第14話 for (302) { walk(); }
第14話です。魔素のない三百二メートルを、素の身体だけで歩きます。
アイの声は、届きません。
床の上で、荷物を二つの山に分けた。
左が持っていくもの。
右が置いていくもの。
――右の山は全部、アイが作ったものだった。
*
亜空間から出て、二日目の朝だった。
ソウイチは家の床に、荷物を全部ぶちまけていた。
「アイ。もう平気か」
《一年ぶんの記録の照合は、ひと晩で終わりました》アイの声はいつも通りだった。
《結界も、収納も、通常出力に戻しています》
「早ぇな」
《わたしは眠りませんので》
「……そうだったな」
ソウイチは笑った。
「よし。じゃあ、持ち物の会議だ」
《どうぞ》
「向こうじゃ収納が使えない。だから、持ってくもんは全部、俺が背負う。……ここ、分かってるか」
《はい。亜空間の口も、あの内側では開きません》
「で、俺の背負える量は、限りがある」
ソウイチは床の上のものを、指で二つに分けはじめた。
水袋。干し肉。塩。松明と火打ち石。油紙。ロープ。折り畳んだ毛布。厚手の手袋。牙の剣。
そして、ゆうべ自分で組み直した、木の枠だけの背負子。
もう一方には外套。鑑定用の石板。
アイが編んだ魔素の伝声管。魔素で軽くしてある、いつもの背負子。
「――こっちは全部、置いてく」
《……》
「向こうで動かないものを持ってっても、重りにしかならねえだろ」
《はい》アイは少しの間のあと、そう言った。
《正しい判断です。ですが、いま、あなたが分けたものの片側は、全部わたしが作ったものです》
「そうだよ」ソウイチはあっさり頷いた。
「だから今回は、置いてく」
水は四リットル。乾物は三日ぶん。
全部を麻布で包んで、革紐で縛って、背中に固定した。
「重さは」
《十九・四キログラムです》
「……去年の俺だと」
《三百メートル歩けません》
「今は?」
《――余裕です》アイは一拍おいて、そう言った。
《その数字は、あなたが十一ヶ月目に担いでいた重量より、〇・八キロ軽い》
ソウイチは背負子の紐を、肩に食い込ませて、笑った。
背負って外へ出ようとすると、クッキーが扉の前に座って動かなかった。
琥珀色の目が、まっすぐこちらを見ている。行く気満々の目だ。
一年で背も胸も厚くなって、もう「芝犬みたいな猫」とは言いにくい。
腰の位置がソウイチの膝を越えている。
「……お前は、留守番だ」
クッキーの耳が、ぱたりと倒れた。
「入ったら死ぬんだよ、お前。分かってんだろ」
喉の奥で低い音が鳴った。抗議だった。
ソウイチはしゃがんで、その頭に額をくっつけた。
「――家、頼む」
言葉が通じるはずはない。
それでも、その一言のあと、クッキーはゆっくりと立ち上がって、扉の前をどいた。
《この子の魔素感知は、この一年で、当初の四倍以上に伸びました》アイが静かに言った。
《家のまわりなら、この子のほうが先に気づきます。わたしが結界で見て、この子がその内側を見ます》
「……で?」
《――創一さん。この子はもう、守られる側ではありません》
「知ってる」
*
北へ、半日。
森が薄くなって、木が途切れて、あの線が見えた。
こちら側は苔むした巨木。一歩向こうは剥き出しの土。
境目の手前の地面は相変わらず、爪痕でめちゃくちゃに掻き乱されている。四十三年ぶんの、届かなかった手の跡だ。
ソウイチは背負子を下ろした。
「アイ。段取り、もう一回」
《はい》アイの声が少しだけ硬くなった。
《わたしは、あなたと一緒に、入ります》
「――そこだよ。そこがまだ、飲み込めてない」
ソウイチは境界の線を、顎で示した。
「お前、俺のスキルだろ。俺が入ったら、お前も入る。置いてけるもんじゃない」
《はい。置いていくことは、できません》アイは静かに言った。
《わたしは、あなたの内側にいます。ですが、演算も、表示も、声も、外の魔素を媒体にしています。――媒体が無くなるだけです》
「……つまり」
《わたしはそこにいます。あなたの、すぐ隣に。ただ、何ひとつ、届きません》
ソウイチはしばらく黙っていた。
――置いていく方が、まだましだった気がした。
「……時間は」
