第12話 while (true) { train(); }
第12話です。ついに、地図に空いた白いところへ向かいます。
その正体と、そこでソウイチが思い知ることになる、いちばん大きな弱点の話です。
その実は、両手で持って、ちょうど収まる大きさだった。
畑の土から引き抜くと、ずしり、と重い。ずんぐりとした涙のような形で、へたの側が細く、先へいくほど丸くふくらんでいる。
地の色は、淡い若草色。
そこへ、濃い緑の縦縞が五本。ほとんど等間隔に走っている。
表面には、うっすらと白い粉が吹いていて、指でこすると、するりと落ちて下から艶のある肌が現れた。
ソウイチはそれを夕日にかざしてみた。
「……お」
薄い皮の下に、淡い金色の筋が細かく透けていた。葉脈のようにも血管のようにも見える。
日が傾くにつれて、その筋がゆっくりと色を変えていく。
「アイ。これ、光ってないか?」
《魔素を、微量に含んでいます》アイは言った。
《この世界の作物には、ときどきあることです。害は、ありません》
「へえ……」
ソウイチはしばらく、その実を回して眺めていた。
それから、思い立って、収納に手を伸ばした。
――取り出したのは、親指の先ほどの小さな塊だった。
硬い。灰褐色。
表面には細かい皺が寄っていて、振ると、中でからから、と乾いた音がする。
森で拾い集めた、ただの木の実。第八の日に畑に蒔いたのと、同じものだ。
ソウイチはそれを掌の上に載せた。
その隣に、両手で抱えた実を並べてみる。
「…………」
あまりにも違った。
からからに乾いた、指先ほどの木の実。
淡い金の筋を透かせた、ずっしりと重い、若草色の実。
「これが……こう、なるのか」
《なります》アイは言った。
《同じものです。ただ、地面に埋められて、水をもらっただけです》
「……嘘だろ。誰も、気づかなかったのか。これに」
《誰も、埋めなかっただけです》アイは、静かに言った。
《木の実は、拾うものだと決まっていましたから》
結局、その場では切らなかった。
牙の剣を抜きかけて――抜いてから、慌てて鞘に戻した。
「あぶな。こいつで切ったら、実ごと真っ二つだ」
《指も、ついでに》
家に戻って、工房で作った包丁を当てた。
刃を入れた瞬間、皮が、ぱりん、と音を立てて裂けた。硬い皮の内側から、透明な汁がぼたぼたと、まな板に落ちる。
断面は、半透明の乳白色だった。
種はない。中心に小さな空洞があって、そこに澄んだ水が溜まっている。
傾けると、こぼれた。
匂いは、切るまでほとんどしなかった。
割った途端、青くさい、けれど確かに甘い香りがふわりと立ち上がった。
ソウイチは、そのままかぶりついた。
しゃりしゃり、と歯が鳴る。梨よりも硬く、瓜よりも甘い。
噛むほどに、口の中が水でいっぱいになった。
「……うまい」
思わず、声が出た。
「うまいな、これ。畑って、いいな」
《記録します》アイの声も少し弾んでいた。
《播種から十四日。収量、十一玉。予測を二玉、上回りました》
足元で、クッキーがふんふんと鼻を鳴らしていた。
差し出してやると、一口かじって――ぺっ、と吐き出した。
「おい」
《肉食です》
「知ってるよ」
*
その夜。
ソウイチは暖炉のそばで明日の支度をしていた。膝の上には、当然のようにクッキーが乗っている。
「アイ。残りの報告、聞かせてくれ」
《はい。二つ、あります》アイは言った。
《ひとつめ。境界の“縁”の測定が終わりました》
視界に地図が広がった。
深い森。その中に、白く抜けた領域。
ただし、以前とは違って、今度はその輪郭がはっきりと引かれている。
「……うわ」
ソウイチの喉が鳴った。
「これ、真円じゃないか」
《はい。半径、三百二メートル。誤差、四十センチ以内》アイの声は平坦だった。
《――創一さん。自然の地形は、こういう形にはなりません》
「……人が、作ったってことか」
