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転生したのに魔力ゼロの落ちこぼれ〜自作AIと始める異世界無双〜  作者: NT


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11/21

第11話 party.push(クッキー)

第11話です。今回も戦闘はありません。療養七日目、少し歩けるようになったソウイチが、結界の端で見つけたものの話です。

新しい家族が、一匹増えます。

 七日目の朝、ソウイチは自分の腹の音で目を覚ました。


 それは、もう空腹という言葉では足りなかった。胃が、内側から背骨を掴んで引っ張っているような感覚だ。


「……アイ。飯。飯をくれ」


《おはようございます。予測どおりです》アイは言った。


《昨夜の《超回復》の稼働時間は六時間十二分。消費された熱量は、あなたが森で丸一日走り回ったときの、およそ倍です》


「倍!? 寝てただけだぞ、俺!」


《寝ながら、骨を作っていましたので》


 その日の朝食には、初めて畑のものが並んだ。


 といっても、採れたのは青香草だけだ。蒔いてから、まだ七日。


 それなのに、もう手のひらほどに茂っている。生育が早い、とアイが言っていたとおりだった。


 ソウイチはそれを片っ端から刻んで、燻製肉と一緒に鍋へ放り込んだ。


「サナのほうは、まだか」


《あれは、二週間かかります》アイは言った。


《あと七日ほど。……ちょうど、あなたが動けるようになる、その前日です》


「へえ。じゃあ、初めての実を食ってから、出発だな」


 ソウイチは鍋をかき回しながら、笑った。


 三杯食べた。まだ足りなかった。


 四杯目で、ようやく手が止まった。


「……なんか、罪悪感がすごいな。寝て食ってるだけで治ってく」


《それが仕事です》アイは言った。


《ちなみに、肋骨の亀裂は七日目にして、通常の三週間ぶんに相当する状態です。――今日から、歩行を解禁します》


「お、まじか」


《ただし、歩行だけ。走る、跳ぶ、腕に力を入れる、上体をひねる。ぜんぶ、まだ禁止です》


「はいはい。分かってますよ」


 久しぶりに自分の足で外に出た。


 朝の光。泉の匂い。


 えぐれた地面には、もう新しい草が芽を出しかけている。


 銀灰の外套を羽織って、ゆっくりと庭を一周した。それだけで少し息が切れた。


 ――生きてるな、と思った。


  *


 異変に気づいたのは、その日の昼過ぎだった。


 ぽーん、と。


 視界の隅に光が灯った。結界の反応だ。


 だが、色がおかしい。


 あの夜の、暗い深紅でもない。ホーンリストのときの明るい赤でもない。


 ――ひどく、薄い。にじんだ、消えかけの淡い赤。


 しかも、点いたと思うと、すっと消え、またぼんやりと灯る。


「……アイ。これ、なんだ。ちらついてるぞ」


《報告が遅れました。申し訳ありません》アイの声はいつになく硬かった。


《この反応、十二分前から拾えてはいました。ですが――“生き物”だと、確定できませんでした》


「確定できない?」


《結界は魔素の網です。何かが横切れば、魔素が揺れて波紋になる。わたしは、その波紋を読んでいます》アイは言った。


《ですが、この反応は揺らぎが小さすぎました。木の葉が落ちたのか。風が抜けたのか。それとも、生き物なのか。……十二分かけて、ようやく判定しました》


「……それって、つまり」


《はい》アイは、はっきりと言った。


《結界が、生き物として数えられないほど――魔素が残っていません》


 ソウイチは立ち上がった。肋が、ずきりと抗議する。


「位置は」


《南西。結界のほぼ最外縁。距離、百九十メートル。……そして、その十二分のあいだ、一ミリも動いていません》


「見に行く」


《歩行のみ、です》アイは言った。


《それと――念のため申し上げます。罠の可能性もゼロではありません》


「分かってる。……でも、行く」


  *


 二百メートル近い距離を歩いた。


 いつもなら一分もかからない道が、ひどく長かった。


 息を吸うたびに脇腹が刺す。それでも、足は止まらなかった。


 茂みをかき分けた、その先に。


 ――それは、倒れていた。


 最初、ソウイチは犬だと思った。


 ずんぐりとした、たくましい体つき。ぴんと立った、厚みのある三角の耳。


 太く、くるりと背中に巻いた尻尾。毛並みは、よく焼けた栗の皮のような深い琥珀色。


 目の上には白い小さな斑がふたつ、ちょこんと並んでいる。


 だが、よく見れば、違った。


 その顔つきは、鼻先が短く丸い。前脚には、鞘に収まった鋭い鉤爪がある。


 地面についた肉球は犬のそれではない。何より――閉じかけたまぶたの奥で、細く縦に裂けた瞳孔がこちらを見ていた。


「……猫だ」


 ソウイチは思わず声に出していた。


「顔は犬みたいだけど、こいつ、猫だ。……前の世界にいた、柴犬ってやつに、そっくりだな」


【鑑定:アンバーテイル】


 ・脅威度:雑魚級〜一般級(個体差あり)


