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転生したのに魔力ゼロの落ちこぼれ〜自作AIと始める異世界無双〜  作者: NT


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14/21

第14話 for (302) { walk(); }

第14話です。魔素のない三百二メートルを、素の身体だけで歩きます。


アイの声は、届きません。

 床の上で、荷物を二つの山に分けた。


 左が持っていくもの。

 右が置いていくもの。


 ――右の山は全部、アイが作ったものだった。


  *


 亜空間から出て、二日目の朝だった。

 ソウイチは家の床に、荷物を全部ぶちまけていた。


「アイ。もう平気か」


《一年ぶんの記録の照合は、ひと晩で終わりました》アイの声はいつも通りだった。


《結界も、収納も、通常出力に戻しています》


「早ぇな」


《わたしは眠りませんので》


「……そうだったな」


 ソウイチは笑った。


「よし。じゃあ、持ち物の会議だ」


《どうぞ》


「向こうじゃ収納が使えない。だから、持ってくもんは全部、俺が背負う。……ここ、分かってるか」


《はい。亜空間の口も、あの内側では開きません》


「で、俺の背負える量は、限りがある」


 ソウイチは床の上のものを、指で二つに分けはじめた。


 水袋。干し肉。塩。松明と火打ち石。油紙。ロープ。折り畳んだ毛布。厚手の手袋。牙の剣。


 そして、ゆうべ自分で組み直した、木の枠だけの背負子。

 もう一方には外套。鑑定用の石板。


 アイが編んだ魔素の伝声管。魔素で軽くしてある、いつもの背負子。


「――こっちは全部、置いてく」


《……》


「向こうで動かないものを持ってっても、重りにしかならねえだろ」


《はい》アイは少しの間のあと、そう言った。


《正しい判断です。ですが、いま、あなたが分けたものの片側は、全部わたしが作ったものです》


「そうだよ」ソウイチはあっさり頷いた。


「だから今回は、置いてく」


 水は四リットル。乾物は三日ぶん。

 全部を麻布で包んで、革紐で縛って、背中に固定した。


「重さは」


《十九・四キログラムです》


「……去年の俺だと」


《三百メートル歩けません》


「今は?」


《――余裕です》アイは一拍おいて、そう言った。


《その数字は、あなたが十一ヶ月目に担いでいた重量より、〇・八キロ軽い》


 ソウイチは背負子の紐を、肩に食い込ませて、笑った。


 背負って外へ出ようとすると、クッキーが扉の前に座って動かなかった。


 琥珀色の目が、まっすぐこちらを見ている。行く気満々の目だ。


 一年で背も胸も厚くなって、もう「芝犬みたいな猫」とは言いにくい。


 腰の位置がソウイチの膝を越えている。


「……お前は、留守番だ」


 クッキーの耳が、ぱたりと倒れた。


「入ったら死ぬんだよ、お前。分かってんだろ」


 喉の奥で低い音が鳴った。抗議だった。


 ソウイチはしゃがんで、その頭に額をくっつけた。


「――家、頼む」


 言葉が通じるはずはない。

 それでも、その一言のあと、クッキーはゆっくりと立ち上がって、扉の前をどいた。


《この子の魔素感知は、この一年で、当初の四倍以上に伸びました》アイが静かに言った。


《家のまわりなら、この子のほうが先に気づきます。わたしが結界で見て、この子がその内側を見ます》


「……で?」


《――創一さん。この子はもう、守られる側ではありません》


「知ってる」


  *


 北へ、半日。


 森が薄くなって、木が途切れて、あの線が見えた。


 こちら側は苔むした巨木。一歩向こうは剥き出しの土。

 境目の手前の地面は相変わらず、爪痕でめちゃくちゃに掻き乱されている。四十三年ぶんの、届かなかった手の跡だ。


 ソウイチは背負子を下ろした。


「アイ。段取り、もう一回」


《はい》アイの声が少しだけ硬くなった。


《わたしは、あなたと一緒に、入ります》


「――そこだよ。そこがまだ、飲み込めてない」


 ソウイチは境界の線を、顎で示した。


「お前、俺のスキルだろ。俺が入ったら、お前も入る。置いてけるもんじゃない」