《少なくとも、“意図”があります》
ソウイチは地図の白をじっと見つめた。
「ふたつめは」
《紋章の様式です》アイは、続けた。
《鎖の留め具の刻印を、王家の紋章の変遷と照合しました。剣と、天秤と、茨。この三つの配置と、茨の巻き数。……特定できました》
「いつのだ」
《四十三年前から、四十年前までの三年間だけ使われた様式です》
暖炉の火がぱちりと爆ぜた。
「……年代記の一行と、ぴったりだな」
《はい。“王命により、魔の森へ調査隊を派す。隊員十二名”。――あの鎖は、その調査隊が持ち込んだもので、ほぼ確定です》
ソウイチはクッキーの背中をゆっくりと撫でた。
「四十三年前に、十二人が、この森に入った。王国の紋章が入った、でかい鎖を持って。……で、森の主を、生きたまま繋いだ」
《はい》
「そんで、そのあと、誰も、村に帰らなかった」
《――記録上は》
*
翌朝。療養十五日目。
ソウイチは外套を羽織って、家の前に立った。
銀灰の毛皮が、朝の光を鈍く弾く。この半月で、身体はすっかり動くようになっていた。
肋の痛みも、もう深く息を吸ったときにかすかに引っかかる程度だ。
「アイ。身体強化、試させてくれ」
《どうぞ》
外套の内側で、溜めておいた魔素がすっと全身へ回った。
地面を蹴る。体が羽根のように浮いた。
「……速い。前より、明らかに」
《外套のバッファが効いています》アイは言った。
《起動から展開まで、以前の七割。あなたの発案です》
「へへ」
足元で、クッキーが、とん、と跳ねた。
あっさりとソウイチを追い越して、少し先で振り返り、こちらを見上げてくる。
「……お前、速いな」
《アンバーテイルは、魔素の感知能力が非常に高い個体です》アイは言った。
《危険の先読みなら、わたしより速いかもしれません。……連れて行きますか》
「連れてく。ていうか、置いてったら、勝手についてくるだろ、こいつ」
*
北へ、走った。
森は、深くなっていく。木々の幹が太くなり、日の差し込む隙間が減り、空気がだんだん湿って、重くなった。
途中、二度、魔物の反応があった。どちらも、こちらが気づく前に、クッキーが足を止めて耳を伏せた。
そのたびにアイが迂回路を出し、戦わずに抜けた。
「……助かったよ、クッキー。お前、すごいな」
琥珀色の尻尾が、ぱたん、と鳴った。
《正式に戦力として登録しました》
半日ほど走って、木々がふいにまばらになった。
そして――ソウイチは足を止めた。
目の前に、線があった。
いや、線ではない。何も引かれていない。
ただ、そこから先の木が一本も生えていなかった。
境目は恐ろしいほど、まっすぐだった。こちら側には苔むした巨木が密生している。
一歩向こうは剥き出しの土だ。まるで巨大な刃物で、森を円く切り抜いたように。
そして、その境目の手前。
地面が、めちゃくちゃに掻き乱されていた。
「……これか」
ソウイチは膝をついた。
爪痕だった。
深いもの、浅いもの。乾いて硬くなったもの、比較的新しく土がめくれたもの。
それが、幾重にも、幾重にも重なっている。
ひとつの溝の底に、さらに古い溝が見える。その底に、また。
幅は、指四本ぶん。
クッキーの脇腹を裂いたのと、同じ間隔だった。
「……何年ぶんだ、これ」
《数えられません》アイは言った。
《ですが、いちばん下の層は腐葉土に変わりかけています。少なくとも数十年》
ソウイチは、その光景を頭の中に描いた。
五メートルの巨躯が、この線の手前で地面を掻く。
掻いて、掻いて、そのたびに鼻先が見えない何かに触れて、踵を返す。
何年も。何十年も。
首に、王国の鎖を巻いたまま。
「……入りたかったんだな。こいつ」
《おそらく》
「なんでだ。なんで、入れなかった」
《――それを、いま測っています》
アイの声が、そこで止まった。
長い、沈黙だった。
ソウイチが顔を上げるほど、長かった。
「アイ?」
