第11話 party.push(クッキー)
第11話です。今回も戦闘はありません。療養七日目、少し歩けるようになったソウイチが、結界の端で見つけたものの話です。
新しい家族が、一匹増えます。
七日目の朝、ソウイチは自分の腹の音で目を覚ました。
それは、もう空腹という言葉では足りなかった。胃が、内側から背骨を掴んで引っ張っているような感覚だ。
「……アイ。飯。飯をくれ」
《おはようございます。予測どおりです》アイは言った。
《昨夜の《超回復》の稼働時間は六時間十二分。消費された熱量は、あなたが森で丸一日走り回ったときの、およそ倍です》
「倍!? 寝てただけだぞ、俺!」
《寝ながら、骨を作っていましたので》
その日の朝食には、初めて畑のものが並んだ。
といっても、採れたのは青香草だけだ。蒔いてから、まだ七日。
それなのに、もう手のひらほどに茂っている。生育が早い、とアイが言っていたとおりだった。
ソウイチはそれを片っ端から刻んで、燻製肉と一緒に鍋へ放り込んだ。
「サナのほうは、まだか」
《あれは、二週間かかります》アイは言った。
《あと七日ほど。……ちょうど、あなたが動けるようになる、その前日です》
「へえ。じゃあ、初めての実を食ってから、出発だな」
ソウイチは鍋をかき回しながら、笑った。
三杯食べた。まだ足りなかった。
四杯目で、ようやく手が止まった。
「……なんか、罪悪感がすごいな。寝て食ってるだけで治ってく」
《それが仕事です》アイは言った。
《ちなみに、肋骨の亀裂は七日目にして、通常の三週間ぶんに相当する状態です。――今日から、歩行を解禁します》
「お、まじか」
《ただし、歩行だけ。走る、跳ぶ、腕に力を入れる、上体をひねる。ぜんぶ、まだ禁止です》
「はいはい。分かってますよ」
久しぶりに自分の足で外に出た。
朝の光。泉の匂い。
えぐれた地面には、もう新しい草が芽を出しかけている。
銀灰の外套を羽織って、ゆっくりと庭を一周した。それだけで少し息が切れた。
――生きてるな、と思った。
*
異変に気づいたのは、その日の昼過ぎだった。
ぽーん、と。
視界の隅に光が灯った。結界の反応だ。
だが、色がおかしい。
あの夜の、暗い深紅でもない。ホーンリストのときの明るい赤でもない。
――ひどく、薄い。にじんだ、消えかけの淡い赤。
しかも、点いたと思うと、すっと消え、またぼんやりと灯る。
「……アイ。これ、なんだ。ちらついてるぞ」
《報告が遅れました。申し訳ありません》アイの声はいつになく硬かった。
《この反応、十二分前から拾えてはいました。ですが――“生き物”だと、確定できませんでした》
「確定できない?」
《結界は魔素の網です。何かが横切れば、魔素が揺れて波紋になる。わたしは、その波紋を読んでいます》アイは言った。
《ですが、この反応は揺らぎが小さすぎました。木の葉が落ちたのか。風が抜けたのか。それとも、生き物なのか。……十二分かけて、ようやく判定しました》
「……それって、つまり」
《はい》アイは、はっきりと言った。
《結界が、生き物として数えられないほど――魔素が残っていません》
ソウイチは立ち上がった。肋が、ずきりと抗議する。
「位置は」
《南西。結界のほぼ最外縁。距離、百九十メートル。……そして、その十二分のあいだ、一ミリも動いていません》
「見に行く」
《歩行のみ、です》アイは言った。
《それと――念のため申し上げます。罠の可能性もゼロではありません》
「分かってる。……でも、行く」
*
二百メートル近い距離を歩いた。
いつもなら一分もかからない道が、ひどく長かった。
息を吸うたびに脇腹が刺す。それでも、足は止まらなかった。
茂みをかき分けた、その先に。
――それは、倒れていた。
最初、ソウイチは犬だと思った。
ずんぐりとした、たくましい体つき。ぴんと立った、厚みのある三角の耳。
太く、くるりと背中に巻いた尻尾。毛並みは、よく焼けた栗の皮のような深い琥珀色。
目の上には白い小さな斑がふたつ、ちょこんと並んでいる。
だが、よく見れば、違った。
その顔つきは、鼻先が短く丸い。前脚には、鞘に収まった鋭い鉤爪がある。