《はい。置いていくことは、できません》アイは静かに言った。


《わたしは、あなたの内側にいます。ですが、演算も、表示も、声も、外の魔素を媒体にしています。――媒体が無くなるだけです》


「……つまり」


《わたしはそこにいます。あなたの、すぐ隣に。ただ、何ひとつ、届きません》


 ソウイチはしばらく黙っていた。


 ――置いていく方が、まだましだった気がした。


「……時間は」


《数えられません》アイの声は正直だった。


《中では、わたしにとって時間そのものが、存在しないのと同じです。あなたが線を越えた瞬間から、越えて戻る瞬間まで――わたしには、何もありません》


「じゃあ、日没を見るのは」


《あなたです》


 ソウイチはゆっくりと息を吐いた。


「――太陽が、あの森の縁に触れたら、何があっても引き返す」


《はい》


「途中でも、下が気になっても、引き返す」


《……はい》


「言ったからな。忘れんなよ」


《忘れません》アイはそう言ってから、少しだけ間をおいた。


《ただし、忘れないでいられるのは、線の、こちら側だけです》


 ソウイチは線の手前に立った。


 背中に十九・四キロ。腰に、ただ硬いだけになる予定の剣。

 それだけだ。


 振り返る。

 クッキーはいない。家にいる。

 視界の隅に、いつもの薄い影があった。光を透かした、小さな輪郭。


 ただ、その両手だけが、はっきりとした形を持っている。指も、爪も、関節も。


 この一年、夜に三十分ずつかけて、自分で作った手だった。


「なあ、アイ」


《はい》


「向こうでも、そこにいるんだよな」


《います》


「見えなくても?」


 一拍、間があった。


《――見えなくても、あります》アイは言った。


《それは、あなたが、作ったからです》


 ソウイチは笑った。


「じゃ、行ってくる」


《行ってらっしゃい》


 ソウイチは一歩、踏み出した。


  *


 ――世界から、何かが抜けた。


 二度目だった。

 一度目のときは、それが何なのか分からなかった。今度ははっきり分かった。


 耳の奥で、一年半ずっと鳴っていた、微かな気配。それが、すとん、と落ちる。

 視界の隅の操作画面が、音もなく畳まれて、消える。

 腰の剣から、あの吸いつくような感じが失せて、ただの硬い塊に変わる。


 そして、静かになった。


 風の音はある。土を踏む音もある。


 自分の心臓の音も、耳障りなくらい大きい。

 消えたのは音ではなかった。


 ――隣にいるはずだった。


 ソウイチは右の、何もない空間を見た。

 薄い影も、両手も、そこには無い。それでも、いる。


 いるのに何ひとつ、こちらへ届いていない。


 置いていかれるより、たちが悪いな、と思った。


 ソウイチはそこで、立ち止まらなかった。


 二歩目。三歩目。四歩目。


 膝は折れなかった。


 十歩ほど歩いて、ソウイチは少しだけ拍子抜けした。


 ――普通に、歩けるな。


 当たり前だった。ここはただの平地だ。

 日が差している。風が抜ける。


 土は乾いていて、少しだけ柔らかい。


 段差もない。斜面もない。


 危ないものは何ひとつ、無かった。


 無いのに、背中がざわついていた。


「……歩けてるぞ」


 声に出しても、返事はない。


 それでも、言った。


 歩数を数えた。


 ひとつ、ふたつ、と数えていって、百を越えたところで、指を折るのをやめて、頭の中の数字だけにした。

 一年間、毎日やったことだ。


 走行十二キロ。素振り二千四百回。重量二十・二キロ。


 数えるのはアイの仕事だった。


 いまは自分でやる。


 ――百二十。百二十一。百二十二。


 歩幅はおよそ七十センチ。四百三十歩前後で、三百二メートル。

 計算して、ソウイチは少しだけ可笑しくなった。


 こういう計算も去年までは全部、耳元の声がやっていた。


 二百歩を越えたあたりで、脇腹がじわりと痛んだ。


 去年の傷ではない。ただの疲労だ。

 ソウイチは歩調を落とさなかった。


 ――前は、四歩だった。


 そう思いかけて、ソウイチは自分に、きちんと言い直した。


 あのときは、肋が治りきっていなかった。


 半月前に折れたばかりの骨で、身体強化を剥がされて、息を吸うたびに内側から刺されていた。


