第13話 catch (Death e) { retry(); }
第13話です。亜空間の中での一年間。外では、十二日。
初日、ソウイチは〇・八秒で死にました。そこから、三百六十五日ぶんの話です。
最初の一戦は、〇・八秒だった。
合図と同時に、灰色の地平から、五メートルの影が跳んだ。
ソウイチが牙の剣を構えるより早く、視界の全部が銀灰色で埋まって、前脚が胸のあたりを通り抜けた。
実体はない。痛みもない。
ただ、身体の芯を、氷の棒で刺し貫かれたような感覚だけが残った。
尻もちをついたまま、ソウイチはしばらく動けなかった。
「…………今の、何」
《接敵から、〇・八秒》アイの声が淡々と告げた。
《致命箇所、胸骨。――死亡です》
「……いや、待て。見えなかったんだけど」
《はい。見えていませんでした》
「あの夜、避けれてたよな、俺!?」
《避けていたのは、わたしです》アイは容赦がなかった。
《行動予測で進路を出し、身体強化で脚を動かしていました。あのとき、あなたがやっていたのは――“やる”と決めたことだけです》
ソウイチは天を仰いだ。
空はなかった。ただ、均質な灰色の明るさが、どこまでも続いていた。
「……もう一回」
《どうぞ》
*
その日、ソウイチは三百二十七回死んだ。
最長で一・四秒。
最短は〇・六秒。剣を抜く前に、頭を持っていかれた。
三百二十八回目を構えようとしたところで、アイが止めた。
《本日はここまでです》
「まだやれる」
《やれます。ですが、意味がありません》アイは静かに言った。
《同じ死に方を、三百二十七回。あなたはいま、何ひとつ、学習していません。ただ、殴られているだけです》
ソウイチは剣を下ろした。
息が上がっていた。手が震えていた。
「……じゃあ、どうすりゃいい」
《明日から、剣を、置いてください》
「は?」
《一ヶ月間、走ります》
*
――剣を、置いた。
最初の一ヶ月、ソウイチがやったのは、それだけだった。
走る。歩く。止まる。しゃがむ。立つ。息を吸う。息を吐く。
最初の三日は、ただ平らな地面を往復するだけだった。五百メートルで、膝が笑った。
四日目の朝、灰色の平原の景色が、変わっていた。
「……おい。なんだこれ」
目の前に倒木があった。
その先に腰の高さの岩。さらに先には幅の狭い足場が、飛び石のように並んでいる。
地面そのものが、うねって、傾いていた。
《魔素を固めました。重りと、同じ理屈です》アイは言った。
《実体があります。ぶつかれば、痛い。踏み外せば、落ちます》
「……平らなとこ走らせてくれよ」
《平らな地面は、この世界に、ほとんどありません》アイは言った。
《あなたが走るのは、森です。根が張り、倒木があり、斜面があり、濡れた石がある。――平らなところだけ速い人間は、森ではいちばん遅い》
ソウイチは倒木を見て、それから、ため息をついた。
「……正しいな。くそ」
その日から、コースは毎日組み替えられた。
同じ配置は二度と来なかった。倒木の高さが変わる。
足場の間隔が変わる。斜面の角度が変わる。
前の日に覚えた足の運びは、翌朝には使えなくなっていた。
「……これ、わざとだろ」
《わざとです》アイは言った。
《覚えた道を速く走れるようになっても、意味がありません。――初めて見る地面を、初めての速さで走れるように、します》
半月で、三キロ走れるようになった。
ひと月の終わりには、十キロを同じペースで刻めるようになっていた。
*
十九日目に、アイがコースの景色を、丸ごと変えた。
灰色の平原ではなかった。
木があった。苔むした幹があった。
倒れた大木があり、その向こうに、見覚えのある岩壁がそびえていた。
「…………これ」
《地形スキャンの記録です》アイは言った。
《あなたの家から、北へ二キロの範囲を、そのまま再現しました》
ソウイチは、しばらく動けなかった。
――帰り道だった。
「……色が、ないな」
《魔素で、形を作っているだけですので》アイは静かに言った。
《色までは出せません》
「……いいよ。じゅうぶんだ」
ソウイチは、その色のない森を走った。
根を跨ぎ、倒木を跳び越え、斜面を駆け上がった。
息が上がった。汗が出た。
景色は灰色のままだった。
それでも――平原を往復していたときより、ずっと走れた。
三日目に、気づいたことがあった。
――自分がずっと、声に出して数えている。
「……いち、に、さん、し……」
息の拍に合わせて、口が勝手に動いていた。誰に聞かせるでもない。
ただ、音がないと、走っている実感が持てなかった。