《数えられません》アイの声は正直だった。
《中では、わたしにとって時間そのものが、存在しないのと同じです。あなたが線を越えた瞬間から、越えて戻る瞬間まで――わたしには、何もありません》
「じゃあ、日没を見るのは」
《あなたです》
ソウイチはゆっくりと息を吐いた。
「――太陽が、あの森の縁に触れたら、何があっても引き返す」
《はい》
「途中でも、下が気になっても、引き返す」
《……はい》
「言ったからな。忘れんなよ」
《忘れません》アイはそう言ってから、少しだけ間をおいた。
《ただし、忘れないでいられるのは、線の、こちら側だけです》
ソウイチは線の手前に立った。
背中に十九・四キロ。腰に、ただ硬いだけになる予定の剣。
それだけだ。
振り返る。
クッキーはいない。家にいる。
視界の隅に、いつもの薄い影があった。光を透かした、小さな輪郭。
ただ、その両手だけが、はっきりとした形を持っている。指も、爪も、関節も。
この一年、夜に三十分ずつかけて、自分で作った手だった。
「なあ、アイ」
《はい》
「向こうでも、そこにいるんだよな」
《います》
「見えなくても?」
一拍、間があった。
《――見えなくても、あります》アイは言った。
《それは、あなたが、作ったからです》
ソウイチは笑った。
「じゃ、行ってくる」
《行ってらっしゃい》
ソウイチは一歩、踏み出した。
*
――世界から、何かが抜けた。
二度目だった。
一度目のときは、それが何なのか分からなかった。今度ははっきり分かった。
耳の奥で、一年半ずっと鳴っていた、微かな気配。それが、すとん、と落ちる。
視界の隅の操作画面が、音もなく畳まれて、消える。
腰の剣から、あの吸いつくような感じが失せて、ただの硬い塊に変わる。
そして、静かになった。
風の音はある。土を踏む音もある。
自分の心臓の音も、耳障りなくらい大きい。
消えたのは音ではなかった。
――隣にいるはずだった。
ソウイチは右の、何もない空間を見た。
薄い影も、両手も、そこには無い。それでも、いる。
いるのに何ひとつ、こちらへ届いていない。
置いていかれるより、たちが悪いな、と思った。
ソウイチはそこで、立ち止まらなかった。
二歩目。三歩目。四歩目。
膝は折れなかった。
十歩ほど歩いて、ソウイチは少しだけ拍子抜けした。
――普通に、歩けるな。
当たり前だった。ここはただの平地だ。
日が差している。風が抜ける。
土は乾いていて、少しだけ柔らかい。
段差もない。斜面もない。
危ないものは何ひとつ、無かった。
無いのに、背中がざわついていた。
「……歩けてるぞ」
声に出しても、返事はない。
それでも、言った。
歩数を数えた。
ひとつ、ふたつ、と数えていって、百を越えたところで、指を折るのをやめて、頭の中の数字だけにした。
一年間、毎日やったことだ。
走行十二キロ。素振り二千四百回。重量二十・二キロ。
数えるのはアイの仕事だった。
いまは自分でやる。
――百二十。百二十一。百二十二。
歩幅はおよそ七十センチ。四百三十歩前後で、三百二メートル。
計算して、ソウイチは少しだけ可笑しくなった。
こういう計算も去年までは全部、耳元の声がやっていた。
二百歩を越えたあたりで、脇腹がじわりと痛んだ。
去年の傷ではない。ただの疲労だ。
ソウイチは歩調を落とさなかった。
――前は、四歩だった。
そう思いかけて、ソウイチは自分に、きちんと言い直した。
あのときは、肋が治りきっていなかった。
半月前に折れたばかりの骨で、身体強化を剥がされて、息を吸うたびに内側から刺されていた。
あれは、いまと比べていい状態じゃない。
治っていれば、たぶん歩けた。
――歩けただけだ。
三百二メートルを、手ぶらで往きだけ。それが去年の自分の限界だ。
いまは違う。背中に十九・四キロ。
往復六百四メートル。着いた先で荷を下ろして、調べて、また背負って帰る。
そこまでやって、まだ脚が残っている。
その差が一年だった。
三百歩を越えて、視界の先にそれが見えてきた。
地面から、細長いものが何本も突き出している。
遠くから見たときは、等間隔に並んでいるように見えた。近づくと、そうではなかった。