 あれは、いまと比べていい状態じゃない。

 治っていれば、たぶん歩けた。


 ――歩けただけだ。


 三百二メートルを、手ぶらで往きだけ。それが去年の自分の限界だ。

 いまは違う。背中に十九・四キロ。


 往復六百四メートル。着いた先で荷を下ろして、調べて、また背負って帰る。


 そこまでやって、まだ脚が残っている。


 その差が一年だった。


 三百歩を越えて、視界の先にそれが見えてきた。


 地面から、細長いものが何本も突き出している。

 遠くから見たときは、等間隔に並んでいるように見えた。近づくと、そうではなかった。


 ばらばらだった。


 二本が寄り添うように立っている場所があり、そこから十歩以上離れて、ぽつんと一本だけがある。


 三本が、ほとんど倒れかけた角度で固まっている場所もある。並べたのではない。

 ――倒れた場所に、そのまま立てたのだ。


 ソウイチは足を止めた。


「…………剣か」


 剣だった。


 十二本――そう見えた。

 どれも切っ先を下にして、地面に突き立てられていた。


 深く刺さっているものもあれば、十センチほどしか埋まっていないものもある。


 真っ直ぐなものは少ない。


 鞘はない。刃は赤黒く錆びて、根元のあたりは腐り落ちて薄くなっている。


 それでも、折れているものは一本もなかった。


 四十三年、風と日にさらされて、それでも立っていた。


 誰かが立てたのだ。


 ソウイチは背負子を下ろして、いちばん手前の一本の前に、しゃがみ込んだ。


 そのすぐ脇にあった。


 骨だった。


 白いというより、灰に近い色をしていた。土の上に、半分だけ埋まっている。


 土に沈んだのではない。


 四十三年ぶんの風が、少しずつ砂を運んで、そこまで埋めただけだ。

 形は崩れているが、頭蓋の輪郭ははっきり分かる。


 その周りに、留め具の朽ちた革帯と、青緑に錆びた金具が散らばっている。鎧の名残だ。


 ――埋まってない。


 ソウイチはそこで、気づいた。


 誰も掘っていない。

 穴も、盛り土も、石を積んだ跡もない。この人は倒れたそのままの場所に、四十三年置かれている。


 ソウイチはしばらく動けなかった。


 ――四十三年前。ここに人が来た。


 名前があって、村があって、たぶん帰りを待っていた誰かがいた。

 その全部が、この灰色の輪郭になっていた。


 ソウイチは額を、地面につけた。


「……勝手に、触ります。すいません」


 声は誰にも届かなかった。

 届かないと分かっていて、言った。


 二本目。骨があった。

 三本目。あった。

 四本目、五本目、六本目。


 ソウイチは一本ずつ、確かめて回った。数えるのはもう癖になっている。


 七本目。八本目。九本目。十本目。十一本目。


 ――十一。


 そして、十二本目の前に立って、ソウイチは動きを止めた。


 その一本だけが、違った。


 石段の口の、まっすぐ正面に立っていた。

 傾いていない。深さも他のどれより深い。


 柄頭がちょうど腰の高さで、こちらを向いている。


 その脇に骨がなかった。


 革帯もない。金具もない。


 土は、他の場所と同じように乾いていて、掘り返された跡もない。

 ただ、剣だけがそこに立っていた。


 ソウイチの背中を、冷たいものが走った。


 ――こいつだけ、ちゃんと立ってる。


 倒れた場所に、力任せに押し込んだのではない。場所を選んで、向きを決めて、まっすぐに立てた一本。

 そんなことができるのは、まだ立って歩ける人間だけだ。


 いや。

 もうひとつ、おかしいことがあった。


 ソウイチは剣と剣のあいだを、縫うように歩いた。


 十二本の中で一本だけ、剣ではないものが混じっていた。


 最初は気づかなかった。同じくらいの高さで、同じように地面に刺さっていたからだ。

 だが、それには刃がなかった。


 ――杖だった。


 白木のまっすぐな杖。


 両手で握れるくらいの長さで、頭のところが、内側に巻き込むように曲げられている。


 表面には細かい刻みが、びっしりと入っていた。


 文字ではない。もっと規則的な、目盛りのような刻みだ。


 四十三年、雨風に打たれて、木は灰色に乾ききっている。それなのに、割れていなかった。


