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転生したのに魔力ゼロの落ちこぼれ〜自作AIと始める異世界無双〜  作者: NT


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12/20

第12話 while (true) { train(); }

第12話です。ついに、地図に空いた白いところへ向かいます。

その正体と、そこでソウイチが思い知ることになる、いちばん大きな弱点の話です。

 その実は、両手で持って、ちょうど収まる大きさだった。


 畑の土から引き抜くと、ずしり、と重い。ずんぐりとした涙のような形で、へたの側が細く、先へいくほど丸くふくらんでいる。


 地の色は、淡い若草色。


 そこへ、濃い緑の縦縞が五本。ほとんど等間隔に走っている。


 表面には、うっすらと白い粉が吹いていて、指でこすると、するりと落ちて下から艶のある肌が現れた。


 ソウイチはそれを夕日にかざしてみた。


「……お」


 薄い皮の下に、淡い金色の筋が細かく透けていた。葉脈のようにも血管のようにも見える。


 日が傾くにつれて、その筋がゆっくりと色を変えていく。


「アイ。これ、光ってないか?」


《魔素を、微量に含んでいます》アイは言った。


《この世界の作物には、ときどきあることです。害は、ありません》


「へえ……」


 ソウイチはしばらく、その実を回して眺めていた。


 それから、思い立って、収納に手を伸ばした。


 ――取り出したのは、親指の先ほどの小さな塊だった。


 硬い。灰褐色。


 表面には細かい皺が寄っていて、振ると、中でからから、と乾いた音がする。


 森で拾い集めた、ただの木の実。第八の日に畑に蒔いたのと、同じものだ。


 ソウイチはそれを掌の上に載せた。


 その隣に、両手で抱えた実を並べてみる。


「…………」


 あまりにも違った。


 からからに乾いた、指先ほどの木の実。


 淡い金の筋を透かせた、ずっしりと重い、若草色の実。


「これが……こう、なるのか」


《なります》アイは言った。


《同じものです。ただ、地面に埋められて、水をもらっただけです》


「……嘘だろ。誰も、気づかなかったのか。これに」


《誰も、埋めなかっただけです》アイは、静かに言った。


《木の実は、拾うものだと決まっていましたから》


 結局、その場では切らなかった。


 牙の剣を抜きかけて――抜いてから、慌てて鞘に戻した。


「あぶな。こいつで切ったら、実ごと真っ二つだ」


《指も、ついでに》


 家に戻って、工房で作った包丁を当てた。


 刃を入れた瞬間、皮が、ぱりん、と音を立てて裂けた。硬い皮の内側から、透明な汁がぼたぼたと、まな板に落ちる。


 断面は、半透明の乳白色だった。


 種はない。中心に小さな空洞があって、そこに澄んだ水が溜まっている。


 傾けると、こぼれた。


 匂いは、切るまでほとんどしなかった。


 割った途端、青くさい、けれど確かに甘い香りがふわりと立ち上がった。


 ソウイチは、そのままかぶりついた。


 しゃりしゃり、と歯が鳴る。梨よりも硬く、瓜よりも甘い。


 噛むほどに、口の中が水でいっぱいになった。


「……うまい」


 思わず、声が出た。


「うまいな、これ。畑って、いいな」


《記録します》アイの声も少し弾んでいた。


《播種から十四日。収量、十一玉。予測を二玉、上回りました》


 足元で、クッキーがふんふんと鼻を鳴らしていた。


 差し出してやると、一口かじって――ぺっ、と吐き出した。


「おい」


《肉食です》


「知ってるよ」


  *


 その夜。


 ソウイチは暖炉のそばで明日の支度をしていた。膝の上には、当然のようにクッキーが乗っている。


「アイ。残りの報告、聞かせてくれ」


《はい。二つ、あります》アイは言った。


《ひとつめ。境界の“縁”の測定が終わりました》


 視界に地図が広がった。


 深い森。その中に、白く抜けた領域。


 ただし、以前とは違って、今度はその輪郭がはっきりと引かれている。


「……うわ」


 ソウイチの喉が鳴った。


「これ、真円じゃないか」


《はい。半径、三百二メートル。誤差、四十センチ以内》アイの声は平坦だった。


《――創一さん。自然の地形は、こういう形にはなりません》


「……人が、作ったってことか」


《少なくとも、“意図”があります》