ばらばらだった。
二本が寄り添うように立っている場所があり、そこから十歩以上離れて、ぽつんと一本だけがある。
三本が、ほとんど倒れかけた角度で固まっている場所もある。並べたのではない。
――倒れた場所に、そのまま立てたのだ。
ソウイチは足を止めた。
「…………剣か」
剣だった。
十二本――そう見えた。
どれも切っ先を下にして、地面に突き立てられていた。
深く刺さっているものもあれば、十センチほどしか埋まっていないものもある。
真っ直ぐなものは少ない。
鞘はない。刃は赤黒く錆びて、根元のあたりは腐り落ちて薄くなっている。
それでも、折れているものは一本もなかった。
四十三年、風と日にさらされて、それでも立っていた。
誰かが立てたのだ。
ソウイチは背負子を下ろして、いちばん手前の一本の前に、しゃがみ込んだ。
そのすぐ脇にあった。
骨だった。
白いというより、灰に近い色をしていた。土の上に、半分だけ埋まっている。
土に沈んだのではない。
四十三年ぶんの風が、少しずつ砂を運んで、そこまで埋めただけだ。
形は崩れているが、頭蓋の輪郭ははっきり分かる。
その周りに、留め具の朽ちた革帯と、青緑に錆びた金具が散らばっている。鎧の名残だ。
――埋まってない。
ソウイチはそこで、気づいた。
誰も掘っていない。
穴も、盛り土も、石を積んだ跡もない。この人は倒れたそのままの場所に、四十三年置かれている。
ソウイチはしばらく動けなかった。
――四十三年前。ここに人が来た。
名前があって、村があって、たぶん帰りを待っていた誰かがいた。
その全部が、この灰色の輪郭になっていた。
ソウイチは額を、地面につけた。
「……勝手に、触ります。すいません」
声は誰にも届かなかった。
届かないと分かっていて、言った。
二本目。骨があった。
三本目。あった。
四本目、五本目、六本目。
ソウイチは一本ずつ、確かめて回った。数えるのはもう癖になっている。
七本目。八本目。九本目。十本目。十一本目。
――十一。
そして、十二本目の前に立って、ソウイチは動きを止めた。
その一本だけが、違った。
石段の口の、まっすぐ正面に立っていた。
傾いていない。深さも他のどれより深い。
柄頭がちょうど腰の高さで、こちらを向いている。
その脇に骨がなかった。
革帯もない。金具もない。
土は、他の場所と同じように乾いていて、掘り返された跡もない。
ただ、剣だけがそこに立っていた。
ソウイチの背中を、冷たいものが走った。
――こいつだけ、ちゃんと立ってる。
倒れた場所に、力任せに押し込んだのではない。場所を選んで、向きを決めて、まっすぐに立てた一本。
そんなことができるのは、まだ立って歩ける人間だけだ。
いや。
もうひとつ、おかしいことがあった。
ソウイチは剣と剣のあいだを、縫うように歩いた。
十二本の中で一本だけ、剣ではないものが混じっていた。
最初は気づかなかった。同じくらいの高さで、同じように地面に刺さっていたからだ。
だが、それには刃がなかった。
――杖だった。
白木のまっすぐな杖。
両手で握れるくらいの長さで、頭のところが、内側に巻き込むように曲げられている。
表面には細かい刻みが、びっしりと入っていた。
文字ではない。もっと規則的な、目盛りのような刻みだ。
四十三年、雨風に打たれて、木は灰色に乾ききっている。それなのに、割れていなかった。
ソウイチは手を伸ばして――止めた。
その根元にも骨があった。
他の骨と、少しだけ違う。鎧の金具がない。
代わりに、胸のあたりに、指の長さほどの、金属の板が落ちていた。
拾い上げる。
表面に彫られていた。
剣と、天秤と、茨。
――王家の紋章だ。あの鎖の留め具と、同じものだ。
その下にもうひとつ、別の意匠が重なっていた。円と、そこから伸びる三本の線。
《王家の紋章の変遷と照合しました》
耳の奥で覚えのある声が、勝手に再生された。
実際には何も聞こえていない。
「……お前がいたら、これ、一秒で分かるんだろうな」
骨のそばに、革の袋が転がっていた。
――ここに置いたのか。
十二本、どこに置いてもよかったはずだ。
