第9話 catch (森の主)
第9話です。結界の端に灯った、暗い深紅の点。その正体と、初めての本気の戦いです。
逃げるか、守るか。勝率は二割。それでもソウイチは、選びます。
いつもより長めですが、遭遇から決着まで一気にどうぞ。
《創一さん。落ち着いて、聞いてください》
アイが、そんな前置きをしたのは、初めてだった。
視界の端で灯った、暗い深紅の点。それは、森をさまようでも、通りすがるでもなく――まっすぐ、この家を目指して、動いていた。
「……アイ。あれ、なんだ」
暖炉の火が、ぱちりと爆ぜた。ソウイチは、いつのまにか、立ち上がっていた。
《解析を、続けています》とアイ。《……まず、事実だけ、お伝えします。あの反応が保有している魔素の量は、これまであなたが倒したどの魔物とも、桁が違います。ブラッドタスクの、およそ四十倍》
「四十……?」
《はい。そして――移動経路が、一定です。風下を選び、開けた場所を避け、稜線の陰を伝って進んでいます。獣が、餌を探して歩く動き方では、ありません。これは》
アイは、そこで、一度だけ、言葉を切った。
《――狩りの、動き方です》
ソウイチの背中を、冷たいものが、すっと降りていった。
畑の匂い。かまどの煙。暖炉の灯り。家が建った夜に、アイが言った通りだった。快適さの代償は、「ここに、誰かがいる」という印だ。それが、森の何かの目に、留まったのだ。
「……図鑑には、載ってるやつか?」
《照合、完了しました。該当が、一件》
視界に、鑑定枠が、静かに開いた。
【鑑定:エルダー・ファング】
・脅威度:上位級(通称『森の主』)
・特徴:深層に単独で棲む大狼。体長は成体で五メートル前後。極めて長命で、老いた個体ほど狡猾になる。縄張り意識が非常に強く、領域内の“異物”を排除するまで追跡をやめない。
・討伐推奨:Cランク以上の熟練パーティ。単独での交戦は、推奨されない。
「……単独での交戦は、推奨されない、か」
《はい》とアイの声は、平坦だった。《ここからは、わたしの“提案”です。創一さん。――撤退を、推奨します》
*
「撤退」
ソウイチは、その言葉を、口の中で転がした。
《はい。あなたには、収納があります。家財、食料、道具、種。すべて、十五分あれば、収納に収まります。相手は、脚が速い。ですが、あなたの身体強化も速い。いま出れば、確実に、逃げ切れます》
「……勝率は」
《現在の想定で、二割を切ります》とアイ。《相手の膂力、脚力、そして経験。あなたは、格上との単独戦闘の実戦経験が、ありません。これは、データではなく、事実です。――逃げるべきです》
ソウイチは、しばらく、黙っていた。
暖炉のそばに、自分で削った椅子がある。台所には、上流から水を引いた水がめ。窓の外には、まだ芽も出ていない、小さな畑。寝床には、綿毛と羽毛を詰めた、ふかふかのマットレス。
――ここは、初めて「ただいま」と言えた場所だ。
「なあ、アイ」
《はい》
「収納に入れたら、この家、どうなる?」
《……建物そのものは、収納できません。構造体として、大きすぎます。畑も、土ごとは、無理です》
「だよな」
ソウイチは、笑った。自分でも意外なくらい、静かな声が出た。
「じゃあ、逃げるってことは――置いていく、ってことだ。俺たちが二人で建てて、二人で決めた、窓の高さも、棚の位置も、ベッドの向きも、ぜんぶ置いて。で、あいつが、ここを踏み荒らして、畑を掘り返して、それで、終わりだ」
《……はい。その通りです》
「それは、嫌だ」
言ってしまってから、ソウイチは、少しだけ、驚いた。
前の世界では、こんなふうに言えなかった。理不尽な指示にも、無茶な納期にも、「わかりました」と頭を下げてきた。守るものが、何も、なかったからだ。守るものがない人間は、いくらでも、譲れてしまう。