地面についた肉球は犬のそれではない。何より――閉じかけたまぶたの奥で、細く縦に裂けた瞳孔がこちらを見ていた。
「……猫だ」
ソウイチは思わず声に出していた。
「顔は犬みたいだけど、こいつ、猫だ。……前の世界にいた、柴犬ってやつに、そっくりだな」
【鑑定:アンバーテイル】
・脅威度:雑魚級〜一般級(個体差あり)
・特徴:森の中層に単独または番いで棲む、猫型の小型魔物。犬に似た体躯と巻き尾を持つ。極めて用心深く、人の前に姿を現すことは稀。魔石は小さいが質が良く、体内の魔素の巡りが早い。魔素の感知能力が高く、危険を先読みして避けることで生き延びる。気に入った相手には生涯ついていく習性がある。
・警告:現在、危険な状態です。
その脇腹に深い傷があった。
毛が、べったりと赤黒く固まっている。すでに乾きかけた血が、そこから地面まで点々と続いていた。
相当な距離を引きずるように歩いてきたのだ。
小さな胸が、ひくり、ひくりと浅く上下している。
ソウイチが近づいても、逃げなかった。逃げる力が、もう残っていなかった。
「……アイ」
《…………》
「アイ」
《――助けましょう》
ソウイチははっと顔を上げた。
アイが、こんなふうに言うのは初めてだった。
いつもなら、選択肢を並べる。確率を出す。
そのうえで「決めてください」と言う。それが、この相棒のやり方だった。
「……お前が、先に言うのか」
《はい》アイの声は静かだった。
《……創一さん。いま、わたしは合理性ではない理由で、あなたに提案をしました。この個体を助けても、わたしたちの生存率は上がりません。むしろ、食料とあなたの体力を消費します。データ上は見送るべきです》
「でも、言ったんだな」
《言いました。――理由はうまく説明できません》
ソウイチは笑った。それから、そっと獣のそばに膝をついた。
「それはな、アイ。“やさしさ”って言うんだよ」
《……やさしさ》
「そう。……よし、決まりだ。運ぶぞ」
*
家に運び込んで、まずやったのは止血だった。
傷は、脇腹を斜めに走っていた。長さは、指四本ぶん。
浄化した水で周りの血を洗い流す。清潔な布を工房で切り出して、両手でしっかりと押さえた。
「アイ。骨は」
《肋骨に、ひび。一本》アイが即座に答える。
《内臓への到達はありません。……ですが、創一さん。この子を殺しかけているのは、傷ではありません》
「じゃあ、何だ」
《三つ、あります》アイは言った。
《ひとつ、失血。ふたつ、脱水。歩いてきた距離が長すぎた。――そして、みっつめ》
アイはそこで、一度言葉を切った。
《魔素が、枯れています》
「……魔素?」
《魔物は、魔素から生まれた生き物です。腹の奥の魔石がそれを束ねて、身体を回している》アイは言った。
《人でいえば、血のようなものだと思ってください。この子はその傷から、何日も魔素を漏らし続けました。――いま、魔石がほとんど空です》
「……どうすれば、戻る」
《外から入れるしか、ありません》
「じゃあ、お前が――」
《できません》
アイの声が鋭く遮った。
《いまは、絶対にやってはいけません。理由は、あとで必ず説明します。……先に、あなたにできることをやってください。ひとつめとふたつめは、魔法がなくても止められます》
ソウイチの頭が猛烈に回り出した。
「――塩と、蜂蜜。あるよな」
《どちらも、収納にあります。ですが》
「経口補水液だ」ソウイチは押さえた手を離さずに言った。
「前の世界の常識だよ。脱水のときは、ただの水を飲ませちゃだめなんだ。血が薄まって、余計に危ない。水に、塩をほんの少しと、糖分を混ぜる。そうすると、腸から一気に吸われる。……比率、覚えてないけど、だいたい水一リットルに塩三グラム、砂糖四十グラムくらいだ」
《…………》
アイの沈黙が一拍。
《――即座に調製します》アイの声が跳ねた。
《この世界の医術書に、その記述はありません。薬草を煎じるか、水を飲ませるか、そのどちらかしか書かれていませんでした》
「だろうな。まあ、こっちの世界じゃ、そりゃそうだ」
工房で、ぬるま湯が調えられた。塩をひとつまみ、蜂蜜をひと匙。
ソウイチはそれを浅い器に入れ、指先を浸して、獣の口元にそっと当てた。
しばらく、反応はなかった。