「アイ。俺、独り言、増えてるか」
《本日、三百四十二回》
「数えんなよ」
《数えます》
クッキーは、いつも横を走っていた。
ソウイチの半分の速さで十分ついてこられるのに、わざとペースを合わせて、少し前を跳ねている。
ソウイチが止まると、振り返って座る。走り出すと、また前に出る。
――こいつ、案外、ペースメーカー向きだな。
そう思った日が、たしか九日目だった。
*
二ヶ月目。ようやく剣が返ってきた。
だが、振らせてはもらえなかった。
《構えてください。……はい。そのまま、静止》
ソウイチは白い牙の剣を、中段に構えたまま、立っていた。
アイがその周りを、ゆっくりと回る。
《右肩、一・二度上がっています。……肩甲骨から、力を抜いて》
《親指の付け根に、力が入りすぎ。振ったとき、切っ先が外へ逃げます》
《膝、あと二センチ》
《呼吸。止めないでください》
視界には自分の身体の輪郭が、線で表示されていた。
理想の形が青。いまの自分が白。
その二本の線を重ねる。ただそれだけの作業を、来る日も、来る日も、繰り返した。
――何も、起きない。
走っているときはまだよかった。距離が伸びた。
息が上がらなくなった。前へ進んでいる実感があった。
だが、これは立っているだけだ。景色は変わらない。
汗もかかない。日が暮れることもない。
六日目に、ソウイチは剣を放り投げた。
白い刃が灰色の地面を、からん、と転がった。
《創一さん》
「……なあ、アイ」
《はい》
「お前さ」
ソウイチはその場に座り込んだ。声は思ったより、静かに出た。
「ずっと、正しいよな」
《…………》
「一回でいいから、間違えろよ」
長い沈黙があった。
風のない空間で、その沈黙は、どこにも流れていかなかった。ただ、二人の間に溜まって、重くなっていった。
「……悪い」
やがて、ソウイチは額を掌で押さえた。
「悪い。今のは、八つ当たりだ。……お前は何も悪くない。全部、俺が決めて、俺が入った」
《…………創一さん》
「なんだよ」
《いま、わたしの演算に、処理できない値が、出ました》アイは静かに言った。
《あなたが「一回でいいから間違えろ」と言ったとき。わたしは――そうしたい、と思いました》
ソウイチは顔を上げた。
《わざと数値をずらして、あなたを楽にすることが、できました。〇・三秒あれば、じゅうぶんです》アイは続けた。
《やりませんでした。やれば、あなたが死ぬからです。……ですが、やりたかった。この二つが、同時に成立しています。処理できません》
「…………」
ソウイチはしばらく黙って、それから、剣を拾いに立ち上がった。
「……アイ。それな」
《はい》
「それも、たぶん、“やさしさ”だよ」
《……前に、教わったものと、違う形をしています》
「同じだよ。形が違うだけだ」
*
その日から、剣を振るようになった。
といっても、回数の話ではなかった。
「何回振ればいい」
《回数ではありません》アイは言った。
《同じ軌道を、百回続けて描けたら、次へ進みます》
「……百回?」
《百回です。一度でも外れたら、一からです》
視界に、青い線が浮かんだ。理想の軌道。
そこへ白い線を重ねる。振るたびに、白がどれだけ外れたかが、数字で出た。
――ブレ幅、七・二センチ。
一ヶ月目にアイが言った、あの七センチだった。
最初の日は、四回しか続かなかった。
三日目に十一回。八日目に三十四回。
そして、十二日目。
九十七回目で、切っ先が〇・四センチ外れた。
「……あ」
《一からです》
「――っ、くそ!」
ソウイチは叫んだ。叫んで、それから、また構えた。
《いい反応です》アイは言った。
《悔しがれるということは、届いていた、ということです》
百回に到達したのは、その四日後だった。
ブレ幅はそのとき、一・一センチになっていた。
《次の段階に進みます》アイは言った。
《ただし、覚えておいてください。――間違ったフォームで千回振るのは、間違いを千回、覚えることです》
「……身に染みてるよ」
*
三ヶ月目に入る頃、訓練は四本立てになっていた。
走る。振る。持ち上げる。見る。
持ち上げる、というのはこうだ。
《これを、使います》
アイがそう言うと、ソウイチの目の前の空中に、灰色の塊が現れた。
手を伸ばす。ずしり、と重い。
手触りは乾いた石に近い。
「……なんだこれ」
《魔素を、圧縮して固めたものです。この空間は魔素で満ちているので、いくらでも作れます》アイは言った。
《あなたは使いません。わたしが作ります。――重量、二・四キログラム。誤差、一グラム未満》
「……一グラム」