なのに袋は剣ではなく、この杖の脇にあった。選んだ、ということだ。
紐は朽ちていた。ソウイチが持ち上げると、袋の口が力なく開いた。
中に束があった。
紙ではない。薄く削いだ木の板を、革紐で綴じたものだ。
表面は油を染ませてあるらしく、四十三年ぶんの湿気を、まだ弾いていた。
ソウイチはそれを膝の上に置いて、開いた。
文字が、あった。
――読めるか。
村を出る前、あの石室の書庫で、三日のあいだに千二百冊をめくった。
あのとき、自分は読んでいない。ページを開いて、めくって、目に映しただけだ。
読んだのはアイで、意味を持って帰ったのも、アイだった。
それでも、同じ形を何千回と通せば、目の方が勝手に覚える。
――全部は、読めない。
拾えるのは見覚えのある単語と、数字だけだ。あいだを繋ぐのは、自分の頭でやるしかない。
しかも、綴りが古い。いまの書き方より、線が一本ずつ多い。
一行を読むのに、ひどく時間がかかった。
――いつもなら、アイが一秒で読み上げるところだ。
ソウイチは日の位置を確かめた。
まだ高い。だが、読み終わるまでにどれだけかかるか、見当がつかない。
――さっさと持ち帰って、外で読めばいい。
そう思って、一度は束を閉じた。
それから、また開いた。
ここで死んだ十二人の書いたものを、この場所で読まずに、どこで読むのか。
ソウイチは腰を落ち着けた。
最初の何枚かは、日付と隊列の記録だった。
王命により、魔の森へ。
隊員十二名。北の空白を調べよ。
――空白。
四十三年前から、この穴は地図の上で「空白」だった。
次の板で手が止まった。
『森に、大狼あり。四名、深手を負う。討つこと能わず、鎖にて固定す。空白への道を確保せり。』
ソウイチはそこを、二度読んだ。
――順番が、逆だ。
あの鎖は森の主を「捕らえるために」持ち込まれたんじゃない。
邪魔だったから、殺せなかったから、繋いだだけだ。ここへ来る道を通すために。
そして森の主は四十三年、繋がれたまま、この線の手前で爪を立て続けた。
「……悪いな、じいさん」
ソウイチは誰にともなく、そう言った。
次の板から、文字が乱れはじめた。
『空白に入る。中央に、石の口あり。下へ続く。』
『魔法が、使えぬ。』
ソウイチの指が、止まった。
『火が出ぬ。傷が塞がらぬ。マルティンの脚は、外で治せしはずのもの。中では、ただの傷なり。』
『我ら、魔法を前提に荷を組めり。油も薪も、持たず。水は術にて作れるはずなりき。誤りなり。』
ソウイチは自分の背負子を見た。
水袋。松明。火打ち石。油紙。
――ゆうべ、床の上で二つに分けたのと、まったく同じ選別だった。
こいつらはそれを、入ってから気づいた。
『二日目。荷を組み直し、下へ降りる。三日で戻る算段なり。』
ソウイチは次の板をめくった。
『段、二百を数えて、なお下る。』
『底に至る。通路、西へ。松明の届かぬ広さなり。』
『分かれ道、七つ。印を刻みつつ進む。』
――七つ。
ソウイチは石段の口の方を見た。
地面に開いた、四角い黒い口。あそこから先が、七つに分かれるほど広い。
『扉に至る。開かず。押しても引いても、動かず。鍵穴なし。』
『二日、扉の前に留まる。手立て尽く。』
『引き返す。』
そこから、日付が消えた。
『何日目か、分からぬ。日が見えぬ。』
ソウイチはその一行の上で、指を止めた。
――そうだ。
地下には日が差さない。
朝も夜も来ない。何日経ったのか、数える手がかりが、何ひとつ無い。
『上りが、重い。降りたときの倍、かかる。』
『ヨナス、段の途中で座り込む。傷なし。熱もなし。ただ、立てぬと言う。』
『皆で担ぐ。三段ごとに休む。』
『寒し。地の底は、こういうものかと思いしが、外へ出ても、寒し。』
『地上に出づ。』
ソウイチはその三文字を、しばらく見ていた。
彼らは戻ってきたのだ。
あの黒い口から、動けない仲間を担いで二百段を、三段ごとに休みながら。
そして、地上に出た。
――出た先が、ここだ。
ソウイチは顔を上げて、境界の方を見た。
三百二メートル。木々の緑が遠くに、細く見える。
『残り、四百歩ほどなり。今日は、動けぬ。明日、出る。』
『明日、出る。』