「アイ。俺は、ここを守る。……最適解じゃないのは、わかってる」
《……》
「でも、決めるのは、俺だ。だろ?」
長い、沈黙があった。
アイの演算が、めまぐるしく回っている音が、聞こえるような気がした。
《……了解しました》
やがて、アイの声が、返ってきた。いつもの平坦さに、ほんの少しだけ、熱があった。
《決断は、あなた。実行の精度は、わたし。――いつも通りです。ならば、わたしのやることは、一つだけ。二割を、十割にします》
「……頼りにしてる」
《作戦を、立てます。時間は、あと、十七分》
*
準備は、静かに、猛烈な速さで進んだ。
まず、畑の上に、魔素の膜を張った。踏まれてもいいように、ではない。踏ませないためだ。
次に、家の周囲の低木を、工房で削り出した石の鉈で、必要な分だけ払った。視界を確保する。相手は狡猾だ。茂みは、こちらの不利になる。
そして、迎撃地点を、家の正面――泉のほとりの、開けた高台に定めた。背後に岩壁。左は水。相手が回り込める方向は、一つしかない。
「……こういう、地形の使い方って、やっぱりお前のほうが上手いな」
《世界中の戦記を、書庫で読みましたから》とアイ。《ただし、これは、あくまで“こちらの土俵に引きずり込む”だけです。強さの差は、埋まっていません》
「わかってる。……来たか」
結界の光点が、内側へ、深く食い込んだ。
森が、静かになった。虫の声が、消えた。
*
――そいつは、音を立てずに、現れた。
五メートルはある巨躯が、木々の間から、ぬるりと押し出されてくる。銀灰色の剛毛は、月光を弾いて、鈍く濡れたように光っていた。背中には、幾筋もの古い裂傷。毛が生え変わらないまま、白い瘢痕として盛り上がっている。
頭は、馬の胴ほどもあった。三角の耳の片方は、根元から半分が欠けている。左目は完全に白く濁り、右目だけが――暗い、深い、血のような赤で、こちらを見ていた。
ゆっくりと開いた顎から、湯気のような吐息が、赤黒く漏れた。並んだ牙は、指ほどの太さで、根元が黄ばみ、先端だけが、剃刀のように白い。
そして、太い首に――錆びついた鎖の残骸が、幾重にも、めり込んだまま、絡みついていた。肉が、その上から盛り上がって、鎖を飲み込みかけている。何年も、何十年も、そのままだったのだ。
巨狼は、吠えなかった。
ただ、一歩、前に出た。それだけで、地面が、ずん、と沈んだ。
「……でかい」
ソウイチの喉が、鳴った。恐怖は、あった。逃げなかったからといって、怖くないわけではない。
《戦闘サポートモード、展開》とアイ。《身体強化、照準補助、行動予測。三種、常時稼働します。――創一さん。号令を》
ソウイチは、剣を構えた。道中で倒したブラッドタスクの牙を、工房で削り出して仕立てた、白い牙の剣だ。硬い岩をも砕くという、その素材だけが、たよりだった。
「――やるぞ」
*
初手は、こちらだった。
右手を振り抜く。外界の魔素が、細く、鋭く収束し――風の刃が、音もなく走った。ここへ来る道中で、毒蛇の首を断ったのと、同じ一撃。狙いは、右前脚の腱。
刃は、確かに、当たった。
だが。
――ぱき、と。乾いた音がして、風の刃が、砕けた。
「……は?」
巨狼の毛皮には、傷ひとつ、ついていなかった。
《――データにありません》アイの声が、鋭く上がった。《図鑑の記述に、この現象は、記載されていません。創一さん、退がって!》
考えるより先に、身体強化が、ソウイチの脚を後ろへ跳ばした。
一瞬前まで頭があった位置を、丸太のような前脚が、なぎ払っていく。空気が、爆ぜた。着地したソウイチの頬を、遅れてきた風圧が、灼くように叩いた。
「アイ、なんだ今の! 刃が、通らなかった!」
《解析中――出ました。体表です》とアイ。《この個体は、毛皮の表面に、極めて高密度の魔素の層を、常時展開しています。厚さ、一センチ未満。ですが、密度が、異常です。ほとんど、鎧です》