 ソウイチは手を伸ばして――止めた。


 その根元にも骨があった。

 他の骨と、少しだけ違う。鎧の金具がない。


 代わりに、胸のあたりに、指の長さほどの、金属の板が落ちていた。


 拾い上げる。

 表面に彫られていた。


 剣と、天秤と、茨。


 ――王家の紋章だ。あの鎖の留め具と、同じものだ。


 その下にもうひとつ、別の意匠が重なっていた。円と、そこから伸びる三本の線。


《王家の紋章の変遷と照合しました》


 耳の奥で覚えのある声が、勝手に再生された。

 実際には何も聞こえていない。


「……お前がいたら、これ、一秒で分かるんだろうな」


 骨のそばに、革の袋が転がっていた。


 ――ここに置いたのか。


 十二本、どこに置いてもよかったはずだ。

 なのに袋は剣ではなく、この杖の脇にあった。選んだ、ということだ。


 紐は朽ちていた。ソウイチが持ち上げると、袋の口が力なく開いた。

 中に束があった。


 紙ではない。薄く削いだ木の板を、革紐で綴じたものだ。


 表面は油を染ませてあるらしく、四十三年ぶんの湿気を、まだ弾いていた。


 ソウイチはそれを膝の上に置いて、開いた。


 文字が、あった。


 ――読めるか。


 村を出る前、あの石室の書庫で、三日のあいだに千二百冊をめくった。

 あのとき、自分は読んでいない。ページを開いて、めくって、目に映しただけだ。


 読んだのはアイで、意味を持って帰ったのも、アイだった。


 それでも、同じ形を何千回と通せば、目の方が勝手に覚える。


 ――全部は、読めない。


 拾えるのは見覚えのある単語と、数字だけだ。あいだを繋ぐのは、自分の頭でやるしかない。

 しかも、綴りが古い。いまの書き方より、線が一本ずつ多い。


 一行を読むのに、ひどく時間がかかった。


 ――いつもなら、アイが一秒で読み上げるところだ。


 ソウイチは日の位置を確かめた。

 まだ高い。だが、読み終わるまでにどれだけかかるか、見当がつかない。


 ――さっさと持ち帰って、外で読めばいい。


 そう思って、一度は束を閉じた。

 それから、また開いた。


 ここで死んだ十二人の書いたものを、この場所で読まずに、どこで読むのか。


 ソウイチは腰を落ち着けた。


 最初の何枚かは、日付と隊列の記録だった。


 王命により、魔の森へ。


 隊員十二名。北の空白を調べよ。


 ――空白。

 四十三年前から、この穴は地図の上で「空白」だった。


 次の板で手が止まった。


 『森に、大狼あり。四名、深手を負う。討つこと能わず、鎖にて固定す。空白への道を確保せり。』


 ソウイチはそこを、二度読んだ。


 ――順番が、逆だ。


 あの鎖は森の主を「捕らえるために」持ち込まれたんじゃない。

 邪魔だったから、殺せなかったから、繋いだだけだ。ここへ来る道を通すために。


 そして森の主は四十三年、繋がれたまま、この線の手前で爪を立て続けた。


「……悪いな、じいさん」


 ソウイチは誰にともなく、そう言った。


 次の板から、文字が乱れはじめた。


 『空白に入る。中央に、石の口あり。下へ続く。』

 『魔法が、使えぬ。』


 ソウイチの指が、止まった。


 『火が出ぬ。傷が塞がらぬ。マルティンの脚は、外で治せしはずのもの。中では、ただの傷なり。』

 『我ら、魔法を前提に荷を組めり。油も薪も、持たず。水は術にて作れるはずなりき。誤りなり。』


 ソウイチは自分の背負子を見た。


 水袋。松明。火打ち石。油紙。


 ――ゆうべ、床の上で二つに分けたのと、まったく同じ選別だった。

 こいつらはそれを、入ってから気づいた。


 『二日目。荷を組み直し、下へ降りる。三日で戻る算段なり。』


 ソウイチは次の板をめくった。


 『段、二百を数えて、なお下る。』

 『底に至る。通路、西へ。松明の届かぬ広さなり。』

 『分かれ道、七つ。印を刻みつつ進む。』


 ――七つ。


 ソウイチは石段の口の方を見た。

 地面に開いた、四角い黒い口。あそこから先が、七つに分かれるほど広い。


 『扉に至る。開かず。押しても引いても、動かず。鍵穴なし。』

 『二日、扉の前に留まる。手立て尽く。』

 『引き返す。』


 そこから、日付が消えた。