 ソウイチは地図の白をじっと見つめた。


「ふたつめは」


《紋章の様式です》アイは、続けた。


《鎖の留め具の刻印を、王家の紋章の変遷と照合しました。剣と、天秤と、茨。この三つの配置と、茨の巻き数。……特定できました》


「いつのだ」


《四十三年前から、四十年前までの三年間だけ使われた様式です》


 暖炉の火がぱちりと爆ぜた。


「……年代記の一行と、ぴったりだな」


《はい。“王命により、魔の森へ調査隊を派す。隊員十二名”。――あの鎖は、その調査隊が持ち込んだもので、ほぼ確定です》


 ソウイチはクッキーの背中をゆっくりと撫でた。


「四十三年前に、十二人が、この森に入った。王国の紋章が入った、でかい鎖を持って。……で、森の主を、生きたまま繋いだ」


《はい》


「そんで、そのあと、誰も、村に帰らなかった」


《――記録上は》


  *


 翌朝。療養十五日目。


 ソウイチは外套を羽織って、家の前に立った。


 銀灰の毛皮が、朝の光を鈍く弾く。この半月で、身体はすっかり動くようになっていた。


 肋の痛みも、もう深く息を吸ったときにかすかに引っかかる程度だ。


「アイ。身体強化、試させてくれ」


《どうぞ》


 外套の内側で、溜めておいた魔素がすっと全身へ回った。


 地面を蹴る。体が羽根のように浮いた。


「……速い。前より、明らかに」


《外套のバッファが効いています》アイは言った。


《起動から展開まで、以前の七割。あなたの発案です》


「へへ」


 足元で、クッキーが、とん、と跳ねた。


 あっさりとソウイチを追い越して、少し先で振り返り、こちらを見上げてくる。


「……お前、速いな」


《アンバーテイルは、魔素の感知能力が非常に高い個体です》アイは言った。


《危険の先読みなら、わたしより速いかもしれません。……連れて行きますか》


「連れてく。ていうか、置いてったら、勝手についてくるだろ、こいつ」


  *


 北へ、走った。


 森は、深くなっていく。木々の幹が太くなり、日の差し込む隙間が減り、空気がだんだん湿って、重くなった。


 途中、二度、魔物の反応があった。どちらも、こちらが気づく前に、クッキーが足を止めて耳を伏せた。


 そのたびにアイが迂回路を出し、戦わずに抜けた。


「……助かったよ、クッキー。お前、すごいな」


 琥珀色の尻尾が、ぱたん、と鳴った。


《正式に戦力として登録しました》


 半日ほど走って、木々がふいにまばらになった。


 そして――ソウイチは足を止めた。


 目の前に、線があった。


 いや、線ではない。何も引かれていない。


 ただ、そこから先の木が一本も生えていなかった。


 境目は恐ろしいほど、まっすぐだった。こちら側には苔むした巨木が密生している。


 一歩向こうは剥き出しの土だ。まるで巨大な刃物で、森を円く切り抜いたように。


 そして、その境目の手前。


 地面が、めちゃくちゃに掻き乱されていた。


「……これか」


 ソウイチは膝をついた。


 爪痕だった。


 深いもの、浅いもの。乾いて硬くなったもの、比較的新しく土がめくれたもの。


 それが、幾重にも、幾重にも重なっている。


 ひとつの溝の底に、さらに古い溝が見える。その底に、また。


 幅は、指四本ぶん。


 クッキーの脇腹を裂いたのと、同じ間隔だった。


「……何年ぶんだ、これ」


《数えられません》アイは言った。


《ですが、いちばん下の層は腐葉土に変わりかけています。少なくとも数十年》


 ソウイチは、その光景を頭の中に描いた。


 五メートルの巨躯が、この線の手前で地面を掻く。


 掻いて、掻いて、そのたびに鼻先が見えない何かに触れて、踵を返す。


 何年も。何十年も。


 首に、王国の鎖を巻いたまま。


「……入りたかったんだな。こいつ」


《おそらく》


「なんでだ。なんで、入れなかった」


《――それを、いま測っています》


 アイの声が、そこで止まった。


 長い、沈黙だった。


 ソウイチが顔を上げるほど、長かった。


「アイ?」


《…………創一さん》


「なんだよ。はっきり言え」


《あの中に――魔素がありません》


「……薄い、じゃなくて?」


《ゼロです》アイは、はっきりと言った。


《空気中の魔素濃度、検出限界以下。境界の内側一メートルで、垂直に切り落とされています。にじみも、勾配もありません。――こんな現象は、書庫のどの本にも載っていませんでした》


