全部だめ。
――骨なし。荷物あり。
書いてから、その下に一行、書き足した。
――十二人目は、ここで死んでいない。
ソウイチはそのまま、そこで寝ることにした。
寝るしかなかった。歩いてきた時間から逆算して、外はもう夜だ。
ここで無理に動けば、判断が鈍る。
判断が鈍れば、道を間違える。道を間違えれば、油が尽きる。
問題は松明だった。
消せば、油が保つ。
消せば、完全な闇になる。
――そして、見張りがいない。
クッキーはいない。アイの結界もない。
何かが近づいても、教えてくれる相手が、この地下には一人もいない。
もっとも、とソウイチは思った。
――近づくものがそもそもいない。
それで、決めた。
ソウイチは松明を、石の床に押しつけて、消した。
闇は思っていたものと違った。
目を開けても閉じても、同じだった。手のひらを顔の前で振っても、何も見えない。
自分の身体の輪郭が、だんだん分からなくなってくる。
音が、無かった。
風も、葉擦れも、虫も、クッキーの寝息も。
聞こえるのは自分の心臓と、飲み込む音だけ。
ソウイチは壁に背中を預けて、膝を抱えた。
「……アイ」
返事は、ない。
分かっている。ここには魔素がない。
だからあいつは声を出せない。
外に置いてきたわけじゃない。
すぐ隣にいる。いるのに届かない。
「……起きたら、また歩くからな」
誰にも届かない声で、そう言った。
それでも、眠れた。
一年、灰色の空間で寝起きした身体は、暗さを、あまり気にしなかった。
*
目が覚めて、火を起こすのに、また三十回打った。
板を出す。
――寝た。時間、不明。松明、三本目。水、四・八リットル。
字が昨日より、少し上手くなっていた。
帰り道は、板を一枚ずつ確かめながら辿った。
自分の書いた字が、自分でも読みにくい。二つ目の板で、右と左を取り違えかけて、十歩戻った。
脚はまだ余っていた。
だが、頭の後ろが、じん、と重かった。
――寝たのに。
当たり前だ、とソウイチは思った。
この地下で、頭は一度も休んでいない。
分岐のたびに板を確かめ、松明の残りを数え、水の量を計算し、間違えたら死ぬと知りながら歩いている。
それを、誰とも分け合っていない。
削られていたのは、脚じゃなかった。
そして、五つ目の分岐に戻ってきた。
浅いほうの矢印が、そこにあった。
左を指していた。力の入らない手で、あの男が彫り直した傷。
ソウイチは松明を、その口に向けた。
通路が闇の奥へ、下っていた。
――油は。
数えた。四本目の半ば。
残り、二十本と少し。
水は四・八リットル。乾物はまだ六日ぶんある。
――行ける。
いや、と、ソウイチは思い直した。
行けるんじゃない。
――行かなきゃ、この人が、何のためにここを彫ったのか、分からないままだ。
「……付き合うよ」
ソウイチは左へ、足を踏み出した。
下り坂は急だった。
石の床がそのまま傾いている。段は無い。
滑らないように、足の裏で一歩ずつ確かめながら降りた。
十分。二十分。
壁の様子が変わりはじめた。
継ぎ目が粗くなっていた。ここまでの、隙間ひとつ無い石組みではない。
上から下へ、切り出した石を積んだだけの、明らかに「人が作った」壁だ。
――途中から、作りが違う。
もっと降りた。
やがて、壁が石ですらなくなった。
剥き出しの岩だった。
人が掘った跡もない。もともとあった裂け目に、道が繋がっただけの場所だ。
三十分ほど降りたところで――ソウイチは足を止めた。
何かが変だった。
何が変なのか、しばらく分からなかった。
松明は燃えている。足元は見えている。道は続いている。
――音だ。
水の音がした。
遠い。ずっと下のほう。
細い流れが、岩を伝っているような、小さな音。
ソウイチは松明を掲げたまま、立ち尽くした。
――水がある。
水があるということは。
そのとき、耳の奥で何かが鳴った。
半年以上、いや、亜空間の一年を足せば一年半、ずっとそこにあった、微かな気配。
白い穴に入るたびに、すとん、と落ちていたもの。
それが戻ってきた。
小さかった。ほとんど何も無いに等しい。
だが、確かに鳴っていた。
ソウイチの喉が、詰まった。
「……アイ」
返事はなかった。
「アイ!」
なかった。
ソウイチは坂を、駆け降りた。
十歩。二十歩。
気配が濃くなる。
三十歩。
視界の隅に、光の粒がひとつ灯った。