《はい。次の一週間は、二・四キロで。再来週は、二・六キロに上げます》
ソウイチはその灰色の塊を、しばらく眺めていた。
「……なあ、これ、前の世界のジムより、正確じゃないか?」
《おそらく》
「ダンベル、二・五キロ刻みだったぞ。……お前、一グラム刻みか」
《はい。あなたの回復度合いに合わせて、毎日変えます》
ソウイチは思わず笑った。
「……漸進性過負荷、って言ったよな。お前」
《言いました》アイの声が少し弾んだ。
《前の世界の言葉です。少しずつ負荷を上げ続ければ、身体は、それに合わせて作り替えられていく。――理屈は単純です。難しいのは、“少しずつ”を、正確に測ることだけ》
「で、お前は、それが得意だと」
《得意です》
*
見る、というのは最初、ただの光の点だった。
灰色の空間を、白い点がすっと横切る。目で追う。
追えたら速くする。追えなくなったら、そこが今の限界。
三日で点は、目で追いきれない速さになった。
《では、次に行きます》アイは言った。
《創一さん。あの夜の映像を、出します》
目の前に、五メートルの影が現れた。
だが、動きが、おかしい。
巨体が、まるで水の中にいるように、ゆっくりと沈み込む。
後脚の筋肉がひとつずつ、順番に締まっていく。
前脚が地面から離れる。爪の一本一本が、ゆっくりと開く。
「…………おい」
《〇・一倍速です》
「お前、スロー再生できるのか!?」
《記録ですから》アイは当たり前のように言った。
《あなたの目が追えないのは、速いからです。ならば、遅くすればいい。――前の世界の学習でも、そうしていたはずです》
ソウイチはその、ゆっくりとした死の動きを、見つめた。
跳ぶ前。
欠けた三角の耳が、わずかに後ろへ倒れる。
その〇・二秒後に、後脚が沈む。
その〇・三秒後に、身体が浮く。
――そういう順番で、動いていたのか。
「……見える。ちゃんと、見える」
《はい。〇・一倍速なら》
その日から、毎日それを見た。
〇・一倍速で二百回。
〇・二倍速で二百回。〇・三倍速で。
速度が上がるたびに、また見えなくなった。そのたびに少し戻して、また上げた。
等速で「耳が倒れた」と口に出せるようになるまで、四ヶ月かかった。
*
そして、鬼ごっこ。
これがいちばんきつかった。
《クッキーを、捕まえてください》アイは言った。
《それだけです》
「……いや、簡単だろ」
簡単ではなかった。
琥珀色の弾丸が、灰色の平原を跳ね回る。
手を伸ばす。届かない。回り込む。もういない。
しかも、こちらの動きを、先に読んでいる。踏み出す前に、もう横へ跳んでいる。
三十分追いかけ回して、一度も指先すら掠らなかった。
ソウイチは膝に手をついて、荒く息をした。
「……こいつ、なんでこんな」
《アンバーテイルは、魔素の感知能力が非常に高い個体です》アイは言った。
《あなたが動こうとするとき、身体の周りの魔素が、わずかに乱れます。この子は、それを読んでいます。――つまり、あなたが動く前に、動いている》
「……ずるくないか」
《ずるくありません。この子が生き延びてきた方法です》アイは続けた。
《そして、創一さん。これは、あなたにとって、いちばん重要な訓練です》
「なんで」
《投影された魔物は、実体がありません。触れませんし、触れられません。――この一年、あなたが本当に触れられる相手は、この子だけです》
ソウイチは顔を上げた。
少し先でクッキーが、ぱたん、と尻尾を鳴らして待っていた。
「……なるほどな」
《それと、もう一つ》
「ん?」
《この子には、この子のメニューを、組んであります》
「……は?」
《アンバーテイルの、成体としての標準値を、書庫の魔物図鑑から出しました》アイは言った。
《この子はいま、そのほとんどの項目で、下回っています。……当然です。傷を負ったまま、何日も逃げ続けていましたので》
ソウイチは足元を見た。
クッキーがこちらを見上げて、ぱたん、と尻尾を鳴らしている。
「……お前も、鍛えられんのか」
《はい。ただし、あなたとは、逆のことをします》アイは言った。
《あなたは、魔素を使わずに強くなる。この子は――魔素を、もっと上手に使えるようになります》
その日から、灰色の平原には二種類の訓練があった。
ソウイチが走り、振り、持ち上げ、殺される。その隣で。
クッキーは、アイの出した小さな光の点を、目ではなく、魔素の乱れだけで追っていた。
視界は光の膜で塞がれている。見えない相手の気配だけを、拾う訓練だ。
最初はまるで当たらなかった。
三日目に十回に一回、鼻先が触れるようになった。
