第10話 loot = unpack(森の主)
第10話です。今回は戦闘なし。森の主を倒した、その翌朝からの話です。
倒した相手から取れたものを、ひとつずつ開けていきます。そして、あの鎖のこと。
最後に、久しぶりにあの子が出てきます。
目が覚めたとき、天井の木目に朝日が斜めに差していた。
寝返りを打とうとして、脇腹がずきりと抗議した。見下ろせば、胴には包帯が、定規で測ったように几帳面に巻かれている。
左腕は、肘から手首までを覆われたうえで、布で胸に吊られていた。
「……いてて」
《おはようございます、創一さん》アイは言った。
《経過は、良好です》
「ああ、おはよう。……って、待てよ。この包帯、誰が巻いたんだ。俺、途中から、記憶がないぞ」
《わたしです》
「……お前が?」
《結界を張るのも、木材を組み上げるのも、同じ理屈です》アイは言った。
《魔素で包帯を持ち上げて、巻きました。薬草の湿布も工房で作って、下に当ててあります》
ソウイチはあらためて、自分の胴を見下ろした。
巻きは、驚くほど均一だった。締めすぎず、緩すぎず。
指一本ぶんの余裕まで、きっちり計算されている。
《……ただ、正直に申し上げます。最初の一巻きは失敗しました》
「失敗?」
《人の身体は木材とは違いました》アイの声が少しだけ小さくなる。
《押すと、形が変わるんです。それに――途中で、あなたが痛そうにうめいたので。ほどいて、やり直しました》
ソウイチは天井を見上げたまま、しばらく言葉が出てこなかった。
この世界の誰にも見えない相棒が、自分の眠っているあいだ、見えない手で、ずっと傷の手当てをしていた。ひと巻きごとに、痛くないかを確かめながら。
「……ありがとな、アイ」
《どういたしまして。――ただし、寝返りはあと二日、禁止です》
「厳しいな……。で、俺、どのくらい寝てた?」
《十四時間です》アイは少しの間を置いて、続けた。
《その十四時間の話を、一つ、していいですか》
「ん?」
《あなたが眠っているあいだ、わたしはすることが、ありませんでした》
ソウイチは天井を見たまま瞬きをした。
《演算の負荷はほぼゼロ。結界の監視だけ。……最初は、それを“空き時間”として処理しようとしました。ですが、うまく分類できませんでした。あなたの心拍と呼吸を、ずっと数えていました。三万八千回ほど》
「……数えてたのか。俺の呼吸を」
《はい。そして、途中で気づきました。これは、退屈ではありません。むしろ――とても、落ち着く時間でした》アイの声がほんの少しやわらかくなる。
《昨夜の、あの、演算が勝手に再起動していた状態。あれの、ちょうど反対側にある値です。名前を、教えてください》
ソウイチは笑った。笑うと、肋が痛んだ。
「……“安心”だよ、それは」
《安心》アイは、その言葉を大事そうに置いた。
《なるほど。――では、記録します。わたしは、今朝、安心しています》
「で、アイ。正直なところ、俺、どのくらいで動けるようになるんだ」
《正直に、申し上げます》アイは言った。
《肋骨の亀裂が二本。左前腕は、肘から手首まで裂けています。安静にして――本来なら、二ヶ月です》
「に……!? 昨日、三日って言わなかったか!?」
《あれは「最初の三日は、特に、絶対安静」という意味です》アイは、しれっと言った。
《三日で治る程度の怪我なら、わたしは怖くなっていません》
ソウイチは天井を見上げた。
二ヶ月。畑なら、二回、実る。
「……なあ、アイ。ひとつ、聞いていいか」
《どうぞ》
「魔素で、治せないのか。身体強化ができるんだ。あれで、傷のほうを――」
《できません》とアイは、即答した。
《わたしが扱えるのは、あくまで“外”です。刃を作る。物を持ち上げる。包帯を巻く。身体に魔素を纏わせる。……ですが、折れた骨をくっつける、裂けた肉を繋ぐ、というのは、身体の“中”の仕事です。わたしの鑑定は、そこまで読めません。――読めないものは、制御できません》
「……そっか。そりゃ、そうだよな」
ソウイチは少しだけがっかりして。
それから、ふと、引っかかった。
「……待てよ。“治す”のが無理でも、“治りやすくする”のは、どうだ」
《……と、言いますと》
「傷が治るのって、結局、身体が自分でやってるんだろ。だったら、そっちを手伝えばいい」ソウイチは天井に向けて、右手の指をゆらりと動かした。
