50 愛の言葉と、絡みつくもの
身体が浮くような感覚と眩い光が消えた頃。
ゆっくりと目を開くと、そこは幾重もの魔法陣が描かれた旧校舎の一室だった。
振り返れば、フィリアも無事に転移している。
その姿を確認した瞬間、張り詰めていたものが少しだけ緩んだ。
「フィー……」
思わず手を伸ばしかけて、止まる。
もし拒絶されたら――。
離さないと決めたはずなのに、彼女を前にすると途端に怖くなる。
先程の怯えた瞳。
あれは攫われた恐怖ではなく、
僕に向けられたものだったのではないか。
胸の奥が冷える。
……また闇にとらわれかけていた。
理性は保てていると思っていた。
なのに彼女を失うかもしれないと思った瞬間、
彼女の気持ちも、その後のことも何ひとつ見えていなかった。
「エル……ヴィン様。その……助けてくださって、ありがとうございました」
フィリアがどこかぎこちなく微笑む。
「私は……大丈夫ですので、先に帰りますね」
そう言って立ち上がるが、その足取りは頼りない。
火傷を負った腕を押さえ、今にも崩れそうなほど震えている。
どう見ても大丈夫ではなかった。
「フィー、全然大丈夫なんかじゃないよ」
逃がしたくなくて、手を取る。
そのまま引き寄せて、強く抱きしめた。
拒まれるかもしれない。
そう思ったのに。
フィリアは抵抗することなく、そっと身体を預けてくる。
触れ合った身体から、小さな震えが伝わってきた。
「怖かったね……」
優しく髪を撫でる。
壊れ物を扱うように。
「フィーは本当に偉いよ」
その瞬間だった。
張り詰めていた糸が切れたように、
フィリアが声を上げて泣き出した。
「……すごく……すごく怖かった……っ。エルが来てくれて……よかった……。本当に……ありがとう……」
服の裾を掴む手が小刻みに震えている。
「うん」
抱きしめる腕に少しだけ力を込めた。
「フィーが無事でよかった」
心からそう思う。
「よく……頑張ったね……」
何度も、何度も髪を撫でる。
震えが落ち着くまで。
静かな部屋に、少女のしゃくり上げる声だけが静かに響いていた。
ーー
「フィー、落ち着いた?」
腕の中で、こくりと小さく頷く気配がした。
いつの間にか、泣き声は止んでいる。
「ねぇ。どうして僕を避けていたの?」
聞きたいことは山ほどある。
どこへ行っていたのか。
何を考えていたのか。
どうして何も言わずに離れようとしたのか。
それでも、一番知りたかったことだけを口にした。
フィリアは答えに迷うように視線を伏せる。
今ここで言葉を重ねたら、本音を飲み込ませてしまうかもしれない。
だから黙って待った。
彼女が自分の言葉で話してくれるのを。
しばらくして、フィリアがぽつりと呟く。
「……エルが、私のせいで傷ついていくのが怖くて」
か細い声だった。
「今さっきも、あの人は私が目的だった……。私といると、エルが危ない目に遭うのが怖いの……」
途切れ途切れに紡がれる言葉。
その一つひとつが胸に落ちていく。
――僕のためだったんだ。
その事実だけで、張り詰めていた不安がほどけていく。
「フィー」
そっと彼女の髪を撫でる。
そして、そのまま頬へ手を添えた。
泣き腫らした赤い瞳がこちらを見上げる。
「僕のことを大切に思ってくれてありがとう」
自然と笑みがこぼれた。
「すごく嬉しいよ」
フィリアの頬を優しく撫でる。
けれど。
「でもね」
その瞳を真っ直ぐ見つめる。
「フィーがどれだけ僕を避けても」
「僕が傷ついても」
「僕は何度だって追いかけるよ」
迷いはなかった。
そんなもの、とっくに決まっている。
「だって、フィーと一緒にいることが僕の幸せだから」
静かに言葉を落とす。
「だから――」
そっと額を寄せた。
「僕のことを本当に想ってくれるなら、僕の幸せを奪わないで」
フィリアの瞳が揺れる。
「お願いだから」
震えそうになる声を押さえ込む。
「僕の幸せを勝手に決めないで」
――ねぇ。
僕が望むものは、ずっと前から変わらない。
だから。
僕と一緒にいることを、君が選んで。
◆
胸の奥が熱い。
苦しいほどに。
彼が自分をここまで想ってくれている。
その事実だけで、顔がどんどん熱くなっていく。
恥ずかしい。
嬉しい。
くすぐったい。
いろんな感情が混ざり合って、うまく言葉にならない。