 『何日目か、分からぬ。日が見えぬ。』


 ソウイチはその一行の上で、指を止めた。


 ――そうだ。


 地下には日が差さない。

 朝も夜も来ない。何日経ったのか、数える手がかりが、何ひとつ無い。


 『上りが、重い。降りたときの倍、かかる。』

 『ヨナス、段の途中で座り込む。傷なし。熱もなし。ただ、立てぬと言う。』

 『皆で担ぐ。三段ごとに休む。』

 『寒し。地の底は、こういうものかと思いしが、外へ出ても、寒し。』


 『地上に出づ。』


 ソウイチはその三文字を、しばらく見ていた。


 彼らは戻ってきたのだ。

 あの黒い口から、動けない仲間を担いで二百段を、三段ごとに休みながら。


 そして、地上に出た。


 ――出た先が、ここだ。


 ソウイチは顔を上げて、境界の方を見た。

 三百二メートル。木々の緑が遠くに、細く見える。


 『残り、四百歩ほどなり。今日は、動けぬ。明日、出る。』


 『明日、出る。』

 『明日、出る。』

 『マルティン、逝く。』

 『脚の立つ者、四名。明日こそ、と皆で決む。』

 『四名、出でんとす。百歩に至らず、皆、這い戻る。』


 ソウイチは板を、膝の上に置いた。


 息をひとつ吐いた。


 ――四百歩だ。


 いまの自分なら、走らなくても四分で着く。手ぶらなら三分もかからない。

 その四百歩の、百歩も行けずに、彼らは這って戻ってきた。


 怠けたわけじゃない。判断を誤ったわけでもない。

 地下から這い出てきた時点で、もう身体が四百歩ぶん残っていなかった。それだけだ。


 ――何に、削られたんだ。


 傷はない。熱もない。病でもない。

 なのに、日を追って、立てなくなる。


 ソウイチはその答えを、まだ持っていなかった。


 板はあと三枚だった。


 『十一名。埋むる力なし。』


 ソウイチは目を上げた。


 ばらばらに突き立った、十本の錆びた刃と、一本の白木。そのどれもが、骨のすぐ脇に立っている。


 『各々の剣を、その傍らに立つるのみ。許されよ。』


 ――そういうことか。


 葬ってなんかいない。

 穴を掘る力も、遺体を運ぶ力も、もう無かった。


 倒れた者の剣を抜いて、その脇の地面に、体重をかけて押し込む。


 それだけが彼にできた全部だった。


 剣を一本立てるのは、柄を両手で持って、上から乗ればいい。

 人ひとりを埋めるのは、そうはいかない。


 ソウイチは、いちばん傾いた一本を見た。

 切っ先が十センチも入っていない。あれを立てたとき、この男はもう、それだけの力しか残っていなかったのだ。


 次の板。


 『我が剣も、共に立てたり。あとは、下へ行くのみ。』


 ――そこで、腑に落ちた。


 十二本目の、あのまっすぐな一本。

 あれを立てたのは十二人目自身だ。骨がないのはまだ、そこで死んでいないからだ。


 彼は自分の墓を、自分の手で立てた。

 まだ立って歩けるうちに、いちばん深く、いちばんまっすぐに。


 そして――外へは向かわなかった。


 どちらを向いても、四百歩ほどで森だった。

 彼はその全部に背を向けて、石段を降りたことになる。


 ――なった、というだけだ。


 ソウイチは自分に、そう釘を刺した。

 骨が無い。手記に「下へ行く」と書いてある。


 分かっているのはそれだけだ。降りるところを見た者は、誰もいない。


 最後の一枚に、二行だけあった。


 文字はそれまでより、はるかに大きく荒かった。書き慣れた手が、最後に力任せに彫ったのだと分かる。


 『扉、開かず。鍵は、下にはあらず。』


 そして、いちばん下に。


 『これを読む者あらば。杖を持ちて出でよ。我には、もはや、無用なり。』


 ――だから、袋は杖の足元にあったのか。


 ソウイチは、しばらく動かなかった。


 風が乾いた土の上を、まっすぐに抜けていった。

 この円の中には草も虫もいない。音を立てるものが、何もない。


 やがて、ソウイチは立ち上がって、杖の前に立った。


「……もらいます」


 両手で、まっすぐに引き抜いた。


 思ったより、軽かった。四十三年、地面に刺さっていたとは思えないほど、下の方まで、しっかり硬いままだった。


 握ってみる。

 何も起きない。当たり前だ。


 ここには魔素がない。