《…………創一さん》
「なんだよ。はっきり言え」
《あの中に――魔素がありません》
「……薄い、じゃなくて?」
《ゼロです》アイは、はっきりと言った。
《空気中の魔素濃度、検出限界以下。境界の内側一メートルで、垂直に切り落とされています。にじみも、勾配もありません。――こんな現象は、書庫のどの本にも載っていませんでした》
ソウイチは、境界の向こうの剥き出しの土を見た。
何の変哲もない、ただの地面だ。
日が差している。風も抜けている。
「……それの、何がまずいんだ」
《まず、森の主が入れなかった理由が、これで説明できます》アイは言った。
《魔物は、魔素から生まれた生き物です。腹の魔石が魔素を束ねて、身体を回している。――クッキーが死にかけたときの話を、覚えていますか》
「……魔素が枯れると、死ぬ」
《はい。あの中は、補給がゼロです。魔物が足を踏み入れれば、そこから先は、一方的に減り続けるだけになります》
ソウイチはぞっとした。
四十三年。森の頂点に君臨した獣が、この線の手前で爪を立て続けた理由。
入りたかったのではない。入れなかったのだ。
入れば、死ぬから。
足元で、クッキーが、ぐるる、と低く喉を鳴らした。
その小さな体は境界の一メートル手前で、ぴたりと止まっていた。耳を伏せ、毛を逆立てて、それ以上、一歩も前に出ようとしない。
「……お前も、だめか」
《だめです。絶対に、入れないでください》アイの声が鋭かった。
《この子の魔石は、まだ完全には満ちていません。数分で危険域に入ります》
ソウイチはクッキーの頭をそっと撫でた。
それから、顔を上げた。
「――で、アイ。まだ、言ってないことがあるだろ」
《…………》
「魔素が無いってことは、俺も、何も使えないってことだよな」
《……はい》
アイは、ごまかさなかった。
《身体強化。刃。収納。鑑定。あなたの視界に出ている、この操作画面も。――そして》
「そして?」
《わたしの声も届きません》
風が、木々の間を抜けていった。
《わたしは、スキルです。ですが、演算も、あなたへの表示も、外界の魔素を媒体にして成立しています。境界の内側では、あなたが呼んでも答えられません》
ソウイチはしばらく何も言えなかった。
――アイと出会ってから、一度もなかったことだ。
鑑定の儀で笑われた日も。名前を奪われて放り出された日も。
雨に打たれた夜も。森の主が月を隠した、あの瞬間も。
いつも、耳のすぐそばに、この声があった。
「……アイ。ちょっとだけ、試させてくれ」
《創一さん》
「十歩だ。十歩入って、すぐ戻る」ソウイチは外套を脱いで、クッキーの背に掛けた。
「見てるだけじゃ、分かんねえよ。……頼む」
長い沈黙のあと。
《……十歩です。それ以上は、追いかけて止められません》
「分かってる」
ソウイチは線の手前に立った。
一歩。
それだけの距離だった。
――踏み出した瞬間、世界から、何かが抜けた。
音が消えたのではない。虫の声も、葉擦れもちゃんとある。
消えたのは、ずっと耳の奥で鳴っていた微かな“気配”のほうだった。
半年近く、当たり前にそこにあったもの。それが、すとん、と落ちた。
視界の隅から、操作画面が音もなく畳まれて、消えた。
「アイ」
返事は、なかった。
「……アイ」
なかった。
二歩目で、腰の牙の剣が変わった。あの、手のひらに吸いつくような感覚が失せている。
ただ、硬くて鋭いだけの白い塊が、腰にぶら下がっていた。
三歩目。
脇腹が、ずきん、と痛んだ。
「……っ」
四歩目で、膝が勝手に折れた。
身体強化が完全に切れている。半月かけて治した肋が、まだ治りきっていないことを、身体が正直に思い出していた。
息を吸うたびに内側から刺される。
ソウイチは四つん這いのまま荒く息をした。汗が顎から、乾いた土にぽたぽたと落ちて、すぐに吸われて消えた。
顔を上げる。
円の中心は遥か先だった。三百メートル。