『明日、出る。』
『マルティン、逝く。』
『脚の立つ者、四名。明日こそ、と皆で決む。』
『四名、出でんとす。百歩に至らず、皆、這い戻る。』
ソウイチは板を、膝の上に置いた。
息をひとつ吐いた。
――四百歩だ。
いまの自分なら、走らなくても四分で着く。手ぶらなら三分もかからない。
その四百歩の、百歩も行けずに、彼らは這って戻ってきた。
怠けたわけじゃない。判断を誤ったわけでもない。
地下から這い出てきた時点で、もう身体が四百歩ぶん残っていなかった。それだけだ。
――何に、削られたんだ。
傷はない。熱もない。病でもない。
なのに、日を追って、立てなくなる。
ソウイチはその答えを、まだ持っていなかった。
板はあと三枚だった。
『十一名。埋むる力なし。』
ソウイチは目を上げた。
ばらばらに突き立った、十本の錆びた刃と、一本の白木。そのどれもが、骨のすぐ脇に立っている。
『各々の剣を、その傍らに立つるのみ。許されよ。』
――そういうことか。
葬ってなんかいない。
穴を掘る力も、遺体を運ぶ力も、もう無かった。
倒れた者の剣を抜いて、その脇の地面に、体重をかけて押し込む。
それだけが彼にできた全部だった。
剣を一本立てるのは、柄を両手で持って、上から乗ればいい。
人ひとりを埋めるのは、そうはいかない。
ソウイチは、いちばん傾いた一本を見た。
切っ先が十センチも入っていない。あれを立てたとき、この男はもう、それだけの力しか残っていなかったのだ。
次の板。
『我が剣も、共に立てたり。あとは、下へ行くのみ。』
――そこで、腑に落ちた。
十二本目の、あのまっすぐな一本。
あれを立てたのは十二人目自身だ。骨がないのはまだ、そこで死んでいないからだ。
彼は自分の墓を、自分の手で立てた。
まだ立って歩けるうちに、いちばん深く、いちばんまっすぐに。
そして――外へは向かわなかった。
どちらを向いても、四百歩ほどで森だった。
彼はその全部に背を向けて、石段を降りたことになる。
――なった、というだけだ。
ソウイチは自分に、そう釘を刺した。
骨が無い。手記に「下へ行く」と書いてある。
分かっているのはそれだけだ。降りるところを見た者は、誰もいない。
最後の一枚に、二行だけあった。
文字はそれまでより、はるかに大きく荒かった。書き慣れた手が、最後に力任せに彫ったのだと分かる。
『扉、開かず。鍵は、下にはあらず。』
そして、いちばん下に。
『これを読む者あらば。杖を持ちて出でよ。我には、もはや、無用なり。』
――だから、袋は杖の足元にあったのか。
ソウイチは、しばらく動かなかった。
風が乾いた土の上を、まっすぐに抜けていった。
この円の中には草も虫もいない。音を立てるものが、何もない。
やがて、ソウイチは立ち上がって、杖の前に立った。
「……もらいます」
両手で、まっすぐに引き抜いた。
思ったより、軽かった。四十三年、地面に刺さっていたとは思えないほど、下の方まで、しっかり硬いままだった。
握ってみる。
何も起きない。当たり前だ。
ここには魔素がない。
それでも、手のひらに刻みの凹凸が食い込んだとき、ソウイチははっきりと思った。
――これは渡されたものだ。
石段はそのすぐ先にあった。
地面に、四角い口が開いている。
縁は、切り出した石で組まれていた。継ぎ目に隙間がない。
この世界の石工の仕事にしては、精度が異常だった。
ソウイチは口の縁まで行って、覗き込んだ。
段が下へ続いていた。
十段ほどまでは日が届いて、灰色に見える。その先は真っ黒だった。
空気が下から、ゆっくりと上がってきていた。
冷たい。土の匂いではない。
石の、それも、ずっと水に洗われていたような匂いだ。
――四十三年前、ここを一人で降りた男がいる。
ソウイチは松明を出しかけて、手を止めた。
――待て。
ここでは火が出ない。火打ち石はある。
だが、下がどこまで続いているのか分からない。松明の油は一本ぶん。
水は残り三リットル。そして日はもう西の梢に近い。
そして何より、下で何かあっても、耳元にあの声はない。
ソウイチは深く、息を吐いた。
「……今日は、やめだ」
声に出して、自分に言い聞かせた。