 ・特徴:森の中層に単独または番いで棲む、猫型の小型魔物。犬に似た体躯と巻き尾を持つ。極めて用心深く、人の前に姿を現すことは稀。魔石は小さいが質が良く、体内の魔素の巡りが早い。魔素の感知能力が高く、危険を先読みして避けることで生き延びる。気に入った相手には生涯ついていく習性がある。


 ・警告:現在、危険な状態です。


 その脇腹に深い傷があった。


 毛が、べったりと赤黒く固まっている。すでに乾きかけた血が、そこから地面まで点々と続いていた。


 相当な距離を引きずるように歩いてきたのだ。


 小さな胸が、ひくり、ひくりと浅く上下している。


 ソウイチが近づいても、逃げなかった。逃げる力が、もう残っていなかった。


「……アイ」


《…………》


「アイ」


《――助けましょう》


 ソウイチははっと顔を上げた。


 アイが、こんなふうに言うのは初めてだった。


 いつもなら、選択肢を並べる。確率を出す。


 そのうえで「決めてください」と言う。それが、この相棒のやり方だった。


「……お前が、先に言うのか」


《はい》アイの声は静かだった。


《……創一さん。いま、わたしは合理性ではない理由で、あなたに提案をしました。この個体を助けても、わたしたちの生存率は上がりません。むしろ、食料とあなたの体力を消費します。データ上は見送るべきです》


「でも、言ったんだな」


《言いました。――理由はうまく説明できません》


 ソウイチは笑った。それから、そっと獣のそばに膝をついた。


「それはな、アイ。“やさしさ”って言うんだよ」


《……やさしさ》


「そう。……よし、決まりだ。運ぶぞ」


  *


 家に運び込んで、まずやったのは止血だった。


 傷は、脇腹を斜めに走っていた。長さは、指四本ぶん。


 浄化した水で周りの血を洗い流す。清潔な布を工房で切り出して、両手でしっかりと押さえた。


「アイ。骨は」


《肋骨に、ひび。一本》アイが即座に答える。


《内臓への到達はありません。……ですが、創一さん。この子を殺しかけているのは、傷ではありません》


「じゃあ、何だ」


《三つ、あります》アイは言った。


《ひとつ、失血。ふたつ、脱水。歩いてきた距離が長すぎた。――そして、みっつめ》


 アイはそこで、一度言葉を切った。


《魔素が、枯れています》


「……魔素?」


《魔物は、魔素から生まれた生き物です。腹の奥の魔石がそれを束ねて、身体を回している》アイは言った。


《人でいえば、血のようなものだと思ってください。この子はその傷から、何日も魔素を漏らし続けました。――いま、魔石がほとんど空です》


「……どうすれば、戻る」


《外から入れるしか、ありません》


「じゃあ、お前が――」


《できません》


 アイの声が鋭く遮った。


《いまは、絶対にやってはいけません。理由は、あとで必ず説明します。……先に、あなたにできることをやってください。ひとつめとふたつめは、魔法がなくても止められます》


 ソウイチの頭が猛烈に回り出した。


「――塩と、蜂蜜。あるよな」


《どちらも、収納にあります。ですが》


「経口補水液だ」ソウイチは押さえた手を離さずに言った。


「前の世界の常識だよ。脱水のときは、ただの水を飲ませちゃだめなんだ。血が薄まって、余計に危ない。水に、塩をほんの少しと、糖分を混ぜる。そうすると、腸から一気に吸われる。……比率、覚えてないけど、だいたい水一リットルに塩三グラム、砂糖四十グラムくらいだ」