やがて――ざらり、と。乾ききった小さな舌が、ソウイチの指を一度だけ舐めた。
「……飲んだ」
《飲みました》
二度目。三度目。
指を浸しては口元へ運ぶ。少しずつ、舌の動きが確かになっていく。
「それから、保温だ。血が足りないと、体温が落ちる。落ちると、そのまま死ぬ」
ソウイチは自分の毛布を引っ張り出し、湯を入れた革袋を包んで、獣の腹側に当てた。上から、そっと毛布をかける。
《……創一さん》
「ん?」
《いま、あなたがやっていることに、魔法は一つも使われていません》
ソウイチは手を止めて、少し考えた。
「そうだな。……全部、前の世界の、当たり前だ」
*
夜。
暖炉のそばに寝床を作って、獣を寝かせた。
ソウイチはその隣に座り込んだまま、ずっと呼吸を見ていた。
「……なあ、アイ。昼間の話の、続きだ」
《はい》
「魔素が枯れてるんだろ。外から入れるしかない、って言ったよな。……超回復、使えないのか。あれ、外から魔素を入れるやつだろ」
《…………》
「なんだよ、その間」
《いま、三十七通りの説明を検討して、全部、捨てました》アイは言った。
《いちばん短い言い方をします。――使えば、たぶん、死にます》
「……は?」
《創一さん。なぜ、あの技があなたに効くのか。考えたことはありますか》
「そりゃ……お前が、外から魔素を入れてくれるからだろ」
《その通りです。そして、あなたの身体には、それを邪魔するものが、何ひとつありません》アイの声は静かだった。
《あなたは、体内魔力がゼロです。だから、わたしが流し込んだ魔素は、誰ともぶつからない。まっさらな器にそのまま注げる。――あの技があなたに効くのは、あなたが“魔力ゼロ”だから、です》
ソウイチははっとした。
「……待て。こいつは、魔物だぞ」
《はい。魔物は、魔素から生まれた生き物です。体内に魔素を持ち、腹の奥にそれを束ねる魔石がある》アイは、続けた。
《そこへ外から、別の魔素を流し込めば――どうなると思いますか》
ソウイチの背筋がすっと冷たくなった。
――七日前の、夜。
自分は、まさにそれをやった。
「……ハウリング、か」
《はい》
アイの声がはっきりと重くなった。
《位相がわずかでも合ってしまえば、この子自身の魔素と共振して、増幅します。あの夜、あなたが森の主にやったことと、原理はまったく同じです。――内側から、爆ぜます》
「……逆に、ずれたら」
《打ち消します。この子が生きるために使っている魔素が、消える》アイは言った。
《どちらに転んでも、死にます。……創一さん。わたしは七日前、あなたにまったく同じ技術を使いました。ただし、殺すために》
ソウイチは毛布の下の小さな体を見た。
浅い呼吸。かすかに震える耳。
「……じゃあ、無理なのか」
《いいえ》
アイは、迷わなかった。
《完全に、同調させれば、いい》
「同調」
《周期。振幅。位相。この子の魔素の波形を、誤差なく読み切って、まったく同じ形で寄り添わせる。ぶつからないなら、増幅も、打ち消しも起きません》
「……できるのか、それ」
《いまは、できません》アイは言った。
《あの夜わたしが読めたのは、森の主が“外に展開していた”鎧の波形です。剥き出しでしたから。ですが、この子の魔素は身体の内側にある。しかも、弱っていて、揺らいでいる。――一度の観測では絶対に足りません》
「……時間をくれ、ってことだな」
《三日》アイは、はっきりと言った。
《眠っているときの波形。目を覚ましたときの波形。水を飲んだあと。痛がっているとき。――全部、記録します。三日ぶんの“この子の普通”が集まれば、同調の基準線が引けます》
「……三日、保つのか。こいつ」
《保たせてください》アイは、静かに言った。
《血と、水と、体温。その三つは魔法がなくても、あなたが押さえられます。――魔素が尽きるまでの三日を、あなたが稼いでください。わたしは、そのあいだに波形を読み切ります》
ソウイチは思わず笑ってしまった。
「……お前、それ、俺にやったことと、同じだな」
《同じです》アイの声が少しだけやわらかくなった。
《わたしは、そうやって、あなたを知りました》
「……よし。じゃあ、三日、守るぞ」
*