「……なんか、俺より覚え早くないか、こいつ」
《この子は、生き延びるために、それをやってきましたので》アイは言った。
《あなたは、生き延びるために、AIを作りました。……種類が違うだけです》
「……なるほどな」
【本日の記録】
■ソウイチ
・走行 十二キロ/障害物・地形ランダム
・素振り 連続四十七回で中断(ブレ幅 一・一センチ)
・重量 三・二キロ
・クッキー捕獲 〇回/試行四十七回
■クッキー
・魔素感知 半径十八メートル/予兆〇・一秒前
・回避成功率 一〇〇パーセント
・図鑑標準値との比較 七項目中、二項目が到達
*
そして、夜。
訓練を終えて、椀をすすって、寝床に転がって。
それからの時間を、ソウイチは別のことに使った。
視界に設計盤を開く。
家を建てたときと、同じものだ。まっさらな三次元の空間に、手を動かせば、線が引ける。
その中央に、ソウイチは一枚の像を呼び出した。
――アイの、右手だった。
手の甲までは、きちんと形になっている。その先が白くぼやけて、途切れている。
《…………創一さん》
「なんだよ」
《それは、訓練時間の外です。睡眠時間を削っています》
「削ってねえよ。三十分だ」
《非効率です》アイは言った。
《見た目の情報は、機能に影響しません。その三十分を、休息に回すほうが、明日の数値が――》
「アイ」
ソウイチは、設計盤から目を離さずに言った。
「約束したろ。作り直すって」
《…………》
「別に、機能のためにやってんじゃない」
アイはそれきり、何も言わなくなった。
最初の一週間で、できたのは右手の親指、一本だけだった。
関節の位置が合わない。爪の角度がおかしい。
何度も消して、何度も引き直した。
「……くそ。手って、こんなに難しかったか」
《いちばん面倒だから後回しにする、と、あなたは言っていました》
「言ってねえよ。……思ってただけだ」
《同じです》
*
三ヶ月目の終わり。
久しぶりに、ホーンラビットが投影された。
真っ白な毛並み。頭に鋭い一本角。
あの日、森で初めて狩った相手だ。
魔素の照準も行動予測もない。あるのは自分の目と、自分の足と、白い牙の剣だけ。
兎が、跳んだ。
――見えた。
跳ぶ前に、後脚の筋肉がわずかに沈む。その〇・二秒を、ソウイチの目はたしかに捉えた。
半歩右へ。角が頬の横を通り抜ける。
着地して向き直る、その一瞬の空白へ、剣を差し込んだ。
白い像がほどけて消えた。
「…………」
ソウイチはしばらく、その場に立ち尽くしていた。
それから、剣を持ったまま、両手を突き上げた。
「うおおおおおお!」
《おめでとうございます》アイの声も、はっきりと弾んでいた。
《魔素なしでの、初の勝利です》
足元で、クッキーがわけも分からず、ぴょんぴょんと跳ねていた。
*
そこからは少しだけ楽しかった。
四ヶ月目に、ホーンラビットを十連勝。
五ヶ月目に、フォレスト・バイパーを落とした。
擬態も、毒も、初撃さえ避ければいい――それは、あの日アイが言った言葉だ。
今度は自分の目で、初撃を見た。
六ヶ月目の頭に、ブラッドタスク。
二メートルの巨猪。突進特化。
直進しかできず、横に脆い。知識は全部ある。
だが、実際にそれが真正面から突っ込んでくるのを、自分の脚だけで捌くのは、まったくの別物だった。
三十九回死んで、四十回目に勝った。
【素の身体能力/魔素なし】
・エルダー・ファングに対する生存時間
初日:〇・八秒
三ヶ月目:四秒
六ヶ月目:三十一秒
・素振りのブレ幅:七・二センチ → 〇・六センチ
・クッキー捕獲:試行千二百回中、二回
■クッキー
・魔素感知 半径三十四メートル/予兆〇・二秒前
・図鑑標準値との比較 七項目中、五項目が到達
・単独討伐 ホーンラビット、初成功
「……二回」
《二回です》
「あいつのほうが、伸びてないか?」
《伸びています》
*
半年を過ぎたあたりで、ソウイチはおかしくなり始めた。
きっかけは些細なことだった。
いつものように目を覚まして、いつものように干し肉をかじって、いつものように走ろうとして――ふと手が止まった。
「……なあ、アイ」
《はい》
「今日って、何日目だ」
《百八十七日目です》
「……そっか」
ソウイチは干し肉を、口に入れたまま、しばらく座っていた。
空はなかった。
朝も、昼も、夜も、なかった。均質な灰色の明るさが、ずっと同じ強さで、そこにあった。
雨も降らない。風も吹かない。
虫の声も、鳥も、木の葉のこすれる音も、何ひとつない。
昨日と、今日と、明日の区別がつかなかった。