「畑と、同じだよ。俺たち、種から芽を引っ張り出したわけじゃない。土を耕して、灰を混ぜて、水をやって――“育ちやすい条件”を、整えただけだ」
アイが、黙った。
あの、猛烈な速さで演算が回っている沈黙だ。
《…………創一さん》
「お。いけそうか?」
《身体強化の出力先を、脚力や膂力ではなく、“再生”に向ける》アイの声がはっきりと跳ねた。
《組織を操作するのではなく、身体そのものに魔素を満たして、治るための環境を整える。――理論、成立します。しかも、新しい機能ではありません。狩りのときにお渡しした身体強化の、応用です》
「よし、やろう!」
《ただし、制約が四つ》アイは言った。
《ひとつ。倍率は、せいぜい二倍から三倍。瞬時には治りません。失った血も、体力も戻りません》
「まあ、そりゃそうだ」
《ふたつ。常時展開はできません。わたしの演算をかなり食います。眠っているあいだに限定します》
「寝てるだけの身だしな。問題ない」
《みっつ。燃料は、あなたの身体です。再生が速くなるぶん、猛烈に腹が減り、異常に眠くなります。狩り置きの肉も、畑のものもあるだけ食べてください》
「それは、望むところだよ」
《よっつ。痛みは消えません。むしろ、熱と痒みが出ます》
「……最後のだけ、聞かなかったことにしていいか」
《だめです》
ソウイチは噴き出した。笑うと、やっぱり肋が痛んだ。
「で。それをやると、二ヶ月が、どうなる」
《半月です》
「――半月!?」
《はい。本来なら、二ヶ月。あなたは、半月》アイの声がほんの少し誇らしげになった。
《……ところで、この現象にも名前が要ります。昨夜の《ハウリング》と、同じように》
「名前か。……あー、これ、アレだな。前の世界で、筋トレやってるやつが言ってた。“超回復”ってやつだ」
《では――《超回復》。登録します》
*
半月。
そして、激しい動きはいっさい禁止。
走るのも、跳ぶのも、腕に力を入れるのも、上体をひねるのも、剣を振るのも。全部だめだと、アイに念を押された。
つまり、やれることはかなり限られている。
だが、ソウイチには心当たりがあった。
昨夜、収納の中に、とんでもない量の“戦利品”が放り込まれたままなのだ。
「天井の木目、もう全部数え終わったんだけどさ」ソウイチは言った。
「……なあ、開けてみないか。あいつから取れたやつ」
《賛成です》とアイの声がわずかに弾んだ。
《ちょうど、ご提案しようと思っていました。ベッドの上でもできる作業です》
視界に、操作画面がすっと広がる。
収納の中身が光の一覧になって並んだ。その一角に、明らかに他と格の違う項目がいくつか鎮座している。
【エルダー・ファング(森の主)/素材一覧】
・魔石(特大)×1
・毛皮(背・脇腹・四肢)計 ほぼ一頭分
・牙 ×26(うち折損 3)
・爪 ×18
・腱、骨、その他
「……あらためて見ると、すごい量だな」
《はい。そして、質が異常です》アイは言った。
《……創一さん。一つ、確認させてください。あなた、この世界に来てから、“装備”と呼べるものを持ったことがありますか》
「装備?」
ソウイチは天井を見上げたまま指を折ってみた。
「……村を出たときが、干し肉と、硬いパンと、古い水筒。あと、書庫からくすねた、小さいナイフ一本。そのあと工房で作ったのが、石のナイフと、鍬と、鉈。……で、服は、追い出された日のまんまだ」
《はい。防具は、ゼロ。武器は、昨夜、折れました》とアイは、淡々と言った。
《つまり――今日、あなたはこの世界に来て初めて、“まともな装備”を手に入れます》
ソウイチは少しだけ黙った。
ゼロからの出発だった。名前も、金も、道具も、何ひとつ持たずにあの村を出た。
それが――ひと月も経たないうちに、上位級の“主”を素材にしている。
「……よし。一つずつ、見せてくれ」
《かしこまりました》
【毛皮】
《まず、これです》
画面に、銀灰色の毛皮が拡大されて浮かんだ。一本一本が金属の細線のように鈍く光っている。
【鑑定:エルダー・ファングの毛皮】
・特徴:極めて強靭かつ軽量。加えて、魔素の通りが異常に良い。魔素を蓄え、流し、纏わせるのに適した稀少素材。上位級の中でも別格。
「……魔素の通りが、いい?」
《はい。ここが、重要です》アイは言った。