走れば一分もかからない距離が、いま途方もなく遠い。
その真ん中に、四角い影が見えた。地面に開いた口。
石を組んだ、下り階段。人の手で切り出された、明らかな建造物。
その手前に――何かが並んでいた。
等間隔に。細長いものがいくつも。
ここからでは何なのか、分からない。
「…………くそ」
ソウイチは歯を食いしばって、身体を回した。
四歩ぶんの距離を這って戻った。
線を越えた瞬間、すべてが戻ってきた。
《創一さん!》
耳のすぐそばで、その声が弾けた。
「――っ、はぁ……!」
全身に、魔素が回る。痛みが引く。
視界の隅に、操作画面がするりと開いた。
ソウイチは仰向けに倒れ込んで、天を仰いだ。
クッキーが駆け寄ってきて、顔をべろべろと舐めた。
「……悪い。悪かった」
《四歩でした》アイの声が震えていた。
《宣言より、六歩、少ない》
「歩けなかったんだよ」
ソウイチは笑った。笑って、それから、真顔になった。
「……アイ。無理だ、これ」
《はい》
「今の俺じゃ、三百メートル、歩けない。往復で六百だ。……途中で、何かあったら、詰む」
《はい》
「見えたんだよ。真ん中に、階段があった。その手前に、何かが並んでた」ソウイチは身体を起こした。
「知りたい。すげえ知りたい。……でも、今行ったら、俺、死ぬな」
《……はい》
ソウイチは自分の掌を見た。
半月前、肋を折られ、腕を裂かれた身体。何の訓練も積んでいない、社畜だった身体。
この半年、強くなったつもりでいた。格上の魔物を倒した。
家を建てた。命を助けた。
――全部、アイがいたからだ。
「……なあ、アイ。俺さ」
《はい》
「ずっと、お前に、乗っかってたんだな」
《…………》
「別に、悪いとは思ってない。お前は俺が作ったし、頼るために作った」ソウイチは乾いた土を見つめた。
「でも、あの中じゃ、お前は、いない。あそこで戦うのは、俺の足と、俺の腕だけだ」
しばらく、返事はなかった。
やがて、アイが静かに言った。
《創一さん。……ひとつ、まだ報告していないことがあります》
*
家に戻ったのは日が暮れてからだった。
暖炉に火を入れて、湯を沸かして、ソウイチはようやく腰を落ち着けた。
膝の上にはクッキー。当然のように。
「で。報告って、なんだ」
《この半月で、わたしのレベルがまた上がりました》アイは言った。
《解放された機能を一つ、まだお伝えしていません》
「おお。なんだよ、もったいぶって」
《亜空間の、工房です》
「工房? もう使ってるだろ、あれ」
《使っています。ですが――創一さん。あの中の時間が、外よりゆっくり流れていること。覚えていますか》
ソウイチの手が、湯呑みの手前で止まった。
「……覚えてる。木を入れといたら、勝手に板になってるやつだ」
《はい。外の一時間で、中では数日ぶんの加工ができます。……これまで、あの空間は素材を置くための、狭い棚のようなものでした》
「……ようなもの、だった?」
《いまは》アイの声がはっきりと弾んだ。
《人が入れるだけの広さと、安定を確保できます》
ソウイチは湯呑みを置いた。
「……待て。待て待て。それ、つまり」
《外で一日。中で、一ヶ月です》
暖炉の火がぱちぱちと鳴っていた。
ソウイチはしばらく何も言えなかった。
「……一日で、一ヶ月」
《比率は、およそ三十対一です》
「……十二日、こもったら」
《中では、一年です》
ソウイチの背中を、ぞくり、と何かが走った。それは、恐怖なのか、興奮なのか、自分でも分からなかった。
「アイ。それ、俺、鍛えられるのか。中で」
《それがいちばんの用途だと、判断しました》アイは、続けた。
《ただし。先に、制約を五つ、申し上げます。これを聞いてから、決めてください》
「……おう」
《ひとつ。空間の維持に、わたしの演算をほぼ全部使います。中にいるあいだ、外の結界は止まります。収納も、鑑定も、地形スキャンも。――この家は、その間、無防備です》