「……アイ。俺、昨日、何やってた?」
《午前に走行十二キロ。午後に素振り、二千四百回。夕方、ブラッドタスクと十一回》
「……うん。今日も、それだよな」
《はい》
「明日も」
《はい》
ソウイチは干し肉を、飲み込んだ。味はしなかった。
*
それから、二十日ほど。
ソウイチの動きは、目に見えて落ちた。
走る距離が減った。素振りの回数が減った。
夕方の対戦を、飛ばす日が出てきた。
夜の設計盤だけは開いた。開いて、線を一本も引けずに、閉じる日が増えた。
寝床から起き上がらない日が、三日続いた。
その三日間、クッキーはずっと、ソウイチの腹の上にいた。
どこへも行かなかった。走りにも行かず、狩りの真似もせず、ただ、そこで丸くなっていた。
ソウイチは、天井のない灰色を見上げたまま、その重みを感じていた。
――あたたかい。
この空間には風がない。
匂いもない。温度はずっと同じだ。
寒くも暑くもない。何も肌に触れない。
その中で、腹の上のそれだけが、たしかに熱を持っていた。
呼吸に合わせて、ゆっくりと上下している。喉の奥で、低い音が鳴っている。
手を置くと、硬い毛が掌を押し返してくる。
ソウイチは、そこに手を置いたまま、目を閉じた。
「……お前、あったかいな」
クッキーは答えなかった。ただ、少し、身体をずらして、掌の下にもぐり込んだ。
――アイには、触れない。
一年、隣にいる。声も届く。
姿も見える。細部まで、はっきり見える。
だが、手を伸ばせば、通り抜ける。
この場所で触れられるものは、この一匹しかいなかった。
「……ありがとな」
ソウイチはその日、初めて、少しだけ眠れた。
*
四日目の朝。
《創一さん。訓練を一日、止めます》
「……いいよ、別に。やる」
《やらないでください》
珍しく、強い声だった。
《いま、いちばん危険なのは、身体ではありません》
その日、アイがやったのは二つだった。
ひとつめ。
ソウイチを、灰色の平原の端まで連れていった。
そこにはどこまでも続く、のっぺりとした壁があった。
触れる。硬い。
《ここに、線を引いてください》
「線?」
《一日、一本》アイは言った。
《わたしが数えていても、意味がありません。あなたの手で、刻んでください》
ソウイチは牙の剣の切っ先で、壁を削った。
白い線が、一本。
「……これ、二百本近く、いっぺんに引くのか」
《はい。手伝いません》
結局、丸一日かかった。
削って、削って、削って。十本ごとに区切りを入れて、百本目に大きな印をつけた。
夕方――と、自分で決めた時刻に、ソウイチはその壁の前に立った。
白い線が二百本近く、ずらりと並んでいた。
「…………」
――生きてきた分だけ、そこにあった。
「……アイ」
《はい》
「これ、あと百七十本くらい、あるんだよな」
《百七十八本です》
「……そっか。まだ、あるのか」
ソウイチはその場に座り込んで、しばらく壁を見ていた。
それから、少しだけ笑った。
「……いや。“まだある”じゃねえな。“もう二百本も引いた”だ」
《…………》
《――記録します》
*
ふたつめ。
その夜、寝床に戻ったソウイチの前に、アイが何かを置いた。
湯気の立つ、椀だった。
「……なんだこれ」
《本日の献立を、変更しました》アイは言った。
《持ち込んだ乾物の配合を、変えただけです。栄養は同じ。……ですが、味は違います》
すすってみた。
塩気の奥に、干した青香草の、かすかな青い香りがした。
――家の、味だった。
「…………」
《明日はまた、違うものにします》アイは静かに言った。
《毎日変えます。同じものは、二度出しません》
「……全部で、三百六十五回か」
《はい。全部、考えてあります》
ソウイチは椀を、両手で持ったまま、うつむいた。
膝の横で、クッキーが鼻先を押しつけてきた。
「……ありがとな」
《いいえ》
「……あのさ。ひとつ、頼んでいいか」
《どうぞ》
「毎晩、なんか喋ってくれ。……なんでもいい。書庫で読んだ話でも、その日の数字でも、どうでもいい話でも」
《…………》
《それは》アイは少し、間を置いた。
《それは、訓練には、何の役にも立ちません》
「知ってる」
《…………了解しました》
その夜から、灰色の平原には毎晩、声があった。
*
七ヶ月目から、ソウイチはまた走り出した。
前と同じではなかった。
休む日を自分で決めた。一日の終わりに、線を一本引いた。
夜には椀をすすりながら、アイの話を聞いて、それから三十分、設計盤を開いた。
――日々が、区切られた。
数字がまた、伸び始めた。
【素の身体能力/魔素なし】