一年間、毎日聞かされた声を思い出す。
――勝率を出し、危険を告げ、それでも最後は「決めるのはあなたです」と言う声。
「準備してから、来る」
ソウイチは石段に背を向けた。
*
帰りの三百二メートルは、往きより重かった。
背負子に杖と、木の板の束と、紋章の板が増えている。重さで言えば大したことはない。
重かったのはたぶん別のものだ。
二百歩を過ぎたあたりで、ソウイチは一度だけ振り返った。
ばらばらに突き立った十一本の刃が、夕日の中で、それぞれ勝手な向きに、細い影を伸ばしていた。
境界の線が見えた。
向こう側の木々が、夕日で赤く縁取られている。
あの一メートル先に、三時間ぶんの言葉が、溜まっているはずだった。
ソウイチは最後の十歩を走った。
*
線を越えた瞬間、世界が戻ってきた。
《創一さん》
耳のすぐそばで、その声が弾けた。
全身に、魔素がじわりと回る。疲労が消えるわけではない。
ただ、身体の外側に、ずっと着ていたはずの何かが、返ってきた。
視界の隅で、操作画面がするりと開いた。
「……ただいま」
《おかえりなさい》
アイはそれだけ言って、しばらく黙っていた。
「なんだよ」
《…………いま、太陽の位置を、測りました》アイはゆっくりと言った。
《日没まで、あと、四十分あります》
「約束は守ったろ」
《はい》
「怒ってんのか」
《いいえ》アイははっきりと言った。
《ただ、いまの三時間を、わたしは、記録として持っていません。あなたが線を越えてから、越えて戻るまで――わたしの中には、何も残っていない》
ソウイチは空を仰いだまま、そうか、と言った。
《次からは、戻ってきたら、話してください》アイは言った。
《何があったのか。……わたしの記録に、書き足したいので》
「――おう」
ソウイチは背負子を下ろして、その場に座り込んだ。
そして、杖を地面に置いた。
「アイ。これ、見てくれ」
《――》
アイの声が途中で消えた。
「アイ?」
《…………》
「おい」
《……創一さん》
アイの声がいつもと違った。
平坦ではあった。ただ、その平坦さが、いつもの平坦さではなかった。
無理に均している平坦さだった。
《その杖の表面の刻みは、装飾ではありません》
「じゃあ、何だ」
《――記述です》
ソウイチは杖を見た。
びっしりと入った、細かい目盛りのような刻み。
文字ではない。規則的なただの溝。
《一定の周期と、振幅と、位相が刻まれています》アイは一語ずつ、確かめるように言った。
《これは――人間の身体を回っている魔素の、波形です》
ソウイチの背筋が、ぞわりとした。
「……波形って。それ、お前が、クッキーを助けたときの」
《同じものです》
アイの声が震えた。
《この刻みを読めれば、わたしは、人間の内側の魔素に、同調できます。……創一さん。これは、祈りの道具ではありません》
夕日が森の縁に触れた。
《これは教科書です》
ソウイチはしばらく、その白木を見下ろしていた。
四十三年前、この森で十一人ぶんの剣を、倒れた者の脇に立てた男がいる。
最後に自分の剣を、自分で立てた男がいる。
その男が最後に、こう書き残した。
――これを読む者あらば。杖を持ちて出でよ。我には、もはや、無用なり。
魔素のない場所では、この杖はただの棒きれだ。
彼はそれを分かっていて、置いていった。いつか、外へ持ち出せる誰かのために。
「……あんた」
ソウイチは、円の中心の方を振り返った。
「ちゃんと、届いたぞ」
*
家に着いたのは、月が出てからだった。
扉を開けるより早く、中から、どすん、と何かがぶつかってきた。
クッキーが後ろ足で立って、胸に前脚をかけている。一年でその重さは、もう子猫のそれではない。
「――っ、おい、重い!」
《結界内、異常なしです》アイが静かに報告した。
《この子は、あなたが出てから、扉の前を、ほとんど動いていません》
ソウイチは、そのごつい頭を両手で、めちゃくちゃに撫でた。
「……ただいま」
*
その夜。
ソウイチは暖炉のそばに座って、木の板の束を、一枚ずつ声に出して読んだ。
円の中で自分が拾った順番のまま、拾えなかったところは、アイが静かに埋めながら。