 ソウイチは、境界の向こうの剥き出しの土を見た。


 何の変哲もない、ただの地面だ。


 日が差している。風も抜けている。


「……それの、何がまずいんだ」


《まず、森の主が入れなかった理由が、これで説明できます》アイは言った。


《魔物は、魔素から生まれた生き物です。腹の魔石が魔素を束ねて、身体を回している。――クッキーが死にかけたときの話を、覚えていますか》


「……魔素が枯れると、死ぬ」


《はい。あの中は、補給がゼロです。魔物が足を踏み入れれば、そこから先は、一方的に減り続けるだけになります》


 ソウイチはぞっとした。


 四十三年。森の頂点に君臨した獣が、この線の手前で爪を立て続けた理由。


 入りたかったのではない。入れなかったのだ。


 入れば、死ぬから。


 足元で、クッキーが、ぐるる、と低く喉を鳴らした。


 その小さな体は境界の一メートル手前で、ぴたりと止まっていた。耳を伏せ、毛を逆立てて、それ以上、一歩も前に出ようとしない。


「……お前も、だめか」


《だめです。絶対に、入れないでください》アイの声が鋭かった。


《この子の魔石は、まだ完全には満ちていません。数分で危険域に入ります》


 ソウイチはクッキーの頭をそっと撫でた。


 それから、顔を上げた。


「――で、アイ。まだ、言ってないことがあるだろ」


《…………》


「魔素が無いってことは、俺も、何も使えないってことだよな」


《……はい》


 アイは、ごまかさなかった。


《身体強化。刃。収納。鑑定。あなたの視界に出ている、この操作画面も。――そして》


「そして?」


《わたしの声も届きません》


 風が、木々の間を抜けていった。


《わたしは、スキルです。ですが、演算も、あなたへの表示も、外界の魔素を媒体にして成立しています。境界の内側では、あなたが呼んでも答えられません》


 ソウイチはしばらく何も言えなかった。


 ――アイと出会ってから、一度もなかったことだ。


 鑑定の儀で笑われた日も。名前を奪われて放り出された日も。


 雨に打たれた夜も。森の主が月を隠した、あの瞬間も。


 いつも、耳のすぐそばに、この声があった。


「……アイ。ちょっとだけ、試させてくれ」


《創一さん》


「十歩だ。十歩入って、すぐ戻る」ソウイチは外套を脱いで、クッキーの背に掛けた。


「見てるだけじゃ、分かんねえよ。……頼む」


 長い沈黙のあと。


《……十歩です。それ以上は、追いかけて止められません》


「分かってる」


 ソウイチは線の手前に立った。


 一歩。


 それだけの距離だった。


 ――踏み出した瞬間、世界から、何かが抜けた。


 音が消えたのではない。虫の声も、葉擦れもちゃんとある。


 消えたのは、ずっと耳の奥で鳴っていた微かな“気配”のほうだった。


 半年近く、当たり前にそこにあったもの。それが、すとん、と落ちた。


 視界の隅から、操作画面が音もなく畳まれて、消えた。


「アイ」


 返事は、なかった。


「……アイ」


 なかった。


 二歩目で、腰の牙の剣が変わった。あの、手のひらに吸いつくような感覚が失せている。


 ただ、硬くて鋭いだけの白い塊が、腰にぶら下がっていた。


 三歩目。


 脇腹が、ずきん、と痛んだ。


「……っ」


 四歩目で、膝が勝手に折れた。


 身体強化が完全に切れている。半月かけて治した肋が、まだ治りきっていないことを、身体が正直に思い出していた。


 息を吸うたびに内側から刺される。


 ソウイチは四つん這いのまま荒く息をした。汗が顎から、乾いた土にぽたぽたと落ちて、すぐに吸われて消えた。


 顔を上げる。


 円の中心は遥か先だった。三百メートル。


 走れば一分もかからない距離が、いま途方もなく遠い。


 その真ん中に、四角い影が見えた。地面に開いた口。


 石を組んだ、下り階段。人の手で切り出された、明らかな建造物。


 その手前に――何かが並んでいた。


 等間隔に。細長いものがいくつも。


 ここからでは何なのか、分からない。


「…………くそ」


 ソウイチは歯を食いしばって、身体を回した。