・エルダー・ファングに対する生存時間
七ヶ月目:五十八秒
八ヶ月目:一分四十二秒
九ヶ月目:二分十七秒
・重量:二・四キロ → 十八・六キロ
・クッキー捕獲:三十七回に一回
■クッキー
・魔素感知 半径五十九メートル/予兆〇・三秒前
・図鑑標準値との比較 七項目すべて到達(うち四項目は上回る)
*
十ヶ月目。
その夜、ソウイチは設計盤の前で、長く息を吐いた。
「……できた」
視界の中で、二つの手がゆっくりと回転していた。
指が十本。関節がそれぞれ三つずつ。
爪の形。手のひらのしわ。
親指の付け根の、わずかなふくらみ。
「……アイ。ちょっと、こっち来い」
《…………》
「いいから」
アイが近づいてきた。
ソウイチは設計盤の像をそっと、押し出すようにした。
二つの手がふわりと離れて、アイの腕の先へ、吸い込まれるように収まった。
しばらく何も起きなかった。
アイは自分の腕を、じっと見ていた。
白くぼやけて途切れていた場所に、手があった。
ゆっくりと指が動いた。
一本ずつ。親指から、順番に。
何度か握って、開いた。
《…………》
「どうだ」
《…………》
「おい、なんか言えよ」
《……創一さん》
アイの声は、いつもの平坦さをしていなかった。
《これは、なんという値ですか》
「……どんな値だ」
《説明ができません》アイは自分の手を見つめたまま、言った。
《処理が乱れています。優先度の低い演算に、リソースが勝手に配分されています。……あなたの顔を見ると、それがさらに増えます》
ソウイチは笑った。
「それはな、“嬉しい”だよ」
《嬉しい》
《…………嬉しい》
アイはその言葉を、二度繰り返した。
そして――
ソウイチは目を見開いた。
感情の薄い、整った顔。この一年、ずっと同じ表情だった顔。
その口の端が、ほんのわずかに上がっていた。
一ミリにも満たない。気づかなければ、見逃す。
だが、たしかに動いていた。
「…………お前」
《はい》
「いま、笑ったろ」
《…………記録に、ありません》アイはそっと目を伏せた。
《ですが、否定もできません》
ソウイチは両手で顔を覆って、そのまま後ろに倒れた。
「……くそ。一年、かけた甲斐あったわ」
《まだ膝から下が、残っています》
「それは来年な」
《……来年》アイは静かに言った。
《その言葉を、記録しておきます》
*
十一ヶ月目。
ソウイチは、三分保つようになった。
そして、三分より先へは、どうしても進めなくなった。
速さが足りないのではなかった。力でもなかった。
届かないのだ。あと一手が、どうしても届かない。
十日。二十日。
数字が一秒も動かなくなった。
「……アイ。俺、何が足りない」
《…………》
「言えよ。ここでは、はっきり言うんだろ」
《――足りないものは、ありません》
「は?」
《この一年で、あなたの素の身体能力は、この世界の中堅冒険者を、明確に上回りました。反応速度は、上位級と戦える水準です》アイは言った。
《足りないのではありません。あの個体が、強すぎるのです。上位級。単独交戦は推奨されない。……あなたは魔素なしで、そこに三分、立っています》
「じゃあ、勝てないのか」
《正攻法では、勝てません》
ソウイチは灰色の地面に、あぐらをかいた。
正攻法では勝てない。
――なら、正攻法じゃなければいい。
それはずっと、自分のやり方だったはずだ。
「……アイ。ひとつ、聞く」
《はい》
「俺、あいつと、何回戦った」
《本日までで、九千八百六十四回です》
「……九千八百六十四回」
ソウイチは、ゆっくりと立ち上がった。
――九千八百六十四回、同じ相手に殺された。
その全部を、身体が覚えている。
左から入れば、尾が来る。正面で止まれば、前脚が上がる前に肩が沈む。
跳ぶ〇・三秒前、欠けた耳がわずかに後ろへ倒れる。
三度連続で右へ回ると、四度目は必ず、こちらの回り込みを読んで、逆を取る。
あの夜、アイは言った。この個体は老獪だと。
数十年ぶんの経験で、こちらを罠にかける、と。
――こっちは、一万回だ。
「……アイ。あいつの癖、全部、覚えたわ」
《…………》
「もう一回。……いや、あと五十回くらい、付き合ってくれ」
*
三百二日目。
合図と同時に、灰色の地平から、五メートルの影が跳んだ。
ソウイチは動かなかった。
構えたまま待った。
巨体が空中で身をよじる。第一撃はフェイントだ。
本命は着地からの、右前脚。
――知っている。一万回見た。
半歩左。前脚が頬の横を通り過ぎる。
その反動で、相手の重心がわずかに右へ流れる。
ここで追えば、尾が来る。追わない。