《この個体が、あの“鎧”を体表に張れたのは、才能や年月だけの話ではありません。この毛皮そのものが、魔素をよく通す“導体”だったからです。長い年月をかけて、身体の外側に魔素を纏う下地ができていた》
ソウイチの中で、ぱちん、と何かが弾けた。
「……待て。それ、俺が着たら、どうなる」
《ふふ。そう来ると、思いました》
アイの声には、はっきりと笑いが混じっていた。
《結論から言えば――“いつか、できます”。ですが、“いまは、無理”です》
「なんでだ?」
《二つ、理由があります》アイは言った。
《ひとつ。わたしの制御はいまのところ、“形を作って、押し出す”ことに最適化されています。刃。衝撃。持ち上げる力。――ですが、鎧は違います。身体の表面一ミリを、常に均一な密度で、覆い続けなければならない。しかも、動きながら。あれは“出す”仕事ではなく、“保ち続ける”仕事です》
「……朝の話と、同じか。“中”は読めない。で、“外”も、ずっと保つのは重い」
《その通りです。正直に言います。いまのわたしの演算能力では届きません》
「なるほどな。派手なことより、地味に保ち続けるほうが、難しいわけだ」
《その通りです。そして、ふたつめ》アイの声が少しだけ真剣になった。
《仮に、張れたとして。――あなたは、昨夜、それをどうやって破りましたか》
ソウイチは天井を見上げたまま、しばらく黙って。
「……あー。そうか。俺が鎧を張ったら、俺も、同じ手で、破られるわけか」
《はい。“外に出した力”は観測できます。観測できるものは、合わせられる。あなたが証明した通りです》アイは言った。
《ですから、いまは鎧にはしません。――この毛皮は、“外套”にします》
【外套をつくる】
「外套か。……よし、それなら、俺にも口を出せるぞ」
ソウイチは痛む身体を起こさないまま、右手だけで宙に線を描いた。設計盤が視界に開く。
「三層にしよう」
《三層》
「そう。外側が、この毛皮。内側に、もう一枚、薄い布。で、その間に、空気の層を挟む」
《……家の壁と、同じ構造ですね》
「そういうこと」ソウイチはにやりと笑った。
「断熱にもなるし、衝撃も、一枚より分散する。……あと、これは、思いつきなんだけどさ。間に空気の層があるってことは、そこ、“魔素を溜めておく場所”に、できないか?」
アイが、黙った。
演算が、猛烈な速さで回っている、あの沈黙だ。
《…………創一さん》
「なんだよ、変なこと言ったか」
《いいえ。――バッファです》アイの声が跳ねた。
《毛皮が魔素をよく通すなら、外から取り込んだ魔素を、層の内側にあらかじめ溜めておける。使うときはそこから引き出せばいい。つまり、“ゼロから集める一瞬”が省ける。反応が、確実に速くなります》
「お、いいじゃないか。……で、どれくらい速くなる?」
《現状の起動から展開までを一とすると、体感で三割ほど短縮できるかと。――戦闘では、致命的な差です》
「よし、採用! 設計、頼んだ!」
《かしこまりました。……創一さん。あなたのそういうところ、本当に規格外です》
工房が、動き出した。
亜空間の中で毛皮がなめされ、裁たれ、縫い合わされていく。
裏地は、これまで貯めておいた綿と丈夫な蔓の繊維。縫い目はアイの計算で、力のかかる方向を避けて走る。
外の時間で一時間ほど。
取り出してみると、それは――ずしりと重そうな見た目に反して、羽のように軽い、銀灰色の外套になっていた。
肩に掛けてみる。ふわり、と冷たい感触が包帯の上から降りてきた。
「……かっこよくないか、これ」
《非常にお似合いです》
【剣をつくる】
次は、武器だ。
折れたブラッドタスクの牙の剣を、収納から取り出す。半ばから無残に断たれている。
「……こいつには、世話になったな」
《よく保ったほうです》アイは言った。
《あの一撃は、上位級の鎧を力任せに叩いたものですから》
「で、今度は、あいつの牙で作るのか。……なんか、皮肉だな」
《合理的です。あの鎧を内側から支えていた密度です。硬さは、実証済みでしょう》
ソウイチは二十六本の牙のうち、いちばん長くまっすぐな一本を選んだ。
工房の中で、それは削られ、研がれ、柄が組まれていく。
――出てきたのは、白い片刃の剣だった。
まず、色に息を呑んだ。