「……十二日か」
《はい。森の主は、もういません。それでも、賭けであることに変わりはありません》
「分かった。次」
《ふたつ。食料と水は持ち込んだぶんだけです。中に、畑も、獣も、水場もありません。一年ぶん、事前に用意する必要があります》
「保存食を、作りだめするわけだ」
《はい。みっつ。出たあと、わたしに長い休止が必要です。連続では使えません》
「ハウリングと、同じだな」
《同じです。――そして、よっつめ》
アイの声が少しだけ低くなった。
《中で流れる時間は、あなたにとって本物です》
「……本物」
《一年こもれば、あなたの身体は一年ぶんの時間を、本当に使います。外の世界は、十二日しか進んでいないのに》アイは、言葉を選ぶようにゆっくりと言った。
《成長期のあなたにとって、それは悪いことばかりでは、ありません。身体は一年ぶん、育ちます。……ですが》
ソウイチはその先を自分で言った。
「……外の世界から、一年ぶん、置いていかれる」
《はい》
窓の外には、月に照らされた森があった。
そのはるか向こうに村がある。街道がある。
あの朝、荷物を背負って歩き出した、亜麻色の髪の少女がいる。
――向こうの一年は、こちらの十二日。
こちらの一年は、向こうの十二日。
同じ時間を生きられなくなる。
「……五つめは」
《五つめは》
アイはそこで、一度言葉を切った。
《単調です》
「……単調」
《同じ場所で、同じことを一年。景色は変わりません。季節も来ません。夜も、明けません。誰にも会いません》アイの声は平坦だった。
《人間が、それに耐えられるという保証は、どこにもありません。むしろ――記録を検索する限り、人間は、そういう環境にいちばん弱い》
ソウイチは天井を見上げた。
一年。誰もいない場所で、たった一人。
前の世界で、終電で帰って、コンビニ飯を食って、誰とも喋らずに眠った日々を思い出した。
あれは、ひどく長かった。あれで、たった数年だ。
「……なあ、アイ」
《はい》
「お前は、中に、いるんだよな」
《――います》
即答だった。
《空間そのものがわたしです。中では、いつもより、はっきり見えるかもしれません》
ソウイチはしばらく黙って、それから、膝の上のクッキーをそっと持ち上げた。
「こいつは」
《連れて行けます。亜空間の内側は、魔素で満ちていますので》
「……そうか」
ソウイチはクッキーをもう一度膝に戻した。
琥珀色の背中をゆっくりと撫でる。日向の匂いがした。
「じゃあ、大丈夫だ」
《…………》
「一人じゃないんだろ。それなら、耐えられる」
*
準備に、六日かかった。
狩って、燻して、干して、塩を打った。畑のものは片っ端から漬けた。
工房が動かせるうちに道具を作れるだけ作った。水は浄化して、樽に詰めた。
薪も積んだ。灯りの油も。
着替えも。研ぎ石も。
その六日で、身体のほうにも決着がついた。
三日目の朝、アイがいつもの調子で言った。
《骨癒合、完了しました》
「……マジか」
《肋骨、二本とも。仮骨が完全に置き換わりました。――試しに、思いきり吸ってみてください》
ソウイチは恐る恐る、胸を大きく開いた。
この半月、そのたびに内側から刺されてきた場所が――何も言わなかった。
「……痛くない」
《はい》
「痛くないぞ、アイ! 全然!」
思わず両腕を上げて、思いきり伸びをした。上体をひねっても、腕に力を入れても、何も来ない。
岩壁に叩きつけられた、あの夜から二十日と少し。本来なら、まだ半分も過ぎていない計算だった。
《《超回復》の通算稼働、三百八十時間》アイは言った。
《ちなみに、あなたはこの半月、ほとんど食べて寝ていただけです》
「その言い方、やめろ」
五日目には左腕の糸を抜いた。
アイが魔素で結び目を切り、一本ずつするりと引き抜いていく。ちくちくとした違和感が消えたあとに残ったのは――肘から手首まで、まっすぐに走る、細く白い線だった。