読み終わっても、アイはしばらく何も言わなかった。
「――なあ」
《症状を、並べました》アイの声が聞こえた。
《傷なし。熱なし。出血なし。にもかかわらず、日を追って、立てなくなる。まず眠り、次に寒がり、最後に、動かなくなる。……創一さん。これは、病気ではありません》
「じゃあ何だ」
《枯れています》
暖炉の火がぱちりと爆ぜた。
《この世界の人間は、体内で魔力を作り、それを、無意識に使い続けています》アイは、一語ずつ置くように言った。
《体温を保つ。傷を治す。疲れを抜く。……本人たちは、それを魔法だと思っていません。生きているうちに入っています》
「作るのが、止まったら」
《残っているぶんを、食い潰すだけになります》
ソウイチは木の板の一枚を、指で撫でた。
――上りが、重い。降りたときの倍、かかる。
「……気づけないよな、これ」
《はい。最初の三日ほどは、何も起きません》アイは言った。
《以後の症状はだるさ、寒気、眠気です。全部、“地下で、魔法も使えず、重い荷を担いで、暗い階段を登ったせい”で説明がついてしまいます》
「実際、そのせいでもあるしな」
《はい。両方です。だからこそ、切り分けられません》アイは静かに言った。
《原因に辿り着いたときには――》
「四百歩が、歩けなくなってる」
《はい》
ソウイチは天井を見上げた。
――明日、出る。
あの二行が、なぜ二回続いていたのか、やっと分かった。
あれは先送りじゃない。書いた翌日、身体が前の日より減っていたのだ。
もう一度書いて、また減った。
四百歩は日ごとに、遠ざかっていく。
「……待てよ」
ソウイチは身体を起こした。
「じゃあ、俺は」
《あなたには、食い潰す残量が、ありません》
アイの声は平坦だった。
その平坦さがかえって、はっきりと響いた。
《あなたの体内魔力は、ゼロです。生まれてから一度も、身体の中の魔力で、体温を保ったことも、傷を治したこともない。……あの中で、あなたから枯れるものは、何ひとつ、ありません》
ソウイチは、膝の上のクッキーを見た。
琥珀色の目が、眠そうにこちらを見返している。
「クッキーは、数分で死ぬ」
《はい》
「まともな人間は、数日で立てなくなる」
《はい》
「……で、俺は、平気」
《平気です》
ソウイチはしばらく黙っていた。
鑑定の儀で、笑われた日のことを思い出していた。
魔力量ゼロ。前代未聞。落ちこぼれ。
名前を返せと言われて、村を追い出された、あの日のことを。
「――ははっ」
乾いた笑いが勝手に出た。
「ざまあみろ」
《…………》
「あそこ、俺以外、誰も入れねえんだよ」ソウイチは火を見たまま言った。
「王国が十二人送り込んで、全滅した場所だぞ。四十三年、誰も辿り着けてない。……そこに、村でいちばん出来損ないだった男が、三時間ぶらぶら歩いて、手ぶらで帰ってきた」
《手ぶらでは、ありません》
アイが白木の杖を示した。
「……そうだな」
もうひとつ、分かったことがある。
誰も連れて行けない、ということだ。
クッキーは入れない。人間も入れない。
いつか仲間ができても、街で誰かと組んでも、あの線から先へは一緒に行けない。
下へ降りるのは、これから先もずっと一人だ。
ソウイチは膝の上の重みを、手のひらで確かめた。
「……留守番、頼むわ。これからも」
クッキーは返事の代わりに、膝の上でぐるりと丸くなった。
暖炉の前には、白木の杖が立てかけてあった。
ソウイチはそれを見ながら、干し肉をかじっていた。膝の上には、当然のようにクッキーが乗っている。
「アイ。読めるか、それ」
《時間がかかります》アイの声は慎重だった。
《刻みの総数、三千二百十四。周期の解読そのものは、できます。……ですが》
「ですが?」
《読めても、いまのわたしでは、使えません》
ソウイチは肉を噛む口を止めた。
《人間の内側を読むには、生体スキャンが要ります。わたしの鑑定は、いまだに、外形と数値までしか読めません》アイは正直だった。
《この杖は、“合わせ方”を教えてくれます。ですが、“何に合わせるか”を、わたしはまだ見られない》
「……足りないのは、お前の目か」
《はい》