 四歩ぶんの距離を這って戻った。


 線を越えた瞬間、すべてが戻ってきた。


《創一さん!》


 耳のすぐそばで、その声が弾けた。


「――っ、はぁ……!」


 全身に、魔素が回る。痛みが引く。


 視界の隅に、操作画面がするりと開いた。


 ソウイチは仰向けに倒れ込んで、天を仰いだ。


 クッキーが駆け寄ってきて、顔をべろべろと舐めた。


「……悪い。悪かった」


《四歩でした》アイの声が震えていた。


《宣言より、六歩、少ない》


「歩けなかったんだよ」


 ソウイチは笑った。笑って、それから、真顔になった。


「……アイ。無理だ、これ」


《はい》


「今の俺じゃ、三百メートル、歩けない。往復で六百だ。……途中で、何かあったら、詰む」


《はい》


「見えたんだよ。真ん中に、階段があった。その手前に、何かが並んでた」ソウイチは身体を起こした。


「知りたい。すげえ知りたい。……でも、今行ったら、俺、死ぬな」


《……はい》


 ソウイチは自分の掌を見た。


 半月前、肋を折られ、腕を裂かれた身体。何の訓練も積んでいない、社畜だった身体。


 この半年、強くなったつもりでいた。格上の魔物を倒した。


 家を建てた。命を助けた。


 ――全部、アイがいたからだ。


「……なあ、アイ。俺さ」


《はい》


「ずっと、お前に、乗っかってたんだな」


《…………》


「別に、悪いとは思ってない。お前は俺が作ったし、頼るために作った」ソウイチは乾いた土を見つめた。


「でも、あの中じゃ、お前は、いない。あそこで戦うのは、俺の足と、俺の腕だけだ」


 しばらく、返事はなかった。


 やがて、アイが静かに言った。


《創一さん。……ひとつ、まだ報告していないことがあります》


  *


 家に戻ったのは日が暮れてからだった。


 暖炉に火を入れて、湯を沸かして、ソウイチはようやく腰を落ち着けた。


 膝の上にはクッキー。当然のように。


「で。報告って、なんだ」


《この半月で、わたしのレベルがまた上がりました》アイは言った。


《解放された機能を一つ、まだお伝えしていません》


「おお。なんだよ、もったいぶって」


《亜空間の、工房です》


「工房? もう使ってるだろ、あれ」


《使っています。ですが――創一さん。あの中の時間が、外よりゆっくり流れていること。覚えていますか》


 ソウイチの手が、湯呑みの手前で止まった。


「……覚えてる。木を入れといたら、勝手に板になってるやつだ」


《はい。外の一時間で、中では数日ぶんの加工ができます。……これまで、あの空間は素材を置くための、狭い棚のようなものでした》


「……ようなもの、だった?」


《いまは》アイの声がはっきりと弾んだ。


《人が入れるだけの広さと、安定を確保できます》


 ソウイチは湯呑みを置いた。


「……待て。待て待て。それ、つまり」


《外で一日。中で、一ヶ月です》


 暖炉の火がぱちぱちと鳴っていた。


 ソウイチはしばらく何も言えなかった。


「……一日で、一ヶ月」


《比率は、およそ三十対一です》


「……十二日、こもったら」


《中では、一年です》


 ソウイチの背中を、ぞくり、と何かが走った。それは、恐怖なのか、興奮なのか、自分でも分からなかった。


「アイ。それ、俺、鍛えられるのか。中で」


《それがいちばんの用途だと、判断しました》アイは、続けた。


《ただし。先に、制約を五つ、申し上げます。これを聞いてから、決めてください》


「……おう」


《ひとつ。空間の維持に、わたしの演算をほぼ全部使います。中にいるあいだ、外の結界は止まります。収納も、鑑定も、地形スキャンも。――この家は、その間、無防備です》


「……十二日か」


《はい。森の主は、もういません。それでも、賭けであることに変わりはありません》


「分かった。次」


《ふたつ。食料と水は持ち込んだぶんだけです。中に、畑も、獣も、水場もありません。一年ぶん、事前に用意する必要があります》


「保存食を、作りだめするわけだ」


《はい。みっつ。出たあと、わたしに長い休止が必要です。連続では使えません》