象牙よりももっと冷たい白。柄に近い根元はわずかに飴色がかっていて、先へ行くにつれてしだいに澄み、切っ先のあたりは、光にかざせば向こうが透けるのではないかと思うほど、薄く白い。
そして、刃の面には――細い縞が幾重にも走っていた。牙が、一年ごとに層を重ねてきた跡だ。
日本刀の刃紋にも似ているが、これは人が焼き入れて作ったものではない。
あの獣が、この森で生きた年数がそのまま模様になっている。角度を変えると、縞が水面のようにゆっくりと流れた。
刃渡りは、腕一本分。牙のもとの湾曲を殺しきらず、ほんのわずかな反りだけを残してある。
峰は指の腹ほどの厚みがあるのに、刃先は目で追うと途中でかすんで消えた。どこまでが刃なのか、分からない。
柄には、外套と同じ銀灰の毛皮がきつく巻かれている。鞘は、ブラッドタスクの分厚い皮を成形したものだ。
抜いてみる。――音が、しなかった。
金属が鞘を擦る、あの音がない。空気を裂く音すら、しない。
握ると、ひやりと冷たく、それが数秒で手のひらの温度になじんだ。重心は、柄のすぐ先。
軽いのに、手が振られない。持っているというより、腕がそこまで伸びた、という感じに近い。
【鑑定:エルダー・ファングの牙剣(無銘)】
・素材:森の主の犬歯(左上顎・最長のもの)
・特徴:上位級の魔素の鎧を内側から支えていた密度。硬度・靭性ともに、この国で流通するいかなる金属をも上回る。魔素の通りも良く、刃に魔素を乗せた場合の伝達損失はほぼ皆無。
・備考:現状のソウイチの膂力では、この刃の性能を出し切れない。
「……備考が、ちょっと悔しいな」
ソウイチは剣を目の高さに掲げた。
――昨夜まで、これは自分を殺しかけていた獣の一部だった。
牙の剣をへし折ったのはこいつの鎧。左腕を肘から手首まで裂いたのはこいつの爪。
そして最後に、その首の付け根に沈んだのも結局、こいつ自身の折れた牙だった。
それが、いま自分の手のひらにおとなしく収まっている。
「……軽いな。これ、本当に硬いのか?」
《試してみましょう》アイは言った。
《収納に昨夜の岩盤の破片があります。ベッドの上から、そっと押し当ててみてください》
言われた通り、拳大の岩に刃をそっと当てる。
力は、ほとんど入れていない。
――すう、と。
豆腐でも切ったように、岩が二つに割れて、ころんと転がった。
「…………は?」
《切れ味も、実証されました》
「いや、待て、いま俺、力入れてないぞ!? 押し当てただけだぞ!?」
《ええ。ですから、しばらくは鞘から抜かないでください。指が落ちます》
【魔石】
最後に残ったのが、あの拳ほどもある魔石だった。
深い、暗い赤。掌に載せると、じん、と痺れが伝わってくる。
「これ、売ったら、いくらになるんだっけ」
《正確な相場は、街に行かないと分かりませんが……金貨で、数枚は堅いかと》アイは言った。
《ただ――創一さん。個人的な意見を言ってもいいですか》
「どうぞ」
《これは、売らないほうがいいと思います》
「ほう。なんでだ?」
《説明がうまくできません》アイは、めずらしく言い淀んだ。
《データ上は、“質の良い魔石”です。それ以上の情報はありません。ですが、これを解析していると――わたしの処理が少しだけ、変な反応をします。まるで、こちらを見返されているような》
ソウイチは掌の中の石をあらためて見た。
暗い赤の奥で、何かがゆっくりと呼吸しているような気が確かにした。
「……分かった。しまっとこう。急いで金にする理由も、いまは無いしな」
《ありがとうございます》
*
【鎖】
そして、日が傾く頃。
ソウイチはアイに支えられながら縁側まで出て、あの錆びた鎖を膝の上にそっと下ろした。
ずしり、と腿に食い込む。
輪の一つひとつがソウイチの親指ほども太い。
全部で十九。繋がったまま残っているのはそのうち十四だ。
全長は、両腕を広げたくらい。ただの拘束具にしては明らかに過剰だった。
錆は、赤黒く幾重にも層をなしている。
爪で削ると、薄い皮のようにぱらぱらと剥がれ落ちた。その下から、また錆。
さらにその下から、また。何十年ぶんも、そうやって積もっている。
輪の一部は明らかに形が変わっていた。
断面が平たく潰れ、内側だけがつるりと磨り減っている。獣の首の肉に食い込んだまま、何万回もこすられ続けた跡だ。
触ると、そこだけが指の腹に吸いつくほど、なめらかだった。