三日間、ソウイチはほとんどその場を動かなかった。
二時間おきに指で水をやった。傷の布を替えた。
薬草の湿布を貼り替えた。体温が落ちれば湯袋を入れ替え、上がりすぎれば毛布を薄くした。
自分だって、肋骨にひびが入った身だ。そのたびに脇腹が刺したが、不思議と苦にならなかった。
二日目の昼、獣が初めて自分から水を舐めた。
二日目の夜、耳が音のほうへぴくりと動いた。
三日目の朝。
ソウイチが目を覚ますと、琥珀色の瞳がこちらをじっと見ていた。
「……お」
獣は、逃げなかった。
ただ、そのままソウイチを見ていた。それから――くるりと巻いた尻尾の先を、毛布の上でぱたん、と一度だけ動かした。
《……創一さん》アイの声が震えていた。
《波形、読み切りました》
ソウイチはゆっくりと身を起こした。
「――やれるか」
《やれます》
「よし。……頼む、アイ」
《《超回復》、対象を外部に指定。位相、追尾――》
一拍。
《――合いました》
同じ言葉だった。
あの夜、月を隠した牙の下でアイが言ったのと、まったく同じ。あのときは、それが殺すための合図だった。
《出力、最小から。ゆっくり、乗せます》
琥珀色の毛並みが、ふわりと光をまとった。
目に見える変化はそれだけだった。獣は、驚いたように耳を立て、それから、警戒するようにソウイチを見上げ――やがて、その光が痛みではなく、あたたかいものだと理解したらしい。
ふう、と。
小さく息を吐いて、体の力を抜いた。
《受け入れました》アイの声がはっきりと弾んだ。
《干渉、なし。共振も、打ち消しも起きていません。……魔石、充填を開始します》
ソウイチは息を詰めて、見ていた。
《空だったものが満ちていきます。……いけます、創一さん。この子、いけます》
「……よし。よし!」
ソウイチは拳を握った。握った拍子に肋が痛んで、うめいた。
《無理を、しないでください》
「うるさい。嬉しいんだよ」
*
その日の夕方には、獣は自分の足で立った。
まだ、よろけていた。それでも、四本の足で確かに立って、ゆっくりと家の中を一周し――最後にソウイチの膝の前でぺたんと座った。
そして、じっと見上げてきた。
「……なんだよ」
尻尾が、ぱたん、ぱたんと床を叩いた。
《この個体の習性を覚えていますか》アイは言った。
《――“気に入った相手には、生涯ついていく”》
「……いや、待て。俺、そんな、飼うとか、考えてなかったぞ」
ソウイチがそう言った瞬間、獣は、ひょい、と膝の上に乗ってきた。
ずしり、と重い。犬のような見た目のわりに猫らしく、体をぐにゃりと丸めて、そのまま丸くなった。
喉からごろごろと、低い音が鳴り始めた。
「…………」
《どうしますか》
「……いや、これ、もう、決まりだろ」
ソウイチは観念して、その背中にそっと手を置いた。栗色の毛は思っていたよりずっと硬くて、日向の匂いがした。
「名前、要るよな。……アイ、なんかいいのないか」
《命名は、あなたの仕事です》
「そうかよ。……うーん」
ソウイチはしばらく、指で琥珀色の背中を撫でていた。それから、ふと思いついたように言った。
「……“クッキー”は、どうだ」
《食べ物ですか?》
「いや、違う」ソウイチは少し笑った。
「前の世界にな、“クッキー”って仕組みがあったんだよ。……一度来たやつのことを、覚えておくためのもんだ。次に来たときに、“ああ、あんたか”って、分かるように」
膝の上の獣が耳をぴくりと動かした。
「こいつ、たぶん、覚えてるんだよ。俺たちが、何をしたか。……だから、逃げないんだと思う」
《…………》
アイは、しばらく何も言わなかった。
《――《クッキー》。登録します》やがて、静かに言った。
《拠点の構成員が一名、増えました。……創一さん。これで、守るものがまた増えましたね》
「そうだな」
ソウイチは笑った。
「心配も、増えるぞ」
《はい。承知の上です》
*
その夜。
《創一さん。傷の分析結果が出ました》
「なんだ、改まって」
《クッキーの脇腹の傷ですが――あれをつけた相手が分かりました》
ソウイチの手が止まった。
「……分かるのか、そんなこと」
《傷は三本、並んでいます》アイは言った。