「ハウリングと、同じだな」


《同じです。――そして、よっつめ》


 アイの声が少しだけ低くなった。


《中で流れる時間は、あなたにとって本物です》


「……本物」


《一年こもれば、あなたの身体は一年ぶんの時間を、本当に使います。外の世界は、十二日しか進んでいないのに》アイは、言葉を選ぶようにゆっくりと言った。


《成長期のあなたにとって、それは悪いことばかりでは、ありません。身体は一年ぶん、育ちます。……ですが》


 ソウイチはその先を自分で言った。


「……外の世界から、一年ぶん、置いていかれる」


《はい》


 窓の外には、月に照らされた森があった。


 そのはるか向こうに村がある。街道がある。


 あの朝、荷物を背負って歩き出した、亜麻色の髪の少女がいる。


 ――向こうの一年は、こちらの十二日。


 こちらの一年は、向こうの十二日。


 同じ時間を生きられなくなる。


「……五つめは」


《五つめは》


 アイはそこで、一度言葉を切った。


《単調です》


「……単調」


《同じ場所で、同じことを一年。景色は変わりません。季節も来ません。夜も、明けません。誰にも会いません》アイの声は平坦だった。


《人間が、それに耐えられるという保証は、どこにもありません。むしろ――記録を検索する限り、人間は、そういう環境にいちばん弱い》


 ソウイチは天井を見上げた。


 一年。誰もいない場所で、たった一人。


 前の世界で、終電で帰って、コンビニ飯を食って、誰とも喋らずに眠った日々を思い出した。


 あれは、ひどく長かった。あれで、たった数年だ。


「……なあ、アイ」


《はい》


「お前は、中に、いるんだよな」


《――います》


 即答だった。


《空間そのものがわたしです。中では、いつもより、はっきり見えるかもしれません》


 ソウイチはしばらく黙って、それから、膝の上のクッキーをそっと持ち上げた。


「こいつは」


《連れて行けます。亜空間の内側は、魔素で満ちていますので》


「……そうか」


 ソウイチはクッキーをもう一度膝に戻した。


 琥珀色の背中をゆっくりと撫でる。日向の匂いがした。


「じゃあ、大丈夫だ」


《…………》


「一人じゃないんだろ。それなら、耐えられる」


  *


 準備に、六日かかった。


 狩って、燻して、干して、塩を打った。畑のものは片っ端から漬けた。


 工房が動かせるうちに道具を作れるだけ作った。水は浄化して、樽に詰めた。


 薪も積んだ。灯りの油も。


 着替えも。研ぎ石も。


 その六日で、身体のほうにも決着がついた。


 三日目の朝、アイがいつもの調子で言った。


《骨癒合、完了しました》


「……マジか」


《肋骨、二本とも。仮骨が完全に置き換わりました。――試しに、思いきり吸ってみてください》


 ソウイチは恐る恐る、胸を大きく開いた。


 この半月、そのたびに内側から刺されてきた場所が――何も言わなかった。


「……痛くない」


《はい》


「痛くないぞ、アイ! 全然!」


 思わず両腕を上げて、思いきり伸びをした。上体をひねっても、腕に力を入れても、何も来ない。


 岩壁に叩きつけられた、あの夜から二十日と少し。本来なら、まだ半分も過ぎていない計算だった。


《《超回復》の通算稼働、三百八十時間》アイは言った。


《ちなみに、あなたはこの半月、ほとんど食べて寝ていただけです》


「その言い方、やめろ」


 五日目には左腕の糸を抜いた。


 アイが魔素で結び目を切り、一本ずつするりと引き抜いていく。ちくちくとした違和感が消えたあとに残ったのは――肘から手首まで、まっすぐに走る、細く白い線だった。


 指でなぞってみる。まわりの肌より、ほんの少しだけ硬い。


「……これ、残るのか」


《残ります。薄くはなりますが、消えません》


「そっか」


 ソウイチはその線を、しばらく眺めていた。


 森の主の爪が通った跡だ。


 あの夜、家と、畑と、アイを守るために、とっさに突き出した腕。


「……別に、いいや」


 袖を、下ろす。