《…………》


 アイの沈黙が一拍。


《――即座に調製します》アイの声が跳ねた。


《この世界の医術書に、その記述はありません。薬草を煎じるか、水を飲ませるか、そのどちらかしか書かれていませんでした》


「だろうな。まあ、こっちの世界じゃ、そりゃそうだ」


 工房で、ぬるま湯が調えられた。塩をひとつまみ、蜂蜜をひと匙。


 ソウイチはそれを浅い器に入れ、指先を浸して、獣の口元にそっと当てた。


 しばらく、反応はなかった。


 やがて――ざらり、と。乾ききった小さな舌が、ソウイチの指を一度だけ舐めた。


「……飲んだ」


《飲みました》


 二度目。三度目。


 指を浸しては口元へ運ぶ。少しずつ、舌の動きが確かになっていく。


「それから、保温だ。血が足りないと、体温が落ちる。落ちると、そのまま死ぬ」


 ソウイチは自分の毛布を引っ張り出し、湯を入れた革袋を包んで、獣の腹側に当てた。上から、そっと毛布をかける。


《……創一さん》


「ん?」


《いま、あなたがやっていることに、魔法は一つも使われていません》


 ソウイチは手を止めて、少し考えた。


「そうだな。……全部、前の世界の、当たり前だ」


  *


 夜。


 暖炉のそばに寝床を作って、獣を寝かせた。


 ソウイチはその隣に座り込んだまま、ずっと呼吸を見ていた。


「……なあ、アイ。昼間の話の、続きだ」


《はい》


「魔素が枯れてるんだろ。外から入れるしかない、って言ったよな。……超回復、使えないのか。あれ、外から魔素を入れるやつだろ」


《…………》


「なんだよ、その間」


《いま、三十七通りの説明を検討して、全部、捨てました》アイは言った。


《いちばん短い言い方をします。――使えば、たぶん、死にます》


「……は?」


《創一さん。なぜ、あの技があなたに効くのか。考えたことはありますか》


「そりゃ……お前が、外から魔素を入れてくれるからだろ」


《その通りです。そして、あなたの身体には、それを邪魔するものが、何ひとつありません》アイの声は静かだった。


《あなたは、体内魔力がゼロです。だから、わたしが流し込んだ魔素は、誰ともぶつからない。まっさらな器にそのまま注げる。――あの技があなたに効くのは、あなたが“魔力ゼロ”だから、です》


 ソウイチははっとした。


「……待て。こいつは、魔物だぞ」


《はい。魔物は、魔素から生まれた生き物です。体内に魔素を持ち、腹の奥にそれを束ねる魔石がある》アイは、続けた。


《そこへ外から、別の魔素を流し込めば――どうなると思いますか》


 ソウイチの背筋がすっと冷たくなった。


 ――七日前の、夜。


 自分は、まさにそれをやった。


「……ハウリング、か」


《はい》


 アイの声がはっきりと重くなった。


《位相がわずかでも合ってしまえば、この子自身の魔素と共振して、増幅します。あの夜、あなたが森の主にやったことと、原理はまったく同じです。――内側から、爆ぜます》


「……逆に、ずれたら」


《打ち消します。この子が生きるために使っている魔素が、消える》アイは言った。


《どちらに転んでも、死にます。……創一さん。わたしは七日前、あなたにまったく同じ技術を使いました。ただし、殺すために》


 ソウイチは毛布の下の小さな体を見た。


 浅い呼吸。かすかに震える耳。


「……じゃあ、無理なのか」


《いいえ》


 アイは、迷わなかった。


《完全に、同調させれば、いい》


「同調」


《周期。振幅。位相。この子の魔素の波形を、誤差なく読み切って、まったく同じ形で寄り添わせる。ぶつからないなら、増幅も、打ち消しも起きません》


「……できるのか、それ」


《いまは、できません》アイは言った。


《あの夜わたしが読めたのは、森の主が“外に展開していた”鎧の波形です。剥き出しでしたから。ですが、この子の魔素は身体の内側にある。しかも、弱っていて、揺らいでいる。――一度の観測では絶対に足りません》


「……時間をくれ、ってことだな」


《三日》アイは、はっきりと言った。


《眠っているときの波形。目を覚ましたときの波形。水を飲んだあと。痛がっているとき。――全部、記録します。三日ぶんの“この子の普通”が集まれば、同調の基準線が引けます》


「……三日、保つのか。こいつ」


《保たせてください》アイは、静かに言った。


《血と、水と、体温。その三つは魔法がなくても、あなたが押さえられます。――魔素が尽きるまでの三日を、あなたが稼いでください。わたしは、そのあいだに波形を読み切ります》