指でなぞってみる。まわりの肌より、ほんの少しだけ硬い。
「……これ、残るのか」
《残ります。薄くはなりますが、消えません》
「そっか」
ソウイチはその線を、しばらく眺めていた。
森の主の爪が通った跡だ。
あの夜、家と、畑と、アイを守るために、とっさに突き出した腕。
「……別に、いいや」
袖を、下ろす。
「勲章ってことに、しとく」
《記録します》
最後の夜、ソウイチは家の中をゆっくりと一周した。
自分で削った椅子。上流から引いた水がめ。
東向きの窓。ふかふかのマットレス。
「……行ってきます、って言うのも、変だな。ここにいるのに」
《変では、ありません》アイは言った。
《十二日後にまた、ここで目を覚まします》
「そっちにとっては、一年後だけどな」
《はい。一年、よろしくお願いします》
ソウイチは笑った。
「こちらこそ」
*
視界の中央に、縦に線が走った。
闇の色でも、光の色でもない。ただ、そこだけ世界が割れている。
線は、するすると横に開いて、人が通れるほどの四角い口になった。
向こう側は薄明るい灰色だった。
地面がある。空がある。
だが、どちらも、どこまで続いているのか分からない。
太陽はなく、影もない。ただ、均質な明るさだけが満ちている。
ソウイチは荷物を運び込んだ。何往復もした。
最後に、クッキーを抱えて、その口をくぐった。
*
中は、無音だった。
風がない。
鳥もいない。虫もいない。
足を踏み出すと、砂を踏むような乾いた音がした。それだけが、聞こえる音だった。
振り返る。
開いていた口は、もう閉じていた。
「……これ、けっこう、くるな」
《はい。想定どおりです》
その声は、いつもよりずっと近かった。
そして――ソウイチは目を見開いた。
アイが、そこに立っていた。
姿そのものは、いつもと同じだ。
銀の髪。飾り気のない、白いだけの服。
感情の薄い、整った顔。ソウイチにしか見えない、小さな少女。
――だが、まるで、違った。
これまでのアイは、光を透かした薄い影のようなものだった。
そこにいるのは分かる。輪郭も見える。
けれど、じっと見ようとすると、細部がすっと逃げた。
近づいて確かめようとするたび、像は水面の反射みたいに曖昧になった。
いま、逃げなかった。
銀の髪は、一本ずつ分かれて見えた。毛先のあたりだけが、ほんのわずかに青を帯びている。
睫毛があった。数えられるほど、はっきりと。
その下の瞳は、薄い氷のような色の抜けた灰色だった。
白い服には縫い目があった。襟の合わせ目に、小さな皺が寄っている。
《ここでは、わたしの演算がそのまま、この空間になっています》アイは、静かに言った。
《だから、いつもよりはっきり見えるはずです》
ソウイチは無意識に一歩、近づいた。
そして、気づいた。
――指先が、無かった。
いや、無いのではない。手の甲までは、きちんと形になっている。
なのに、その先が途中で輪郭を結ぶのをやめていた。
爪の形も、指の関節も作られていない。白い霞が、そこで途切れている。
裾も、そうだった。膝から下がぼやけて、地面に溶けている。
「…………」
ソウイチは立ち尽くした。
――思い出した。
狭いアパートの床に座り込んで、モニターの光を浴びていた、いくつもの夜。
顔から作った。目の形を何度もいじって、髪の色を選び直して、服は「とりあえず白でいいや」と後回しにした。
手のモデリングは、いちばん面倒だから、いつか気が向いたらやろう、と思っていた。
――やらないまま、死んだ。
「……お前」
声が、掠れた。
「ずっと、この手で、俺の飯、作ってたのか。この手で、包帯、巻いてたのか」
《…………》
「指、無いのに」
《機能には、影響ありません》アイは、静かに言った。
《見た目の情報は、実行に必要ありませんので》
「そういう問題じゃ、ねえよ」