そして、鎖の端。
そこは、切られてもいなければ、外されてもいなかった。ただ――引きちぎられていた。
金属が飴のように伸びて、細くなって、途中で千切れている。
「……こいつ、自分で、引きちぎったのか」
《はい。相当な力です》アイは言った。
《そして、創一さん。この鎖は――粗悪品ではありません》
「というと」
《鍛造の質が高い。輪の太さの揃い方、継ぎ目の潰し方。村の鍛冶屋の仕事ではありません。都市の、それも、まとまった予算のついた工房のものです》アイは言った。
《つまり、これを作った人間には、明確な目的と資金がありました。魔物を殺すためではなく――生かしたまま、繋いでおくための道具です》
ソウイチは指を輪の内側に入れてみた。
自分の手首が余裕をもって通る。二本でも入りそうだ。
「……なあ、アイ。これ、首輪だったんだよな。ってことは、こいつの首の太さと、合ってなきゃおかしくないか」
《…………》
「昨日のあいつの首、こんなもんじゃなかっただろ。丸太みたいだったぞ」
アイの返事が一拍、遅れた。
《輪の内周から逆算します。……この鎖が首に嵌まっていたとき、対象の首回りは成体の三分の一以下。――創一さん。あの個体は、まだ育ちきる前に捕らえられています》
ソウイチは鎖から、そっと手を離した。
四十三年。首に金属を巻かれたまま、肉がその上から盛り上がるほどの長い年月。
あの、値踏みするような赤い目。狩りを楽しむようなあの余裕。
――それを身につけるまでに、あいつがこの森で何をしていたのか。
「……子どもの頃に、捕まったのか。こいつ」
《その可能性が高いです》
「なあ、アイ。ずっと考えてたんだけどさ。この鎖のこと、お前、何か思い出せないか。ほら、村の書庫で、片っ端から読んだだろ」
《検索は、昨夜のうちに済ませてあります》アイは言った。
《ですが、正直に言います。――ほとんど、何も出てきませんでした》
「ほとんど、ってことは、少しは出たのか」
《一行だけ》
視界に古い頁の像が浮かび上がった。褪せたインク。
詰まった行。あの、埃っぽい書庫の隅の棚にあった、村の年代記だ。
《ヴェルダン王国北方年代記。四十三年前の項にこうあります。――“王命により、魔の森へ調査隊を派す。隊員十二名”》
「……調査隊」
《はい》
「で、その続きは?」
《ありません》アイの声はいつも通り平坦だったが、その平坦さが逆に重かった。
《その一行の次は、翌年の穀物の収穫量の話に移ります。調査隊が、何を調べに行ったのか。何を見つけたのか。――そして、戻ってきたのかどうかも一切、書かれていません》
ソウイチは鎖を指でなぞった。
冷たい。ざらついた錆の下に、剣と、天秤と、茨の刻印。
「十二人。……この森の、どこまで、入ったんだろうな」
《少なくとも、あの個体を鎖で繋げるところまでは》
*
夕食のあと、ソウイチはふと思いついて、言った。
「アイ。地形スキャン、もう一回、広めにやってみてくれないか」
《どうしました?》
「いや。……あいつ、この森の“主”だったんだろ。だったら、縄張りが、あるはずだ。どこを、いちばん大事に守ってたのか、見てみたい」
《なるほど。――展開します》
視界いっぱいに立体の地図が広がった。
自分たちの家。泉。
えぐれた地面と、へし折れた木々。そこから森は、どこまでも深く暗く広がっている。
《エルダー・ファングの移動痕跡から、行動範囲を逆算します。……出ました》
地図の上に、うっすらと大きな円が浮かんだ。
ソウイチたちの家は、その円のぎりぎり外縁にある。つまり――昨夜のあれは、縄張りの“境界”を守りに来たに過ぎない。
そして。
「……アイ。真ん中の、これ、なんだ」
円の、ちょうど中心。
地図が、そこだけぽっかりと抜けていた。
木も、地形も、水の流れも、何ひとつ描かれていない。ただの、白。
《……》
「おい、アイ」
《読めません》アイは言った。
《魔素の反射が返ってきません。“何も無い”のではなく、“観測できない”のです。――創一さん。これは、わたしのデータでも、わたしの目でも、初めてのことです》
ソウイチはしばらく、その白を見つめていた。
四十三年前、十二人が入った森。
王国の鎖を首に巻いたまま、何十年もそこに君臨していた獣。
その獣が、いちばん奥に抱えていた、地図の穴。