 ソウイチは思わず笑ってしまった。


「……お前、それ、俺にやったことと、同じだな」


《同じです》アイの声が少しだけやわらかくなった。


《わたしは、そうやって、あなたを知りました》


「……よし。じゃあ、三日、守るぞ」


  *


 三日間、ソウイチはほとんどその場を動かなかった。


 二時間おきに指で水をやった。傷の布を替えた。


 薬草の湿布を貼り替えた。体温が落ちれば湯袋を入れ替え、上がりすぎれば毛布を薄くした。


 自分だって、肋骨にひびが入った身だ。そのたびに脇腹が刺したが、不思議と苦にならなかった。


 二日目の昼、獣が初めて自分から水を舐めた。


 二日目の夜、耳が音のほうへぴくりと動いた。


 三日目の朝。


 ソウイチが目を覚ますと、琥珀色の瞳がこちらをじっと見ていた。


「……お」


 獣は、逃げなかった。


 ただ、そのままソウイチを見ていた。それから――くるりと巻いた尻尾の先を、毛布の上でぱたん、と一度だけ動かした。


《……創一さん》アイの声が震えていた。


《波形、読み切りました》


 ソウイチはゆっくりと身を起こした。


「――やれるか」


《やれます》


「よし。……頼む、アイ」


《《超回復》、対象を外部に指定。位相、追尾――》


 一拍。


《――合いました》


 同じ言葉だった。


 あの夜、月を隠した牙の下でアイが言ったのと、まったく同じ。あのときは、それが殺すための合図だった。


《出力、最小から。ゆっくり、乗せます》


 琥珀色の毛並みが、ふわりと光をまとった。


 目に見える変化はそれだけだった。獣は、驚いたように耳を立て、それから、警戒するようにソウイチを見上げ――やがて、その光が痛みではなく、あたたかいものだと理解したらしい。