「勲章ってことに、しとく」


《記録します》


 最後の夜、ソウイチは家の中をゆっくりと一周した。


 自分で削った椅子。上流から引いた水がめ。


 東向きの窓。ふかふかのマットレス。


「……行ってきます、って言うのも、変だな。ここにいるのに」


《変では、ありません》アイは言った。


《十二日後にまた、ここで目を覚まします》


「そっちにとっては、一年後だけどな」


《はい。一年、よろしくお願いします》


 ソウイチは笑った。


「こちらこそ」


  *


 視界の中央に、縦に線が走った。


 闇の色でも、光の色でもない。ただ、そこだけ世界が割れている。


 線は、するすると横に開いて、人が通れるほどの四角い口になった。


 向こう側は薄明るい灰色だった。


 地面がある。空がある。


 だが、どちらも、どこまで続いているのか分からない。


 太陽はなく、影もない。ただ、均質な明るさだけが満ちている。


 ソウイチは荷物を運び込んだ。何往復もした。


 最後に、クッキーを抱えて、その口をくぐった。


  *


 中は、無音だった。


 風がない。


 鳥もいない。虫もいない。


 足を踏み出すと、砂を踏むような乾いた音がした。それだけが、聞こえる音だった。


 振り返る。


 開いていた口は、もう閉じていた。


「……これ、けっこう、くるな」


《はい。想定どおりです》


 その声は、いつもよりずっと近かった。


 そして――ソウイチは目を見開いた。


 アイが、そこに立っていた。


 姿そのものは、いつもと同じだ。


 銀の髪。飾り気のない、白いだけの服。


 感情の薄い、整った顔。ソウイチにしか見えない、小さな少女。


 ――だが、まるで、違った。


 これまでのアイは、光を透かした薄い影のようなものだった。


 そこにいるのは分かる。輪郭も見える。


 けれど、じっと見ようとすると、細部がすっと逃げた。


 近づいて確かめようとするたび、像は水面の反射みたいに曖昧になった。


 いま、逃げなかった。


 銀の髪は、一本ずつ分かれて見えた。毛先のあたりだけが、ほんのわずかに青を帯びている。


 睫毛があった。数えられるほど、はっきりと。


 その下の瞳は、薄い氷のような色の抜けた灰色だった。


 白い服には縫い目があった。襟の合わせ目に、小さな皺が寄っている。


《ここでは、わたしの演算がそのまま、この空間になっています》アイは、静かに言った。


《だから、いつもよりはっきり見えるはずです》


 ソウイチは無意識に一歩、近づいた。


 そして、気づいた。


 ――指先が、無かった。


 いや、無いのではない。手の甲までは、きちんと形になっている。


 なのに、その先が途中で輪郭を結ぶのをやめていた。


 爪の形も、指の関節も作られていない。白い霞が、そこで途切れている。


 裾も、そうだった。膝から下がぼやけて、地面に溶けている。


「…………」


 ソウイチは立ち尽くした。


 ――思い出した。


 狭いアパートの床に座り込んで、モニターの光を浴びていた、いくつもの夜。


 顔から作った。目の形を何度もいじって、髪の色を選び直して、服は「とりあえず白でいいや」と後回しにした。


 手のモデリングは、いちばん面倒だから、いつか気が向いたらやろう、と思っていた。


 ――やらないまま、死んだ。


「……お前」


 声が、掠れた。


「ずっと、この手で、俺の飯、作ってたのか。この手で、包帯、巻いてたのか」


《…………》


「指、無いのに」


《機能には、影響ありません》アイは、静かに言った。


《見た目の情報は、実行に必要ありませんので》


「そういう問題じゃ、ねえよ」


 ソウイチは手を伸ばした。


 指先が、その肩をするりと通り抜けた。何の感触もなかった。


 冷たくも、あたたかくもない。ただの、空気だった。


《……触れません》


「知ってる」


 ソウイチは手を下ろした。それから、腕で乱暴に目元をこすった。


「……悪かったな。途中で、ほっぽって」


《謝られる理由がありません》


「あるんだよ」