「ぁ……ぅ……」
声にならない声が漏れる。
彼と一緒にいていいのだろうか。
危険な目に遭うかもしれない。
だから離れようとした。
彼のためだと思っていた。
それなのに。
結局、離れられなかった。
彼も。
私も。
だって――。
「……愛してる、フィー」
蕩けるような優しい声が落ちる。
「僕とずっと一緒にいてほしい」
その言葉に胸が跳ねた。
私も。
私だって同じ気持ちなのに。
「……わ、私も……その……」
愛してる。
たったそれだけの言葉が出てこない。
彼と同じ気持ちのはずなのに。
口にした瞬間、何かが変わってしまいそうで。
恥ずかしくて。
照れくさくて。
頭の中がぐるぐるする。
「……私も?」
エルヴィンが小さく首を傾げる。
その先を聞きたいとでも言うように。
優しく微笑んだまま待っている。
そんな顔をされたら余計に言えない。
思わず両手で顔を覆った。
「……あのっ……その…………ぁぃ……して、ます……」
最後の方は、自分でも聞き取れないくらい小さな声だった。
それでも。
ちゃんと言えた……と思う。
恐る恐る指の隙間から覗く。
すると、ばっちり目が合った。
「っ……!」
逃げたい。
今すぐ逃げたい。
けれどエルヴィンは楽しそうに笑っている。
そして、そっと私の手を外した。
「今回は逃がしてあげない」
甘く囁く声。
「もう一回。僕の目を見て言って?」
翠の瞳が真っ直ぐに私を映す。
――ちゃんと気持ちを自覚して。
そう言われた気がした。
「あ……愛してます……」
顔が熱い。
恥ずかしくてたまらない。
それでも、どうにか視線を合わせる。
「あ、愛してますからっ……も、もう見つめないでください……!」
逃げようとしても、繋いだ手を離してくれない。
恥ずかしさで顔を背けながら必死に抵抗する。
初めて伝えた愛の言葉。
このまま消えてしまいたいくらい恥ずかしいのに。
目の前の彼は、信じられないほど嬉しそうで。
結局、その笑顔から逃れることはできなかった。
ーー
「だーめ。離してあげない」
思わず笑みがこぼれる。
「フィー……可愛い」
やっと聞けた。
ずっと聞きたかった言葉を。
胸の奥から幸福感が溢れ出す。
一度手を離せば、またどこかへ行ってしまいそうで。
もう離したくなかった。
両手でそっと彼女の頬を包み込む。
逃げられないように。
視線を逸らされないように。
上気した頬。
潤んだ瞳。
泣き腫らしたせいで赤くなった目元。
乱れた髪。
どんな姿でも愛おしい。
むしろ今は、その全部がたまらなく愛しかった。
指先で頬を撫でる。
そして、そのまま、優しく魔力を流し込んだ。
「ひゃっ……んっ……」
フィリアの肩がびくりと震える。
驚いたように目を見開くが、すぐに力が抜けていく。
とろんと潤んだ瞳がこちらを見上げた。
魔力共有にも、もう慣れている。
少しずつ流そうとしても、
彼女は自然と僕の魔力を求めてくる。
もっと。
もっと、と。
無意識に引き寄せるように。
その反応が嬉しかった。
安心して身を委ねてくれていることが。
僕を求めてくれていることが。
どうしようもなく愛おしい。
やがて彼女の瞳が翠に染まっていく。
僕と同じ色。
その光景を見ているだけで満たされる。
受け入れてもらえたのだと。
彼女が僕を選んでくれたのだと。
そう思えた。
――心ごと全てを支配してしまえばいい
ふいにあの男の声が蘇る。
――貴方も考えたことはおありでしょう?
脳裏で不敵な笑みが浮かぶ。
……違う。
僕は彼女を支配なんてしていない。
彼女が自分の意思で僕を選んでくれたんだ。
そうだろう?
それなのに。
胸の奥で何かが囁く。
――このまま離れなければいいのに。
――ずっと僕だけを見てくれたらいいのに。
そっと風の魔力に闇を混ぜる。
気づかれないほど僅かに。
優しく。
甘く。
……もし彼女の中に他人の魔力が入ったなら、
消してしまえばいい。
僕以外の痕跡なんて必要ない。
彼女を満たすのは僕だけでいい。
優しい彼女が傷つかないように。
誰にも汚されないように。
誰にも奪われないように。
そっと額へ口づけを落とした。
「愛してる」
囁くように告げる。
「ずっと……」
腕の中の温もりを抱きしめる。
――だから。
僕だけを愛して。




