56 灼紅の誘いと、弱点
「うーん……期末試験の内容ってなんなんだろう」
ヴェルナと別れた後、フィリアは一人、図書室を訪れていた。
……アステリア邸で療養していた間に、学院では試験内容の説明でもあったのだろうか。
エルに聞いても、
「フィリアなら大丈夫だよ」
と、柔らかな笑顔と抱きしめられる温もりが返ってくるだけで、肝心の試験については何も教えてもらえなかった。
不安になって学院へ来てみたものの、
誰に尋ねても試験概要は分からないという。
「うーん……特待生枠から外れちゃったら、学院にいられないのに……」
深いため息とともに、数日前の出来事を思い出す。
ーー
「試験の結果が悪くても、僕が全部なんとかしてあげる。フィーは何も心配しなくていいんだよ?」
「だから……ずっとここにいて?」
不安の声が混じる懇願。
行かないで欲しいと指を絡められてしまう。
腕の火傷はすっかり綺麗に治り、
心の傷も少しずつ癒えてきている。
もう、公爵家で療養を続ける理由はない。
エルのお願いは叶えてあげたいけど、
頷くことはできなかった。
「エルがよくっても、私がよくないんです。
特待生から外れちゃったら、お母さんが心配しますし……。学院でたくさん学びたいことがありますし」
「それに、少しでもエルに迷惑をかけたくないんです」
これは私自身の問題。
もし彼が何もできないままの私で良いと言っても、
私自身が人に頼ったままの人間にはなりたくない。
少しでも、彼に相応しい私でいたい。
「ねぇ、フィー。迷惑なんて一つもないよ?
むしろ僕をもっと頼ってほしい。
僕を必要としてくれるほうが嬉しいんだ」
「フィーがそばにいてくれないと、不安なんだ……」
どうしても駄目?
そう何度も聞いてくるエルヴィン。
どうしてもお願い。
そう返し続け、ようやく彼は折れてくれた。
「僕の魔力をずっと満たしていること」
ただ、一つだけ約束を増やして。
「フィーは目を離すとすぐにどっか行っちゃうから。
お守りとして、ね」
ーー
窓ガラスにエルヴィンと同じ翠色に染まった瞳が映る。
時折胸元をくすぐる風が、
常に彼で満たされていることを教えてくれる。
ーー僕は君のそばにいるよ。
ここにはいないはずなのに、
エルヴィンとずっと一緒にいる安心感に包まれる。
大切に守られていることが、嬉しかった。
「とりあえず、期末試験の過去問がないか調べてみないと……」
館内閲覧用の棚へ移動しようとした時、
灼紅の煌めく髪が目に映る。
余裕を湛えた黄金の瞳。
古びた図書室には似つかわしくないほどの圧倒的な存在感。
「ん?お前は……こんなところで何をしている?」
獲物を見つけた獣のように口元を歪めながら、
ラグナ・ヴァルフレアが立っていた。
「……お久しぶりです、ヴァルフレア先輩。
その、期末試験の過去問を確認しようと思ってまして……」
愉しげに細められた黄金の瞳を見た瞬間、
胸の奥に嫌な予感が走る。
早く話を切り上げないと。
そう本能が告げている。
「ほぅ、一年の期末考査か……。過去問など存在せんぞ?」
ラグナは愉快そうに笑う。
まるで当たり前のことのように。
「エル坊から何も聞いていないのか?」
その言葉に、思わず足が止まってしまう。
「エルは、私なら大丈夫としか……」
ーーフィーなら大丈夫。
その言葉に、他の意味があったのだろうか?