 それでも、手のひらに刻みの凹凸が食い込んだとき、ソウイチははっきりと思った。


 ――これは渡されたものだ。


 石段はそのすぐ先にあった。


 地面に、四角い口が開いている。

 縁は、切り出した石で組まれていた。継ぎ目に隙間がない。


 この世界の石工の仕事にしては、精度が異常だった。


 ソウイチは口の縁まで行って、覗き込んだ。


 段が下へ続いていた。

 十段ほどまでは日が届いて、灰色に見える。その先は真っ黒だった。


 空気が下から、ゆっくりと上がってきていた。

 冷たい。土の匂いではない。


 石の、それも、ずっと水に洗われていたような匂いだ。


 ――四十三年前、ここを一人で降りた男がいる。


 ソウイチは松明を出しかけて、手を止めた。


 ――待て。


 ここでは火が出ない。火打ち石はある。


 だが、下がどこまで続いているのか分からない。松明の油は一本ぶん。


 水は残り三リットル。そして日はもう西の梢に近い。

 そして何より、下で何かあっても、耳元にあの声はない。


 ソウイチは深く、息を吐いた。


「……今日は、やめだ」


 声に出して、自分に言い聞かせた。


 一年間、毎日聞かされた声を思い出す。

 ――勝率を出し、危険を告げ、それでも最後は「決めるのはあなたです」と言う声。


「準備してから、来る」


 ソウイチは石段に背を向けた。


  *


 帰りの三百二メートルは、往きより重かった。


 背負子に杖と、木の板の束と、紋章の板が増えている。重さで言えば大したことはない。

 重かったのはたぶん別のものだ。


 二百歩を過ぎたあたりで、ソウイチは一度だけ振り返った。


 ばらばらに突き立った十一本の刃が、夕日の中で、それぞれ勝手な向きに、細い影を伸ばしていた。


 境界の線が見えた。


 向こう側の木々が、夕日で赤く縁取られている。

 あの一メートル先に、三時間ぶんの言葉が、溜まっているはずだった。


 ソウイチは最後の十歩を走った。


  *


 線を越えた瞬間、世界が戻ってきた。


《創一さん》


 耳のすぐそばで、その声が弾けた。


 全身に、魔素がじわりと回る。疲労が消えるわけではない。


 ただ、身体の外側に、ずっと着ていたはずの何かが、返ってきた。

 視界の隅で、操作画面がするりと開いた。


「……ただいま」


《おかえりなさい》


 アイはそれだけ言って、しばらく黙っていた。


「なんだよ」


《…………いま、太陽の位置を、測りました》アイはゆっくりと言った。


《日没まで、あと、四十分あります》


「約束は守ったろ」


《はい》


「怒ってんのか」


《いいえ》アイははっきりと言った。


《ただ、いまの三時間を、わたしは、記録として持っていません。あなたが線を越えてから、越えて戻るまで――わたしの中には、何も残っていない》


 ソウイチは空を仰いだまま、そうか、と言った。


《次からは、戻ってきたら、話してください》アイは言った。


《何があったのか。……わたしの記録に、書き足したいので》


「――おう」


 ソウイチは背負子を下ろして、その場に座り込んだ。


 そして、杖を地面に置いた。


「アイ。これ、見てくれ」


《――》


 アイの声が途中で消えた。


「アイ?」


《…………》


「おい」


《……創一さん》


 アイの声がいつもと違った。


 平坦ではあった。ただ、その平坦さが、いつもの平坦さではなかった。


 無理に均している平坦さだった。


《その杖の表面の刻みは、装飾ではありません》


「じゃあ、何だ」


《――記述です》


 ソウイチは杖を見た。

 びっしりと入った、細かい目盛りのような刻み。


 文字ではない。規則的なただの溝。


《一定の周期と、振幅と、位相が刻まれています》アイは一語ずつ、確かめるように言った。


《これは――人間の身体を回っている魔素の、波形です》


 ソウイチの背筋が、ぞわりとした。


「……波形って。それ、お前が、クッキーを助けたときの」


《同じものです》


 アイの声が震えた。


《この刻みを読めれば、わたしは、人間の内側の魔素に、同調できます。……創一さん。これは、祈りの道具ではありません》


 夕日が森の縁に触れた。


《これは教科書です》