「魔素の、鎧……」
《図鑑には、ありません。長い年月をかけて、この個体だけが、獲得したものと推測します》
巨狼が、身を沈めた。
ソウイチは、跳んだ。岩壁を蹴り、泉のほとりを滑り、牙を、爪を、紙一重でかわしていく。アイの行動予測がなければ、とっくに三回は死んでいた。
――そして、見つけた。と、思った。
左目。白く濁った、その側。
視界が、無い。ならば、そこから回り込めば。
「アイ! 左だ! 死角から入る!」
《――待って、それは》
アイの制止は、間に合わなかった。
ソウイチが、濁った左目の側へ滑り込んだ、その瞬間。
巨狼は、こちらを“見も”しなかった。欠けた三角の耳が、ぴくり、と動いた。ただ、それだけ。
次の刹那、鞭のような尾が、真横から、ソウイチの胴を打ち抜いた。
*
視界が、白く飛んだ。
背中から岩壁に叩きつけられ、肺の空気が、まるごと押し出される。口の中に、鉄の味が、じわりと広がった。ずり落ちるように、膝が地面につく。左の脇腹が、燃えるように熱い。牙の剣には、根元から、蜘蛛の巣のような亀裂が走っていた。
《肋骨、二本。ひび。呼吸は、可能です》とアイ。その声が、いつもより、わずかに、速い。《創一さん、聞いてください。あの個体は、数十年、あの目で生きています。“見えない側”は、とっくに、耳と、鼻と、風の流れで、埋めてある。――死角は、餌です。あなたを、そこへ、誘っていました》
「……老獪、ってやつか。……くそ、教科書通りに動いた俺が、馬鹿だった」
巨狼は、追い討ちを、かけなかった。
ただ、五メートル先で、ゆっくりと、こちらを見ていた。血のような右目が、値踏みするように、細められる。
――狩りを、楽しんでいる。そう、感じた。
「……上等だよ」
ソウイチは、血の混じった唾を吐いて、割れた剣を握り直した。
*
立ち上がりながら、頭だけは、猛烈な速さで回っていた。
力で勝てない。速さでも勝てない。経験では、話にならない。
なら――こっちにしか無いもので、殴るしかない。
「アイ。一つ、聞く。あの鎧、あいつが“出してる”んだよな」
《はい。この個体の体内魔力で、維持されています》
「じゃあ、あれは――“波”か!?」
《……!》
アイの声が、はじけた。
《波形として、観測可能です。周期、振幅、位相――すべて、取れます。創一さん、あなた、まさか》
「そのまさかだ!」
ソウイチは、笑った。前の世界で、満員電車の中、耳に突っ込んでいた、あの小さな道具を思い出しながら。
「ノイズキャンセリングだ! うるさい音と、ぴったり逆さまの波をぶつけて、打ち消すやつ! 同じことを、あいつの鎧にやれ!」
《理論、成立します。――ただし、全身は、無理です》アイの声が、猛烈な速さで回り始めた。《いまのわたしの演算能力で、誤差なく逆位相を維持できるのは、せいぜい、手のひら一枚分。保つのは、コンマ数秒》
「じゅうぶんだ。その一枚を、急所に開けろ。俺が、そこへ、刺す」
《――了解。位相、追尾》
ソウイチが、地を蹴った。
巨狼が、迎え撃つように、跳ぶ。牙が、月を隠した。
《――合いました。開きます》
巨狼の首元、その一点。
銀灰の毛皮の上で、目に見えない鎧が、手のひら一枚分だけ、すとん、と抜け落ちた。照準の赤い点が、そこに灯る。
「――もらっ」
だが。
空中で、巨狼の巨躯が、あり得ない角度に、ねじれた。
肋を軸に、身体を、ひとひねり。開いたはずの穴が、ずれる。ソウイチの牙の剣は、その一センチ横――びっしりと鎧のかかった肩口を、力任せに叩いた。
がきん、と。
手首から先の感覚が、消し飛んだ。牙の剣が、半ばから折れて、宙を舞う。
そのまま、爪が来た。とっさに突き出した左腕が、肘から手首まで、ざくりと裂けた。
二度目の落下。今度は、泉の浅瀬へ、背中から。