知ってるならどうして教えてくれなかったのだろう……。
考えても答えは見つからない。
「そうか……教えて欲しいか?」
陽光を受けた黄金の瞳が、
獲物を見つけたように細められる。
正直、教えてほしい。
けれど、危険な気がする。
そう本能が警鐘を鳴らしている。
それでも。
「教えて……いただけるんですか?」
小さく息を呑み、問い返す。
「そうだな……」
「お前とは、友達だからな」
ラグナは肩をすくめるように笑った。
「友達、ですか?」
思わず聞き返してしまう。
先輩と友達なんて、いつからなったのだろう。
「忘れたのか?意外と薄情なのだな」
瞳に一瞬寂しさが映ったような気がする。
しかし次の瞬間には、いつもの不敵な笑みに戻っていた。
「もっと耳を寄せろ……」
低く響く声に促され、恐る恐る顔を寄せる。
耳元で囁く吐息がくすぐったい。
陽光を受けた灼紅の髪がさらりと揺れ、
肩に触れそうになった、その瞬間。
私の中で眠っていた風が、
埃を払うように肩を撫でる。
まるで近づくな、と言うように。
「ふっ、うるさい風だな」
苛立ちの混じる声。
ラグナが小さく鼻を鳴らす。
風は彼を牽制するように、
私の周囲を静かに巡っていた。
「一つ教えてやろう」
黄金の瞳が真っ直ぐ私を射抜く。
「お前の弱点は、人を無防備に信用しすぎることだ」
その言葉に胸が小さく震える。
「……この程度であれば、奪うことも造作もないのだが」
頬へとゆっくりと伸びる指先。
風がチリチリと音を鳴らす。
触れてしまう、その瞬間。
「僕のフィーに何をしてるんです?」
聞き慣れた声が、本棚の奥から静かに響く。
「……さぁ?」
「こいつから求めてきただけだが?」
その一言に空気が張り詰める。
「余裕のあるフリして、みっともないな」
ラグナは笑みを崩さない。
「そんなにマーキングをして、なんになる?」
余裕のある低音が響く。
「……何が言いたいのです?」
聞いたことのない冷たい声。
エルの顔が怖くて見れない。
「こいつが自分から戻ってくるのを待てない、
駄犬だと言っている」
ラグナは鼻で笑う。
「まぁ、前よりは賢くなったがな」
それだけ言うと、踵を返して歩き出す。
出口の手前で足を止めると、
振り返ることなく口を開いた。
「困ったことがあればいつでも会いにくるといい」
「その時は、瞳を翠から灰青に戻しておくんだな」
そう告げて去っていった。
◆
沈黙の時間が静かに流れていく。
「フィー……二人で何を話していたの?」
ようやく口を開いたエルヴィンの声は、
優しさの中に怒りも悲しみも混じっているように聞こえる。
……疑われてるの?
胸の奥がちくりと痛む。
こうなったのだって、
エルのせいでもあるのに。
「エルは……試験のこと知ってたのに、
どうして私には教えてくれなかったの?」
嘘を言われたの?それとも心配させないため?
何度考えても答えは出てこない。
不安と苛立ちが少しずつ増していく。
もし、わざと教えてくれなかったのだとしたら。
今にも泣きそうだ。
「違う。その、僕も試験について何も知らないんだ」
静かに首を振るエルヴィン。
「不安に感じさせてごめんね。期末試験は一人一人試験内容が違うらしいんだ……。
知ってるのは自分の弱点を突いてくる試験だって話だけ」
だから。
ちゃんと頑張ってるフィーなら大丈夫だよって。
「言葉が足りなくてごめんね。フィーがそこまで不安になっているなんて思わなくて」
申し訳なさそうに謝るエルヴィンに、
胸が締め付けられる。
そんな顔させたいわけではなかったのに。
「私こそごめんなさい。試験のことで頭がいっぱいになってて」
「なんでエルは何も教えてくれないんだろうって。
私に意地悪したのかなって、勝手に悲しくなっちゃったりして」
エルが私に意地悪なんてするわけないはずなのに。
「いいんだよ」
そっと包み込むような声が降りてくる。
「次は僕を信じて。他の誰かに頼ったりしないで……」
その優しい声を聞きながら、
フィリアは静かに目を伏せた。
エルを信じていないわけじゃない。
そんなことは、絶対にない。
それなのに。
ラグナが残した──
『お前の弱点は、人を無防備に信用しすぎることだ』
その言葉だけが、どうしても離れてくれなかった。