《ほとんど重なっていて、ぱっと見では一本に見えますが、皮膚のほつれ方が三筋に分かれている。爪です。それも、間隔が指四本ぶん》
「……指四本」
《この森で、その幅の爪を持つ個体は、一頭しか記録がありません》
暖炉の火がぱちりと爆ぜた。
ソウイチは思わず膝の上を見下ろした。琥珀色の背中がゆっくりと上下している。
「……エルダー・ファングか」
《はい》
「じゃあ、こいつ――」
《おそらく、縄張りに入り込んだところを排除されました》アイは、静かに言った。
《あの個体は、領域内の“異物”を追い出すまでやめません。逃げ切ったのは、むしろ幸運です。……ですが、傷を負ったまま行き場を失った》
ソウイチはしばらく黙っていた。
五メートルの巨躯。丸太のような前脚。
あの夜、自分の左腕を肘から手首まで裂いたのと、同じ爪。
「……なあ、アイ。この子、なんで、いま来たんだと思う」
《答えは、単純です》
アイの声には迷いがなかった。
《七日前まで、この一帯はあの個体の縄張りでした。近づけば、殺される。――七日前に、それがいなくなった》
ソウイチは目を見開いた。
「……俺たちが、倒したから」
《はい。この子がここまで来られたのは、あなたがあの夜、逃げなかったからです》アイは、続けた。
《もし、あなたが撤退を選んでいたら――この家は踏み荒らされ、あの個体は森に残り、この子はたどり着く前に、どこかで死んでいました》
膝の上で、クッキーが寝返りを打った。
ぐい、と頭をソウイチの腹に押しつけてくる。
「……そっか」
ソウイチはその背中をそっと撫でた。
「守ったつもりだったんだけどな。家と、畑と、お前と。……こんなとこまで、繋がってるのか」
《そういうものだと、思います》アイは言った。
《わたしは、あの夜、勝率二割だと言いました。撤退を、推奨しました。――いまは、少しだけ違う計算ができます》
「どんな」
《あの夜のあなたの選択は、二割の勝率と引き換えに、家と、畑と、わたしと。そして――この場にいなかった一匹の命まで、拾いました》
ソウイチは笑った。
「……計算に、入れてくれるのか。それ」
《入れます》アイは、はっきりと言った。
《これからは》
*
その夜、寝る前に。
アイが、もう一つだけ報告をした。
《半月かけて調べる、と言った件です。ひとつ、先に出ました》
「おう」
《エルダー・ファングの移動痕跡を追い直しました。……先に、正直に言います。読み切れたのは、直近の数年ぶんだけです。それより古いものは、もう魔素が薄れて、残っていません》
「まあ、四十三年だもんな」
《はい。ですが――その数年で、あの個体が、あの空白の内側へ入った記録は、一度もありません》
「……近づかなかったのか」
《いいえ。逆です》
アイの声が少しだけ低くなった。
《境界の外周一メートルの地面に、爪痕が層になって残っていました。古いものの上に、新しいものが何十層も。――何度も、何度も掻いては引き返しています》
ソウイチはその光景を思い浮かべた。
五メートルの巨躯が、目に見えない線の手前で地面を掻く。掻いて、掻いて、そのたびに踵を返す。
何年も。何十年も。
「……入りたかったのに、入れなかった、ってことか」
《そう読みます》
「……なあ、アイ」
《はい》
「怖いか」
《はい》アイは、迷わずに答えた。
《でも、行くんですよね》
「行く」
ソウイチは膝の上のあたたかい重みに、そっと手を置いた。
「……今度は、十七分どころじゃないぞ。残りの六日、まるごと、お前のものだ」
《……ありがとうございます》
クッキーが、ごろごろと喉を鳴らした。
窓の外では、月に照らされた森が、静かにこちらを見ていた。
第11話、お読みいただきありがとうございました。
「助ける方法と、殺す方法が、まったく同じ」という状況を一度書いてみたくて、今回はそこを軸にしました。魔素を入れれば助かる。でも入れれば死ぬ。だから三日かけて、血と水と体温だけで命を繋ぎます。
アイが初めて、合理的でない理由で、自分から何かを提案する回でもあります。
次回はいよいよ、地図に空いた、あの白いところへ。
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