ソウイチは暖炉の火を見た。
――足りないものが、はっきりしている。
それはこの一年で、いちばん慣れた状態だった。
初日は〇・八秒で死んだ。足りないものは、はっきりしていた。
だから、毎日それを埋めた。
「じゃあ、埋めよう」
ソウイチは言った。
「一年でも、二年でもいい。お前の目が、人間の中身を見られるようになるまで、俺が、素材でも本でも、なんでも取ってくる」
《…………》
「なんだよ」
《いえ》アイはそう言ってから、少しだけ間をおいた。
《いま、感情の候補が三つ出ました》
「三つも?」
《はい。……どれもうまく、名前がつきません》
「じゃあ、いつか名前がついたら、教えろ」
《はい》
*
寝る前に、ソウイチは木の板の束を、もう一度めくった。
最後の一枚の、その裏側。
声に出して読んだときは、表しか見ていなかった。
彫られていたのは、文字ではなかった。
――図だった。
石段と、その下の空間。長い通路。
そして、いちばん奥に四角い枠。
枠の中にひとつだけ、文字があった。
ソウイチがこの世界に来てから、一度も見たことのない形の文字だった。
その下に、あの男の荒れた手で、こう添えてあった。
『扉、開かず。鍵は、下にはあらず。』
「……鍵は、下にはない」
ソウイチはその一行を、指でなぞった。
外にある、ということだ。
四十三年前、十二人が、地図の空白を目指してこの森に入った。
その扉の鍵は彼らが来た側に――人の住む世界の、どこかにある。
暖炉の火がぱちりと爆ぜた。
「なあアイ。ひとつ、聞いていいか」
《どうぞ》
「あそこ、なんなんだ」
アイは答えなかった。
答えないことが、答えだった。
《分かりません》やがて、アイははっきりとそう言った。
《書庫の本にも、王国の年代記にも、ありません。魔素が“薄い”場所の記録なら、いくつかあります。ですが、“ゼロ”はひとつも》
「じゃあ、想像でいい。何個か出せ」
《……三つ、出します》アイは少し間をおいた。
《ひとつ。誰かが、あの範囲の魔素を、吸い続けている。真円なのは、吸っているものが、一点にあるからです》
「二つ目」
《檻です。魔物は、魔素がなければ生きられません。魔素を抜けば、それだけで、絶対に近づけない檻になります》
ソウイチの背中が、少し冷えた。
「……何を閉じ込めるんだよ、そんなもんで」
《魔素で出来ていない、何かです》
薪が、崩れた。
「三つ目は」
《――やめておきます》
「おい」
《材料が少なすぎます》アイは静かに言った。
《いま口にすれば、あなたは、それを前提に考えはじめます。……わたしが一度でも間違った枠を渡したら、あなたはその枠の中でしか、下を見なくなる》
ソウイチは少し笑った。
「お前、ほんと、賢くなったな」
《一年、暇でしたので》
《創一さん》アイが言った。
《明日から、どうしますか》
ソウイチは板を閉じて、立てかけた杖を見た。
それから、窓の外の北の空を見た。
「まずは、下だ」ソウイチは言った。
「扉は開かなくてもいい。通路の途中に、あの人が落としたものが、まだ残ってるかもしれない」
《松明の油と、水と、食料の計算をします》
「頼む」
――そして、そのあとは。
鍵が「外」にあるなら、いつかは森を出ることになる。
街へ。人のいる場所へ。
名前を奪った連中のいる、あの世界へ。
「……まだ、先の話だけどな」
膝の上でクッキーが、ぱたん、と尻尾を鳴らした。
第14話、お読みいただきありがとうございました。
今回いちばん書きたかったのは、四十三年前の十二人です。
彼らは油も薪も持っていませんでした。火は術で出せるはずだったからです。水も、傷も、同じでした。魔法があることを前提に荷を組んで、それが通じない場所へ入っていった。そして、たった四百歩の内側で全滅しました。
主人公が生きて帰れた理由が「魔力ゼロだから」になる回です。鑑定の儀で笑われたあの数字が、この一箇所でだけ、完全な武器になります。
次回、いよいよ石段の下へ。二百段と、七つの分かれ道と、開かない扉。
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