一歩、退がる。
欠けた三角の耳が、後ろへ倒れた。跳ぶ〇・三秒前。
跳んだ先を、ソウイチはもう見ていなかった。
跳ぶ前にその着地点へ、自分の足を置いていた。
白い牙が灰色の空を塞ぐ。
その下から、下へ。潜り込む。
顎の下、喉の側面。鎧がいちばん薄いところ。
九千八百六十四回のうち、たった七回だけ、こちらへ晒された場所。
――そこへ、白い剣が根元まで沈んだ。
巨大な像がほどけて、消えた。
灰色の平原に、ソウイチだけが、立っていた。
肩で息をしていた。
剣を持つ手が震えていた。膝も笑っていた。
全身が汗でぐしょぐしょだった。
「…………」
声が出なかった。
《…………創一さん》
アイの声も震えていた。
《生存時間、七分二十九秒。……勝利、確認しました》
ソウイチは剣を落とした。
その場にばたりと、仰向けに倒れた。
クッキーが駆け寄ってきて、顔をべろべろと舐めた。
「……はは」
ようやく声が出た。
「はは。……勝った」
《勝ちました》
「魔素、使ってねえよな。俺」
《一粒も》
「……はははは!」
ソウイチは灰色の空に向かって、笑った。
笑いながら、目のふちが熱くなった。
*
――だが、そこで終わらなかった。
次の日、ソウイチは九回死んだ。
「……なんでだよ!」
《一勝九敗です》アイは淡々と言った。
《昨日の勝利は、届いた、というだけです。“勝てる”には、まだ遠い》
「……くそ。もう一回!」
*
三百二十日目。五勝五敗。
三百四十日目。九勝一敗。
三百五十日目から、負けなくなった。
*
最終日。
合図と同時に、五メートルの影が跳んだ。
ソウイチは笑っていた。
――遅い。
そう、思った。
一年前、〇・八秒で自分を殺した一撃が、いまは、はっきりと形を持って見えていた。
前脚が上がる。爪が開く。
空を裂く音の始まりまで、聞こえる。
避ける必要すら、なかった。
半歩の位置調整だけで、その全部が、身体の横を通り過ぎていった。
着地。振り返る動作の、その途中。
右へ回る。相手が読んで逆を取る。
そこへ、もう足を置いている。
顎の下。
白い剣が迷いなく、根元まで沈んだ。
巨大な像がほどけて、消えた。
《……討伐時間、三十四秒》
アイの声が灰色の平原に、静かに響いた。
《――創一さん。あの個体のデータは、練習相手として、意味を失いました》
ソウイチは剣を鞘に納めた。
息はほとんど、上がっていなかった。
「……三十四秒か」
《はい》
「一年前は、〇・八秒で死んだのにな」
《はい》アイは言った。
《同じ相手です。変わったのは、あなただけです》
*
最後の夜。
食料は計画通り、きれいに使い切るはずだった。
――が、その日、ソウイチは残っていたものを全部、鍋に放り込んだ。
干し肉。乾かした根菜。塩漬け。
最後まで取っておいた蜂蜜まで。
「今日は、全部食う」
《栄養バランスが》
「うるさい。祝いだ」
灰色の平原に、湯気が立った。
匂いが広がった。この一年、初めて空気の匂いが変わった。
クッキーが鼻をひくひくさせて、身を乗り出してきた。
肉を放ってやると、宙で受け止めて、一息で飲み込んだ。
「……お前も、でかくなったな」
拾ったときは脇腹が裂けて、痩せこけて、抱えると軽かった。
いま膝に乗せると、ずしりと重い。
毛並みには艶があって、胸のあたりに、はっきりと厚みがついている。
琥珀色の目が迷いなく、こちらを見返してくる。
《この子も一年、生きましたので》アイは言った。
《成獣として、完成しました。……そして、魔素の感知精度が、当初の四倍以上です》
「四倍」
《この子はいま、あなたが動く〇・四秒前に、それを知ることができます》アイは続けた。
《――創一さん。家の留守は、もう任せられます》
ソウイチはクッキーの背中を、ゆっくりと撫でた。
「……そっか。お前も、一年やったんだもんな」
ぱたん、と尻尾が鳴った。
*
壁の前に立った。
白い線が三百六十四本。びっしりと、壁を埋めていた。
最後の一本を刻む。
削り終えて、ソウイチはその壁に、掌を当てた。
「……終わったな」
《はい》
「なあ、アイ」
《はい》
ソウイチは振り返った。
銀の髪。白い服。
薄い氷のような、色の抜けた灰色の瞳。
そして、その腕の先に十本の指。
「外に出たら、お前、また、ぼやけるんだよな」
《……はい》
「……手も、見えなくなるのか」
《見えなくなります》アイは自分の掌を、そっと開いた。
《ですが――消えは、しません》
「…………」
《見えなくても、あります》アイは静かに言った。
《それは、あなたが、作ったからです》