 ソウイチはしばらく、その白木を見下ろしていた。


 四十三年前、この森で十一人ぶんの剣を、倒れた者の脇に立てた男がいる。

 最後に自分の剣を、自分で立てた男がいる。


 その男が最後に、こう書き残した。

 ――これを読む者あらば。杖を持ちて出でよ。我には、もはや、無用なり。


 魔素のない場所では、この杖はただの棒きれだ。

 彼はそれを分かっていて、置いていった。いつか、外へ持ち出せる誰かのために。


「……あんた」


 ソウイチは、円の中心の方を振り返った。


「ちゃんと、届いたぞ」


  *


 家に着いたのは、月が出てからだった。


 扉を開けるより早く、中から、どすん、と何かがぶつかってきた。

 クッキーが後ろ足で立って、胸に前脚をかけている。一年でその重さは、もう子猫のそれではない。


「――っ、おい、重い!」


《結界内、異常なしです》アイが静かに報告した。


《この子は、あなたが出てから、扉の前を、ほとんど動いていません》


 ソウイチは、そのごつい頭を両手で、めちゃくちゃに撫でた。


「……ただいま」


  *


 その夜。


 ソウイチは暖炉のそばに座って、木の板の束を、一枚ずつ声に出して読んだ。

 円の中で自分が拾った順番のまま、拾えなかったところは、アイが静かに埋めながら。


 読み終わっても、アイはしばらく何も言わなかった。


「――なあ」


《症状を、並べました》アイの声が聞こえた。


《傷なし。熱なし。出血なし。にもかかわらず、日を追って、立てなくなる。まず眠り、次に寒がり、最後に、動かなくなる。……創一さん。これは、病気ではありません》


「じゃあ何だ」


《枯れています》


 暖炉の火がぱちりと爆ぜた。


《この世界の人間は、体内で魔力を作り、それを、無意識に使い続けています》アイは、一語ずつ置くように言った。


《体温を保つ。傷を治す。疲れを抜く。……本人たちは、それを魔法だと思っていません。生きているうちに入っています》


「作るのが、止まったら」


《残っているぶんを、食い潰すだけになります》


 ソウイチは木の板の一枚を、指で撫でた。

 ――上りが、重い。降りたときの倍、かかる。


「……気づけないよな、これ」


《はい。最初の三日ほどは、何も起きません》アイは言った。


《以後の症状はだるさ、寒気、眠気です。全部、“地下で、魔法も使えず、重い荷を担いで、暗い階段を登ったせい”で説明がついてしまいます》


「実際、そのせいでもあるしな」


《はい。両方です。だからこそ、切り分けられません》アイは静かに言った。


《原因に辿り着いたときには――》


「四百歩が、歩けなくなってる」


《はい》


 ソウイチは天井を見上げた。


 ――明日、出る。


 あの二行が、なぜ二回続いていたのか、やっと分かった。

 あれは先送りじゃない。書いた翌日、身体が前の日より減っていたのだ。

 もう一度書いて、また減った。


 四百歩は日ごとに、遠ざかっていく。


「……待てよ」


 ソウイチは身体を起こした。


「じゃあ、俺は」


《あなたには、食い潰す残量が、ありません》


 アイの声は平坦だった。

 その平坦さがかえって、はっきりと響いた。


《あなたの体内魔力は、ゼロです。生まれてから一度も、身体の中の魔力で、体温を保ったことも、傷を治したこともない。……あの中で、あなたから枯れるものは、何ひとつ、ありません》


 ソウイチは、膝の上のクッキーを見た。

 琥珀色の目が、眠そうにこちらを見返している。


「クッキーは、数分で死ぬ」


《はい》


「まともな人間は、数日で立てなくなる」


《はい》


「……で、俺は、平気」


《平気です》


 ソウイチはしばらく黙っていた。


 鑑定の儀で、笑われた日のことを思い出していた。

 魔力量ゼロ。前代未聞。落ちこぼれ。


 名前を返せと言われて、村を追い出された、あの日のことを。


「――ははっ」


 乾いた笑いが勝手に出た。


「ざまあみろ」


《…………》


「あそこ、俺以外、誰も入れねえんだよ」ソウイチは火を見たまま言った。


「王国が十二人送り込んで、全滅した場所だぞ。四十三年、誰も辿り着けてない。……そこに、村でいちばん出来損ないだった男が、三時間ぶらぶら歩いて、手ぶらで帰ってきた」