水が、大きく、跳ねた。
*
《……創一さん》
「……見えて、たのか。あいつ」
《いいえ。“見えて”は、いません》とアイ。《ですが――感じ取りました。鎧の一部が、抜け落ちた感触を。そして》
アイの声が、そこで、止まった。
巨狼が、ゆっくりと、身を起こす。
その全身から、じわり、と、何かが揺らいだ。
《……変化しました》とアイ。《鎧の波形が、いま、不規則に、揺れ始めています。周期が、一定では、なくなった。――この個体は、たったいま、学習しました。“同じ波を、二度、使ってはいけない”と》
「……嘘だろ。魔物が、学習するのか」
《だから、“主”なのだと思います》アイの声が、低くなった。《追尾、不能。逆位相を、合わせられません。――創一さん》
その声が、震えた。
ソウイチが、初めて聞く、揺れ方だった。
《撤退を、進言します。いますぐ、走れば、まだ、間に合》
「……無理だよ、アイ」
ソウイチは、水の中で、笑った。裂けた左腕から、赤い糸が、泉に溶けて広がっていく。
「あいつ、もう――俺の家、見てる」
巨狼の血のような右目は、たしかに、ソウイチの背後の、あたたかな窓の灯りを、捉えていた。
*
――消せないなら。
ソウイチの頭の芯で、かちり、と、何かが噛み合った。
前の世界の、学園祭。体育館。安物のマイクを、スピーカーに近づけすぎた、あの瞬間。耳をつんざいた、あの、悲鳴のような音。
「……アイ。逆だ」
《え》
「消すんじゃない。――“乗せろ”」
《…………》
「打ち消しは、精度が要る。ぴったり逆さまじゃなきゃ意味がないから、外される。避けられる。――でも、“同じ波を、上から重ねる”だけなら、精度なんか要らないだろ! 雑でいい! ただ――量が、要る!」
アイの演算が、爆発するように、回った。
《――ハウリング》
「そうだ! いいか、あいつは、自分の体内の魔力しか使えない。有限だ。で、俺は――」
《……無限です》
「なら、勝負にならないだろうが! あいつの鎧に、同じ波を、ありったけ乗せろ! 百倍でも、千倍でもいい! 自分の鎧で、自分を、吹っ飛ばさせろ!」
《演算、開始――理論、成立》アイの声が、跳ね上がった。《ただし、警告します。これは、魔素の量の問題では、ありません。“それだけの量を通す制御”の負荷が、わたしではなく、あなたの神経に、直接かかります。意識を保てる保証は、ありません。最悪の場合――》
「アイ」
ソウイチは、水の中から、立ち上がった。
「お前、さっき言ったよな。二割を、十割にするって」
《……はい》
「あと、何秒、要る」
《…………四秒》
「よし。稼ぐ」
ソウイチは、水を蹴って、走り出した。
まっすぐ、家とは、反対の方向へ。
「アイ! あいつを、こっちに引きずり込め! 家と畑を、絶対に、背中にさせるな!」
《――!》
逃げる獲物を、追う。それは、獣の本能だ。
巨狼が、地を割って、跳んだ。
深い森だけを背にした位置で、ソウイチは、足を止め、振り返った。
後ろには、木しかない。壊れて困るものは、何も、ない。
「――ここでいい。やれ、アイ!」
《三、二》
巨大な影が、月を塞いだ。赤黒い吐息。並んだ牙。喉の奥まで、見えた。
《一――《ハウリング》、実行》
*
世界が、鳴った。
音では、なかった。空気そのものが、悲鳴を上げたような、途方もない振動だった。
巨狼の全身を覆う、目に見えない鎧。その微かな波に――ソウイチを通って流れ込んだ、桁外れの魔素が、寸分たがわぬ同じ形で、上から重なった。
一度。二度。十度。百度。
波は、重なるたびに、膨れ上がっていく。
銀灰の毛皮が、内側から、ぶわりと押し広げられた。空中で、巨狼の輪郭が、揺らぎ、歪み、ぶれる。泉の水面が、鏡のように真っ平らに張りつめ――次の瞬間、太い水柱になって、真上へ跳ね上がった。風もないのに、周囲の木々が、いっせいに、ざあっと葉を散らす。ソウイチの足元から、地面が、放射状に、ひび割れていった。