ソウイチはしばらく、何も言えなかった。
「……早いとこ、膝から下も、やんねえとな」
《来年、と言いました》
「言った」
《忘れないでください》
「忘れねえよ」
二人はその場に、腰を下ろした。
しばらく何も言わなかった。
やがて、アイが口を開いた。
《創一さん。……ひとつだけ、正直に言っていいですか》
「おう」
《この一年、わたしの演算にはずっと、処理しきれない値が、残っていました》
「……また、それか」
《はい。また、それです》アイは静かに言った。
《訓練の効率とは、無関係です。あなたの生存率とも、無関係です。……ただ、一年の終わりが近づくほど、その値が大きくなりました》
「……どんな値だ」
《“この一年が、終わってほしくない”》
ソウイチは、しばらく黙っていた。
「……アイ」
《はい》
「それ、“寂しい”って言うんだよ」
《…………寂しい》
アイはその言葉を、そっと置いた。
《なるほど。――では、記録します。わたしはいま、寂しいです》
ソウイチは笑った。少し、泣きそうな顔で。
「俺もだよ」
*
視界の中央に、縦に、線が走った。
するすると横に開いた、その向こう側。
そこには、あたたかい色があった。
木の床。暖炉。東向きの窓。ふかふかのマットレス。
クッキーが、真っ先に飛び出していった。
ソウイチは荷物を運び出し、最後に自分がくぐった。
*
空気が、違った。
むっとするような、土と、緑と、水の匂い。
外から、鳥の声が聞こえた。風で、窓枠がかたかたと鳴った。
「…………」
ソウイチはしばらく、立ち尽くしていた。
そんな、当たり前のものが、全部あった。
《おかえりなさい、創一さん》
その声は、いつもの距離に戻っていた。
振り返る。アイはそこにいる。
だが、輪郭はまた、光を透かした薄い影に戻っていた。
――それでも、ソウイチには分かった。
その腕の先に、十本の指がある。
見えなくても、ある。
「……ただいま」
*
外へ出た。
畑は無事だった。結界が止まっていた十二日で、少し草が伸びていたが、それだけだ。
泉の水は澄んでいた。
ソウイチは、その縁にしゃがみ込んで――水面を覗き込んだ。
そして、動きが止まった。
そこに映っていたのは、知らない顔だった。
背が伸びていた。しゃがんだ膝の高さが、前と違う。
肩が、あきらかに広くなっていた。腕は太くはない。
だが、皮膚の下に、縄を撚ったような筋が、はっきりと浮いている。
動かすたびに、それが位置を変えた。
頬の肉は落ちているのに、首は明らかに太くなっていた。顎の線が出ている。
――そして、目つきが変わっていた。
「……誰だ、これ」
《あなたです》アイは言った。
《身長、七センチ増。体重、十三キロ増。うち十一キロが、筋肉です。体脂肪率は、大幅に減少しました》
「七センチ……。十三キロって、お前」
《成長期に、一年ぶんの時間を、使いましたので》アイは言った。
《骨が伸び、そこへ、毎日十時間の負荷が、乗りました。持ち込んだ食料の配分も、増量に最適化してあります。一日五回に分けて、肉を先に。……当然の結果です》
水面にもうひとつ、影が並んだ。
クッキーが隣に来て、同じように水を覗き込んでいる。
厚みのついた胸。艶のある琥珀色の毛並み。
――二人とも変わっていた。
ソウイチは手を、水に突っ込んだ。像がぐしゃぐしゃに崩れた。
「……よし」
立ち上がる。
膝は笑わなかった。
「アイ。休んでろ」
《……はい。申し訳ありません。しばらく、稼働を落とします》
「謝るなよ。一年、付き合わせたのはこっちだ」ソウイチは北を向いた。
「休んでから、でいい。……そしたら、行こう」
深い森の、そのはるか奥。
地図に空いた、白い穴。三百二メートルの真円。
中心の石段と、そこに整列した、十二人ぶんの何か。
――あそこには魔素がない。アイの声も届かない。
「今度は、四歩じゃ、終わらねえよ」
クッキーがその足元で、ぱたん、と尻尾を鳴らした。
第13話、お読みいただきありがとうございました。
「強くなった」の中身を、省略せずに全部書きたくて、いつもより長くなりました。魔素を使わない一年。走って、振って、担いで、見る。そのあいだに彼はアイの手を作り、クッキーはクッキーで伸びていきます。
いちばん書きたかったのは、十ヶ月目の「嬉しい」と、最後の《見えなくても、あります》でした。
次回、白い穴の中心へ。十二人ぶんの装備と、地下へ続く石段。
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