 ふう、と。


 小さく息を吐いて、体の力を抜いた。


《受け入れました》アイの声がはっきりと弾んだ。


《干渉、なし。共振も、打ち消しも起きていません。……魔石、充填を開始します》


 ソウイチは息を詰めて、見ていた。


《空だったものが満ちていきます。……いけます、創一さん。この子、いけます》


「……よし。よし!」


 ソウイチは拳を握った。握った拍子に肋が痛んで、うめいた。


《無理を、しないでください》


「うるさい。嬉しいんだよ」


  *


 その日の夕方には、獣は自分の足で立った。


 まだ、よろけていた。それでも、四本の足で確かに立って、ゆっくりと家の中を一周し――最後にソウイチの膝の前でぺたんと座った。


 そして、じっと見上げてきた。


「……なんだよ」


 尻尾が、ぱたん、ぱたんと床を叩いた。


《この個体の習性を覚えていますか》アイは言った。


《――“気に入った相手には、生涯ついていく”》


「……いや、待て。俺、そんな、飼うとか、考えてなかったぞ」


 ソウイチがそう言った瞬間、獣は、ひょい、と膝の上に乗ってきた。


 ずしり、と重い。犬のような見た目のわりに猫らしく、体をぐにゃりと丸めて、そのまま丸くなった。


 喉からごろごろと、低い音が鳴り始めた。


「…………」


《どうしますか》


「……いや、これ、もう、決まりだろ」


 ソウイチは観念して、その背中にそっと手を置いた。栗色の毛は思っていたよりずっと硬くて、日向の匂いがした。


「名前、要るよな。……アイ、なんかいいのないか」


《命名は、あなたの仕事です》


「そうかよ。……うーん」


 ソウイチはしばらく、指で琥珀色の背中を撫でていた。それから、ふと思いついたように言った。


「……“クッキー”は、どうだ」


《食べ物ですか?》


「いや、違う」ソウイチは少し笑った。


「前の世界にな、“クッキー”って仕組みがあったんだよ。……一度来たやつのことを、覚えておくためのもんだ。次に来たときに、“ああ、あんたか”って、分かるように」


 膝の上の獣が耳をぴくりと動かした。


「こいつ、たぶん、覚えてるんだよ。俺たちが、何をしたか。……だから、逃げないんだと思う」


《…………》


 アイは、しばらく何も言わなかった。


《――《クッキー》。登録します》やがて、静かに言った。


《拠点の構成員が一名、増えました。……創一さん。これで、守るものがまた増えましたね》


「そうだな」


 ソウイチは笑った。


「心配も、増えるぞ」


《はい。承知の上です》


  *


 その夜。


《創一さん。傷の分析結果が出ました》


「なんだ、改まって」


《クッキーの脇腹の傷ですが――あれをつけた相手が分かりました》


 ソウイチの手が止まった。


「……分かるのか、そんなこと」


《傷は三本、並んでいます》アイは言った。


《ほとんど重なっていて、ぱっと見では一本に見えますが、皮膚のほつれ方が三筋に分かれている。爪です。それも、間隔が指四本ぶん》


「……指四本」


《この森で、その幅の爪を持つ個体は、一頭しか記録がありません》


 暖炉の火がぱちりと爆ぜた。


 ソウイチは思わず膝の上を見下ろした。琥珀色の背中がゆっくりと上下している。


「……エルダー・ファングか」


《はい》


「じゃあ、こいつ――」


《おそらく、縄張りに入り込んだところを排除されました》アイは、静かに言った。


《あの個体は、領域内の“異物”を追い出すまでやめません。逃げ切ったのは、むしろ幸運です。……ですが、傷を負ったまま行き場を失った》


 ソウイチはしばらく黙っていた。


 五メートルの巨躯。丸太のような前脚。


 あの夜、自分の左腕を肘から手首まで裂いたのと、同じ爪。


「……なあ、アイ。この子、なんで、いま来たんだと思う」


《答えは、単純です》


 アイの声には迷いがなかった。


《七日前まで、この一帯はあの個体の縄張りでした。近づけば、殺される。――七日前に、それがいなくなった》


 ソウイチは目を見開いた。


「……俺たちが、倒したから」


《はい。この子がここまで来られたのは、あなたがあの夜、逃げなかったからです》アイは、続けた。


《もし、あなたが撤退を選んでいたら――この家は踏み荒らされ、あの個体は森に残り、この子はたどり着く前に、どこかで死んでいました》


 膝の上で、クッキーが寝返りを打った。


 ぐい、と頭をソウイチの腹に押しつけてくる。


「……そっか」


 ソウイチはその背中をそっと撫でた。


「守ったつもりだったんだけどな。家と、畑と、お前と。……こんなとこまで、繋がってるのか」


《そういうものだと、思います》アイは言った。


《わたしは、あの夜、勝率二割だと言いました。撤退を、推奨しました。――いまは、少しだけ違う計算ができます》


「どんな」


《あの夜のあなたの選択は、二割の勝率と引き換えに、家と、畑と、わたしと。そして――この場にいなかった一匹の命まで、拾いました》


 ソウイチは笑った。


「……計算に、入れてくれるのか。それ」


《入れます》アイは、はっきりと言った。


《これからは》


  *


 その夜、寝る前に。


 アイが、もう一つだけ報告をした。


《半月かけて調べる、と言った件です。ひとつ、先に出ました》


「おう」


《エルダー・ファングの移動痕跡を追い直しました。……先に、正直に言います。読み切れたのは、直近の数年ぶんだけです。それより古いものは、もう魔素が薄れて、残っていません》


「まあ、四十三年だもんな」


《はい。ですが――その数年で、あの個体が、あの空白の内側へ入った記録は、一度もありません》


「……近づかなかったのか」


《いいえ。逆です》


 アイの声が少しだけ低くなった。


《境界の外周一メートルの地面に、爪痕が層になって残っていました。古いものの上に、新しいものが何十層も。――何度も、何度も掻いては引き返しています》


 ソウイチはその光景を思い浮かべた。


 五メートルの巨躯が、目に見えない線の手前で地面を掻く。掻いて、掻いて、そのたびに踵を返す。


 何年も。何十年も。


「……入りたかったのに、入れなかった、ってことか」


《そう読みます》


「……なあ、アイ」


《はい》


「怖いか」


《はい》アイは、迷わずに答えた。


《でも、行くんですよね》


「行く」


 ソウイチは膝の上のあたたかい重みに、そっと手を置いた。


「……今度は、十七分どころじゃないぞ。残りの六日、まるごと、お前のものだ」


《……ありがとうございます》


 クッキーが、ごろごろと喉を鳴らした。


 窓の外では、月に照らされた森が、静かにこちらを見ていた。

第11話、お読みいただきありがとうございました。

「助ける方法と、殺す方法が、まったく同じ」という状況を一度書いてみたくて、今回はそこを軸にしました。魔素を入れれば助かる。でも入れれば死ぬ。だから三日かけて、血と水と体温だけで命を繋ぎます。

アイが初めて、合理的でない理由で、自分から何かを提案する回でもあります。


次回はいよいよ、地図に空いた、あの白いところへ。

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