《手ぶらでは、ありません》


 アイが白木の杖を示した。


「……そうだな」


 もうひとつ、分かったことがある。


 誰も連れて行けない、ということだ。


 クッキーは入れない。人間も入れない。


 いつか仲間ができても、街で誰かと組んでも、あの線から先へは一緒に行けない。

 下へ降りるのは、これから先もずっと一人だ。


 ソウイチは膝の上の重みを、手のひらで確かめた。


「……留守番、頼むわ。これからも」


 クッキーは返事の代わりに、膝の上でぐるりと丸くなった。


 暖炉の前には、白木の杖が立てかけてあった。


 ソウイチはそれを見ながら、干し肉をかじっていた。膝の上には、当然のようにクッキーが乗っている。


「アイ。読めるか、それ」


《時間がかかります》アイの声は慎重だった。


《刻みの総数、三千二百十四。周期の解読そのものは、できます。……ですが》


「ですが?」


《読めても、いまのわたしでは、使えません》


 ソウイチは肉を噛む口を止めた。


《人間の内側を読むには、生体スキャンが要ります。わたしの鑑定は、いまだに、外形と数値までしか読めません》アイは正直だった。


《この杖は、“合わせ方”を教えてくれます。ですが、“何に合わせるか”を、わたしはまだ見られない》


「……足りないのは、お前の目か」


《はい》


 ソウイチは暖炉の火を見た。


 ――足りないものが、はっきりしている。


 それはこの一年で、いちばん慣れた状態だった。

 初日は〇・八秒で死んだ。足りないものは、はっきりしていた。


 だから、毎日それを埋めた。


「じゃあ、埋めよう」


 ソウイチは言った。


「一年でも、二年でもいい。お前の目が、人間の中身を見られるようになるまで、俺が、素材でも本でも、なんでも取ってくる」


《…………》


「なんだよ」


《いえ》アイはそう言ってから、少しだけ間をおいた。


《いま、感情の候補が三つ出ました》


「三つも?」


《はい。……どれもうまく、名前がつきません》


「じゃあ、いつか名前がついたら、教えろ」


《はい》


  *


 寝る前に、ソウイチは木の板の束を、もう一度めくった。


 最後の一枚の、その裏側。

 声に出して読んだときは、表しか見ていなかった。


 彫られていたのは、文字ではなかった。


 ――図だった。


 石段と、その下の空間。長い通路。


 そして、いちばん奥に四角い枠。


 枠の中にひとつだけ、文字があった。

 ソウイチがこの世界に来てから、一度も見たことのない形の文字だった。


 その下に、あの男の荒れた手で、こう添えてあった。


 『扉、開かず。鍵は、下にはあらず。』


「……鍵は、下にはない」


 ソウイチはその一行を、指でなぞった。


 外にある、ということだ。

 四十三年前、十二人が、地図の空白を目指してこの森に入った。

 その扉の鍵は彼らが来た側に――人の住む世界の、どこかにある。


 暖炉の火がぱちりと爆ぜた。


「なあアイ。ひとつ、聞いていいか」


《どうぞ》


「あそこ、なんなんだ」


 アイは答えなかった。

 答えないことが、答えだった。


《分かりません》やがて、アイははっきりとそう言った。


《書庫の本にも、王国の年代記にも、ありません。魔素が“薄い”場所の記録なら、いくつかあります。ですが、“ゼロ”はひとつも》


「じゃあ、想像でいい。何個か出せ」


《……三つ、出します》アイは少し間をおいた。


《ひとつ。誰かが、あの範囲の魔素を、吸い続けている。真円なのは、吸っているものが、一点にあるからです》


「二つ目」


《檻です。魔物は、魔素がなければ生きられません。魔素を抜けば、それだけで、絶対に近づけない檻になります》


 ソウイチの背中が、少し冷えた。


「……何を閉じ込めるんだよ、そんなもんで」


《魔素で出来ていない、何かです》


 薪が、崩れた。


「三つ目は」


《――やめておきます》


「おい」


《材料が少なすぎます》アイは静かに言った。


《いま口にすれば、あなたは、それを前提に考えはじめます。……わたしが一度でも間違った枠を渡したら、あなたはその枠の中でしか、下を見なくなる》


 ソウイチは少し笑った。


「お前、ほんと、賢くなったな」


《一年、暇でしたので》


《創一さん》アイが言った。


《明日から、どうしますか》


 ソウイチは板を閉じて、立てかけた杖を見た。


 それから、窓の外の北の空を見た。


「まずは、下だ」ソウイチは言った。


「扉は開かなくてもいい。通路の途中に、あの人が落としたものが、まだ残ってるかもしれない」


《松明の油と、水と、食料の計算をします》


「頼む」


 ――そして、そのあとは。


 鍵が「外」にあるなら、いつかは森を出ることになる。

 街へ。人のいる場所へ。


 名前を奪った連中のいる、あの世界へ。


「……まだ、先の話だけどな」


 膝の上でクッキーが、ぱたん、と尻尾を鳴らした。

第14話、お読みいただきありがとうございました。


今回いちばん書きたかったのは、四十三年前の十二人です。


彼らは油も薪も持っていませんでした。火は術で出せるはずだったからです。水も、傷も、同じでした。魔法があることを前提に荷を組んで、それが通じない場所へ入っていった。そして、たった四百歩の内側で全滅しました。


主人公が生きて帰れた理由が「魔力ゼロだから」になる回です。鑑定の儀で笑われたあの数字が、この一箇所でだけ、完全な武器になります。





次回、いよいよ石段の下へ。二百段と、七つの分かれ道と、開かない扉。


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