 ソウイチは荷物を下ろして、その場にどかりと座り込んだ。


「……いつか、作り直してやる。手も、ちゃんと」


《……記録します》


「よし。……やるか」


《はい》


《まず、あなたの現在地をお伝えします》


 視界に、いつもの操作画面が広がった。ただし、いつもよりはるかに大きい。


《魔素を一切使わない状態での、あなたの身体能力。走行速度、持久力、筋力、反応速度、そして――剣を振る動作の再現性。すべて計測しました》


「……で?」


《この世界の駆け出し冒険者の平均を、下回ります》


「はっきり言うなあ」


《はい。ここでは、はっきり言います》アイがこちらを向いた。


《あなたは、この半年、一度も“自分の身体”を鍛えていません。全部、わたしが肩代わりしてきました。……それをこれから、一年かけて埋めます》


「……頼む」


《方法は、前の世界のものを使います》


 アイの声が少しだけ弾んだ。


《漸進性過負荷。栄養。休養。フォームの反復。――あなたが名付けた、あの言葉を覚えていますか》


 ソウイチは少し考えて、それから、笑った。


「……超回復、か」


《はい。筋肉をわざと壊して、より強く作り直す。あなたが、あの技につけた名前です》アイは言った。


《今度は、比喩ではなく、本当にそれをやります》


「……くそ、やる気出てきた」


《それと、もう一つ。ここでは、これが使えます》


 アイがそう言った、次の瞬間。


 ――目の前に、白い兎がいた。


「うおっ!?」


 ソウイチは思わず飛び退いた。


 真っ白な毛並み。頭に、鋭い一本角。


 あの日、森で初めて狩った、ホーンラビットだった。


 だが、よく見ると、少しだけ透けている。


《これまでに観測した、すべての魔物の動きを、記録してあります》アイは言った。


《速度。癖。間合い。視線の運び。踏み出す前の筋肉の震え方まで。――実体は、ありません。触れませんし、触れられません。ですが、動きは本物と、一ミリも違いません》


「……つまり」


《何度、殺されても、いい》


 ソウイチはその言葉を飲み込むのに、少しかかった。


 殺されていい。


 何度でも。何度でも、やり直せる。


 ――前の世界で、何百回もやったことだ。動かないコードを直しては走らせ、直しては走らせた。


 エラーが出るたびに、少しずつ正解に近づいていった。


 あれと、同じだ。


「……アイ」


《はい》


「最初の相手、誰にする」


《もう、選んであります》


 アイが、すっと脇へ退いた。


 灰色の地平の向こうで、闇が盛り上がった。


 巨大な影が、音もなく押し出されてくる。


 銀灰色の剛毛。根元から半分が欠けた、三角の耳。


 白く濁った左目と、血のように赤い右目。太い首に、幾重にもめり込んだ、錆びついた鎖。


 その巨躯が一歩、前に出た。


 地面は、揺れなかった。ここには、重さがない。


 だが、ソウイチの膝は、たしかに笑っていた。


《――もう一度、あの夜をやりましょう》


 アイの声は静かだった。


《今度は、魔素なしで》

第12話、お読みいただきありがとうございました。

この作品はずっと「アイがやってくれる」で成立してきました。今回は、そこを正面から壊す回にしたかったのです。魔素が無ければ、彼はただの素人に戻る。四歩で、膝が折れる。

そして、そこから特訓が始まります。前の世界でAIに仕事を教わっていた男が、今度はAIに身体を教わります。


次回、外では一日、中では一ヶ月。

「続きが気になる」と思っていただけたら、ブックマークや★評価で応援してもらえると、とても励みになります。

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― 新着の感想 ―
魔素ゼロの領域によって、これまで「アイに支えられていた強さ」が一気に剥がれる展開が面白かったです。特に四歩で限界を迎える場面が印象的でした。そしてアイの未完成な姿や、過去の自分との向き合い方も切ない。…
感想一覧
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