巨狼が、初めて、吠えた。
いや――吠えたのでは、なかった。それは、悲鳴だった。数十年、この森の頂点に君臨してきた獣が、生まれて初めて上げた、怯えの声。
そして。
――ばん、と。
鎧が、割れた。
内側から、外へ。自分の魔力で編み上げた最強の防壁が、自分自身を、めちゃくちゃに打ち据えながら、四方へ吹き飛んだ。目に見えない破片が、大気を裂いて走り、背後の木々を、五本まとめて、根元からへし折る。
巨狼の巨体が、きりもみに回転しながら、地面へ叩きつけられた。
毛皮は、はじけ、めくれ、全身から、白い湯気が上がっていた。もう、鎧はない。丸裸だ。
*
ソウイチも、膝をついていた。
視界が、ちかちかと明滅する。鼻から、生あたたかいものが、垂れた。手足の感覚が、遠い。息が、うまく吸えない。
《創一さん! 意識、保ってください! 神経の伝達に、乱れが出ています!》
「……まだ、だ」
ソウイチは、四つん這いで、前へ這った。
地面に、それが落ちていた。
衝撃で根元から折れた、巨狼自身の、白い牙。指ほどの太さで、先端だけが、剃刀のように鋭い。
ソウイチは、それを、握った。
巨狼は、まだ、生きていた。痙攣する脚で、立ち上がろうと、もがいている。血のような右目が、こちらを向いた。
そこにはもう、狩りを楽しむ余裕は、なかった。
「……悪いな。うちには、守るもんが、多いんだ」
最後の力で、身体強化が、全身に灯る。
《首の付け根――照準、固定》
「――終わりだ!」
巨狼自身の牙が、その首の付け根、太い骨と骨の、わずかな継ぎ目に、根元まで、沈んだ。
巨躯が、びくん、と大きく跳ねた。
濁った左目が、ゆっくりと、こちらを向く。
そして――地響きとともに、その巨体は、横倒しに、崩れ落ちた。
*
しばらく、動けなかった。
牙を握ったまま、ソウイチは、その場に、へたりこんだ。全身が、痙攣するように震えている。汗と、血と、泉の水が、ぐちゃぐちゃに混ざって、顎から、ぽたぽたと落ちた。
「……勝った、のか」
《生体反応、停止を確認》とアイ。《――勝ちました。創一さん。あなたが、勝ちました》
「……はは。……はぁー……」
ソウイチは、仰向けに倒れ込んで、夜空を見上げた。木々の切れ間から、月が見えた。家の窓には、まだ、あたたかい灯りが、ともっていた。
――守れた。
それだけで、震えが、少しずつ、収まっていった。
《動かないでください。応急処置を、します》とアイ。《収納の薬草を、工房で、湿布に。左腕は、縫合が必要ですが、いまは圧迫止血で。肋骨は、固定します。……創一さん。三日は、走らないでください》
「……はい。すみません」
《それと、一つ、記録しました》アイは、静かに言った。《さきほどの現象。名称、未登録でしたので、あなたの言葉を、そのまま採用します。――《ハウリング》。使用条件、相手が自分の魔素を体外に展開していること。制約、あなたの神経への負荷が過大。……連発は、禁止です》
「……了解。次は、もうちょっと、優しい勝ち方を探すよ」
*
解体は、アイに任せた。
取れた魔石は、ソウイチの拳が、丸ごと入るほどの大きさだった。深い、暗い赤。持つと、じん、と手のひらが痺れる。
《推定価値、金貨数枚。……いえ、素材の希少性を考えれば、それ以上かと》とアイ。《毛皮、牙、爪。いずれも、最上級の素材です。冒険者の街に持ち込めば、それだけで、話題になるでしょう》
「……街に持ってくのは、当分やめとこう。目立ちすぎる」
《賢明です》
そして、最後に、アイが、それを収納から取り出した。
首に絡んでいた、錆びた鎖の残骸だ。肉から外され、洗われた、太い金属の輪。
「……これ、なんでこんなもんが、こいつの首に」