操作画面だ。開ききらない。
輪郭だけが明滅している。
四十歩。
五十歩。
《…………さん》
ソウイチは、足を止められなかった。
《…………創一、さん》
途切れ、途切れ。
水の底から浮いてくるような、遠い声だった。
六十歩。七十歩。
《創一さん》
――近い。
《創一さん。聞こえますか》
「――聞こえる!」
ソウイチは叫んだ。
「聞こえてる! アイ!」
八十歩目で、それがはっきり通った。
《――創一さん》
耳のすぐそばで、その声がいつもの位置に戻ってきた。
ソウイチは坂の途中で、立ち止まった。
肩が大きく上下していた。走ったからではなかった。
「……お前」
《はい》
「なんで、いる」
《魔素があります》アイははっきりと言った。
《濃度、地上のおよそ二割。ですが、ゼロではありません》
ソウイチはその場に、へたり込んだ。
膝に、力が入らなかった。二百段でも、七つの分岐でも、闇の中の一晩でも入っていた力が、ここでようやく抜けた。
「……はは」
《創一さん?》
「いや」ソウイチは手のひらで、目のあたりを押さえた。
「……なんでもない」
《心拍数が》
「言うな」
《……はい》
しばらくして、ソウイチは顔を上げた。
「で。どうなってんだ、これ」
《いま、測っています》アイの声は、いつもの平坦さに戻っていた。
《坂を下るにつれて、濃度が上がっています。二十歩ごとに、およそ〇・三パーセント》
「じゃあ、上は」
《ゼロです。境界の内側も、石段も、通路も、扉の前も。……創一さん。魔素が無いのは、上だけです》
ソウイチは来た坂を、振り返った。
闇。松明の届く範囲だけが、赤い。
「……蓋か」
《――と、いいますと》
「あの円、蓋だったんじゃないか」
ソウイチはゆっくりと言った。
「魔素を抜いた三百二メートルの円。魔物は入れない。人も、何日かで動けなくなる。……あれが、この下に来させないための蓋だったなら、全部、辻褄が合う」
《…………》
「どうだ」
《仮説として、成立します》アイは慎重だった。
《ですが、そうだとすると、もうひとつ、言えることがあります》
「言えよ」
《蓋は、何かを閉じ込めるためか――何かを、守るために、します》
ソウイチは坂の下を見た。
水の音がまだしている。さっきより、少し大きい。
「アイ。地形スキャン、通るか」
《――やってみます》
視界に、地図が広がりかけて、途中で砂のように崩れた。
《だめです。濃度が足りません》アイは言った。
《ですが、この先、あと二百メートルほど下れば、届くと思います》
「行くか」
《油が、十九本》アイが即座に返した。
《水が、四・八リットル。ここから二百メートル下ると、帰りの上りが、さらに増えます》
「……分かってる」
ソウイチは松明を持ち直した。
握りがまた、汗で滑っていた。
ただし今度は、恐怖のせいだけではなかった。
《創一さん》
「なんだ」
《ひとつ、報告します》アイは言った。
《ここには、魔素があります。それはつまり――》
「――生きられる、ってことだよな」
《はい》
ソウイチは腰の剣に、手を置いた。
あの、ただの硬い塊だったものが、手のひらに吸いついた。
「……戻ってきたな、お前も」
《はい》
ソウイチは笑った。
この地下で、初めて笑った。
「ちょうどいい」
剣を鞘から抜いた。
白い刃が松明の火を、まっすぐ返した。
「一年ぶんの成果、まだ誰にも見せてないんだよ」
坂の下から、水の音に混じって――何かがこすれる音がした。
第15話、お読みいただきありがとうございました。
地下には魔物が一匹もいません。魔素がないので、生きられないからです。つまりこの回、主人公を殺しうるものは、火が消えることと、道を忘れることと、水を切らすことだけです。敵がいないほうが怖い、という回を書いてみたかったのです。
もうひとつ書きたかったのは、一年ぶんの身体でした。あの円の中で四歩で膝が折れた男が、二十七・八キロを担いで二百段を降りて、息も上がらない。そこだけは、はっきり見せておきたかった。
そして扉は、鍵ではなく名前を要求します。彼は三つ持っていて、三つとも弾かれます。
次回、坂の下へ。魔素があるということは――そこには、生きているものがいます。
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