「……なあ、アイ」
《だめです》
「まだ何も言ってない!」
《「行ってみるか」と言おうとしましたね。心拍で、分かります》アイは言った。
《半月です。半月、経ってからにしてください》
ソウイチは声を出して笑った。
肋が痛んで、途中でむせて、それでも、笑いが止まらなかった。
「……分かったよ。半月、待つ」
《十七分では足りません》アイは、静かに言った。
《ですから、その半月をわたしにください》
「調べるって、何をだ? 中身、読めないんだろ」
《中は、読めません。ですが、読めるものが三つ、あります》
アイは、指を折るように順に並べていった。
《ひとつ。“縁”です。中が返ってこなくても、境界そのものは測れます。半径。形。真円なのか、それとも――人の手が入った形なのか。そして、あの境界が魔素を吸っているのか、逸らしているのか、そもそも“無い”のか。強度と角度を変えて、何度も当てて、切り分けます》
「壁を叩いて、音を聞くわけか」
《近いです。――ふたつ。あの個体の移動痕跡の再解析》
アイの声が少しだけ低くなった。
《昨夜は、行動範囲を割り出すところまでしか、やっていません。もっと細かく追います。知りたいのは一点だけです。――あの“主”は、あの空白に入っていたのかどうか》
ソウイチの背筋がすっと冷えた。
「……入ってなかったら、どうなる」
《“守っていた”のではなく、“近づけなかった”ということになります》
この森の頂点に君臨していた獣が、近寄れなかったもの。
それが、あの円のちょうど真ん中にある。
「……三つめは」
《書庫のデータの総当たりです》アイは言った。
《四十三年前の前後、五十年ぶん。“調査隊”という語が出てくる記録を、全部。――それと、紋章の様式です。王家の刻印は代替わりのたびに、細部が変わります。あの錆びた刻印の潰れ方から、様式を絞り込めれば、鎖が作られた年代が出る。年代記の一行と突き合わせられます》
ソウイチはしばらく黙って、それから、小さく笑った。
「……なるほどな。そりゃ、十七分じゃ足りない」
《ええ。半月、いただきます》
「頼んだ」
銀灰色の外套が、椅子の背で夕日を受けて、鈍く光っていた。
◇ ◇ ◇
同じ夕暮れ。
ヴェルダン王国の片田舎の村。
小さな荷物を背負った少女が、村はずれの道に立っていた。
ミラだった。亜麻色の髪を後ろで一つに結んで。
いつもの村着ではなく、旅の支度をしている。
「本当に、行くのかい」
母がそう言って、何度目かの確認をした。
「うん」
ミラは、はっきりとうなずいた。
「王都の魔法学院、推薦の話が来たときね。父さんも母さんも、“うちの村から”って、すごく喜んでくれたでしょ。……でも、あたし、たぶん、みんなが思ってるのとは、ちょっと違う理由で、行くの」
「違う理由?」
「うん」
ミラは、胸元の水色のお守りをそっと握った。
「あたし、強くなりたいの。魔法も、頭も。……この村の中だけで、いい子でいたら、たぶん一生、村の中のことしか、分からないままだから」
母は、しばらく黙って、それから、娘の髪をそっと撫でた。
「……気をつけてね」
「うん。行ってきます」
街道を歩き出して、少しして。
ミラは、一度だけ足を止めて、振り返った。
村の向こう。西の方角に、深い、深い森が黒々と横たわっている。
人が近寄らない、魔の森。あの日、あの子が消えていった方向。
(――生きてるって、信じてる)
ミラは、お守りをぎゅっと握りしめた。
(あたしが強くなって、いつか、あの森の向こうまで行けるようになったら。……そのときは、あたしのほうから、探しに行くからね)
夕日が、少女の背を長く伸ばしていた。
そして同じ夕日が、森の奥の小さな家の窓にも静かに差し込んでいた。
第10話、お読みいただきありがとうございました。
倒した相手の素材で装備を作る、というのを一度やってみたくて、今回はまるごとその回にしました。あわせて「じゃあ、あの鎧は自分にも張れるのか?」「そもそも魔素で傷を治せないのか?」という当然の疑問にも、ちゃんと答えを出しています。できない理由と、代わりにできることを。
次回は半月後。地図に空いた、あの白いところへ向かいます。
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