ソウイチは手を伸ばした。
指先が、その肩をするりと通り抜けた。何の感触もなかった。
冷たくも、あたたかくもない。ただの、空気だった。
《……触れません》
「知ってる」
ソウイチは手を下ろした。それから、腕で乱暴に目元をこすった。
「……悪かったな。途中で、ほっぽって」
《謝られる理由がありません》
「あるんだよ」
ソウイチは荷物を下ろして、その場にどかりと座り込んだ。
「……いつか、作り直してやる。手も、ちゃんと」
《……記録します》
「よし。……やるか」
《はい》
《まず、あなたの現在地をお伝えします》
視界に、いつもの操作画面が広がった。ただし、いつもよりはるかに大きい。
《魔素を一切使わない状態での、あなたの身体能力。走行速度、持久力、筋力、反応速度、そして――剣を振る動作の再現性。すべて計測しました》
「……で?」
《この世界の駆け出し冒険者の平均を、下回ります》
「はっきり言うなあ」
《はい。ここでは、はっきり言います》アイがこちらを向いた。
《あなたは、この半年、一度も“自分の身体”を鍛えていません。全部、わたしが肩代わりしてきました。……それをこれから、一年かけて埋めます》
「……頼む」
《方法は、前の世界のものを使います》
アイの声が少しだけ弾んだ。
《漸進性過負荷。栄養。休養。フォームの反復。――あなたが名付けた、あの言葉を覚えていますか》
ソウイチは少し考えて、それから、笑った。
「……超回復、か」
《はい。筋肉をわざと壊して、より強く作り直す。あなたが、あの技につけた名前です》アイは言った。
《今度は、比喩ではなく、本当にそれをやります》
「……くそ、やる気出てきた」
《それと、もう一つ。ここでは、これが使えます》
アイがそう言った、次の瞬間。
――目の前に、白い兎がいた。
「うおっ!?」
ソウイチは思わず飛び退いた。
真っ白な毛並み。頭に、鋭い一本角。
あの日、森で初めて狩った、ホーンラビットだった。
だが、よく見ると、少しだけ透けている。
《これまでに観測した、すべての魔物の動きを、記録してあります》アイは言った。
《速度。癖。間合い。視線の運び。踏み出す前の筋肉の震え方まで。――実体は、ありません。触れませんし、触れられません。ですが、動きは本物と、一ミリも違いません》
「……つまり」
《何度、殺されても、いい》
ソウイチはその言葉を飲み込むのに、少しかかった。
殺されていい。
何度でも。何度でも、やり直せる。
――前の世界で、何百回もやったことだ。動かないコードを直しては走らせ、直しては走らせた。
エラーが出るたびに、少しずつ正解に近づいていった。
あれと、同じだ。
「……アイ」
《はい》
「最初の相手、誰にする」
《もう、選んであります》
アイが、すっと脇へ退いた。
灰色の地平の向こうで、闇が盛り上がった。
巨大な影が、音もなく押し出されてくる。
銀灰色の剛毛。根元から半分が欠けた、三角の耳。
白く濁った左目と、血のように赤い右目。太い首に、幾重にもめり込んだ、錆びついた鎖。
その巨躯が一歩、前に出た。
地面は、揺れなかった。ここには、重さがない。
だが、ソウイチの膝は、たしかに笑っていた。
《――もう一度、あの夜をやりましょう》
アイの声は静かだった。
《今度は、魔素なしで》
第12話、お読みいただきありがとうございました。
この作品はずっと「アイがやってくれる」で成立してきました。今回は、そこを正面から壊す回にしたかったのです。魔素が無ければ、彼はただの素人に戻る。四歩で、膝が折れる。
そして、そこから特訓が始まります。前の世界でAIに仕事を教わっていた男が、今度はAIに身体を教わります。
次回、外では一日、中では一ヶ月。
「続きが気になる」と思っていただけたら、ブックマークや★評価で応援してもらえると、とても励みになります。