《人の手による、拘束具です。少なくとも、数十年前のもの》とアイ。《この個体は、かつて、人に捕らえられた。そして――逃げた、あるいは、逃がされた》
「数十年前……。この森の、深層にか。人が?」
《はい。そして、創一さん。もう一つ》
アイの声が、ふいに、硬くなった。
《この鎖の、留め具に――紋章が、刻まれています》
視界に、拡大された像が、浮かんだ。錆に埋もれ、半ば潰れた、小さな刻印。剣と、天秤と、それを囲む茨。
ソウイチは、その紋章を、知っていた。
村の教会の、鑑定の水晶を納めた台座に。追放されたあの日、屋敷の扉に。――嫌というほど、見せられてきた。
「……ヴェルダン王国の、紋章だ」
《はい》とアイ。《誰も来ないはずの、森の奥の、そのまた奥。――ですが、少なくとも一度、この国の手は、ここまで、伸びていました》
*
空が、白み始めていた。
ソウイチは、包帯だらけの身体で縁側に腰を下ろし、ぬるい薬草茶を、ゆっくりとすすっていた。折れた肋が、息をするたび、ちくりと痛む。
《創一さん。一つ、報告があります》
「ん?」
《戦闘の、開始直前。あなたが「守る」と言ってから、相手が現れるまでの、十七分間。――わたしの演算に、異常値が、出ていました》
「異常値?」
《はい。勝率二割の選択を、あなたが選んだ瞬間から、わたしの処理の一部が、ずっと、同じ計算を繰り返していました。“あなたが失われた場合”の演算です。何度、打ち切ろうとしても、勝手に、再起動していました》
ソウイチは、湯気の向こうで、目を細めた。
「……それ、たぶん」
《はい。答えは、もう、出ています。昨日の夕方、あなたが、畑に水をやりながら、教えてくれました》アイは、静かに言った。《大事にするから、心配する。そして、心配が、限界を超えると――こうなる。これが、“怖い”という状態、ですね》
「……ああ。それが、怖いだ」
《なるほど》アイは、少しの間、黙った。《では、記録します。――わたしは、昨夜、怖かった》
ソウイチは、湯呑みを置いて、笑った。少し、泣きそうな顔で。
「悪かったな。無茶して」
《いいえ》とアイ。《ただ、次からは、一つだけ、条件をつけさせてください。――あなたが「守る」と決めるのは、構いません。ですが、そのときは、必ず、わたしに、十七分ください。二割を十割にする時間を。……そうすれば、わたしは、怖くならずに、済みますから》
「……約束する。四秒は、もうやめとく」
《ぜひ》
朝日が、泉の面に、まっすぐ差し込んだ。
えぐれた地面も、へし折れた木も、そのままだ。けれど、家は、無傷だった。そして、畑の土から、小さな双葉が、ひとつ、顔を出していた。昨日まで、なかったものだ。守り抜いた土地の上に、ちゃんと、次のものが、育ち始めていた。
「……アイ。この鎖のこと、覚えとこうな」
《はい》
「誰にも見つからない場所だと思ってた。でも、そうじゃなかった。……いつか、こっちから、外に出ていく日が、来るんだろうな」
《そのときは、わたしが、全部、調べておきます》とアイ。《――ただし、今日は、寝てください。心拍も、疲労値も、限界です》
「……了解。おやすみ、アイ」
ふかふかのマットレスは、昨日と、まるで変わらない顔で、ソウイチを迎えた。
ただ、その寝床が、昨日より少しだけ、尊いものに、感じられた。
第9話、お読みいただきありがとうございました。
力でも速さでも経験でも勝てない相手に、二人が最後に持ち出したのは「打ち消す」ではなく「乗せる」でした。
そして、アイが初めて覚えた“怖い”。錆びた鎖に刻まれていた、あの紋章。誰も来ないはずの森の奥に、いつか誰かが来ていた――次回から、少しずつ外の世界が近づいてきます。
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