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38 頷けない想いと、抱きしめる腕

ブラックティーの香りが、静かに部屋を満たしている。

ブラウンの家具と深い碧色のカーテンが、屋敷の落ち着きを際立たせていた。

――風のアステリア公爵家。


ここに来るのは、二度目だ。


規則正しい寝息が聞こえる。


眠る彼の穏やかな表情を見て、ほっと胸を撫で下ろす。

――それと同時に、胸の奥がじくりと痛んだ。


ノクトと出会ったあと。

倒れたエルヴィンを前に、私は何も出来なかった。


ただオロオロしているだけの私をよそに、

公爵家の人たちはすぐに馬車を手配し、彼を運び、介抱してくれた。


屋敷へ到着すると専任の医師が診察し、

すぐに魔力欠乏と判断。

魔力共有が行われ、エルヴィンの顔色はみるみる戻った。


――私に魔力さえあれば、

すぐ助けられたかもしれないのに。


「……何も出来なくて、ごめんなさい」


黒い手に絡め取られていたあの瞬間。

咄嗟に魔法を放てていたら、何か変わっていたのだろうか。


……いや、きっと変わらなかった。


圧倒的な力の差。

魔力そのものを分解する、あの力。


思い出すだけで身体が震える。


魔力量が大きいほど、魔力分解の被害も大きくなる。

――エルヴィンのように。


次、同じことが起こったら……。

そっと、エルヴィンの顔を見る。


「……器って言ってたな」


私は、ルルティアの器らしい。

彼女が身を移すまで、大切にしろと。


……再び彼はやってくる。


その事実が、怖い。


『君は器なんだね』


脳裏に、ノクトの無機質な声が何度も響く。


彼は私の瞳を見ていなかった。

私の奥に眠る、別の誰かを見ていた。


次に会う時、私はもう――

私ではなくなっているのかもしれない。


そして。

用が済んだのなら、エルヴィンは……。


胸の奥が、きゅっと痛む。


一緒にいれば、また彼を危険な目に遭わせてしまうかもしれない。


そんな暗い思考に沈みかけた時、

控えめなノックの音が響いた。


「旦那様からお話があります」


メイドが丁寧に一礼し、応接間へと案内される。


ーー


「君がフィリア・リヴァリエさんだね」


朗らかな微笑みは、どこかエルヴィンに似ていた。


「先日は、エルヴィンが魔力酔いを起こさせてしまって申し訳なかった。そして今回も、危険な目に遭わせてしまったね」


本当にすまない、と公爵は深く頭を下げた。


叱責を覚悟していたフィリアは、予想外の謝罪に慌てて首と手を振る。


「め、滅相もないです。魔力酔いは、魔力がない私に優しいエルヴィン様が魔力を注いでくれただけで……今回のことだって偶然で……」


偶然。

――けれどノクトは、確実に私を狙っていた。


「あの……私が原因かもしれなくて……」


エルヴィンが苦しむ姿が蘇り、胸が締め付けられる。

涙がにじんだ。


「君のせいではないよ」


低く穏やかな声。


「君がエルヴィンを攻撃したわけではないだろう?

むしろ君は被害者だ」


少し間を置き、公爵は続ける。


「私はね、君に感謝しきれないほど感謝しているんだ」


エルヴィンよりも青に近い翠の瞳が、真っ直ぐに向けられる。


「長い間、息子は人形のようでね。感情も関心も乏しくて……私たちなりに愛情を注いできたつもりだったが、届かなかった」


小さく苦笑する。


「だが君に出会ってから、昔のエルヴィンが戻ってきた。

今日はね、君とのデートだと聞いて屋敷中が落ち着かなかったんだよ」


だから――


「どうか自分を責めないでほしい。

息子は、君のことが大切で仕方ないんだ」


優しく微笑む。


「ただ、君の気持ちも同じくらい大切だ。

もし息子が重荷になった時は、遠慮なく言ってほしい」


嫌いになるなんて――


そう言いかけて、言葉を飲み込む。


嫌いにはならない。


でも。


彼に危険が及ぶのなら、

距離を置かなければならない。


私を守るために、

傷ついてしまう姿は見たくない。


胸の奥が静かに痛んだ。



「……フィー?」


目を開けた瞬間、胸にぽっかりと穴が開いたような感覚が走った。


見慣れた天井。

だが、隣にあるはずの温もりがない。


ベッドから飛び起き、部屋を見渡す。

――いない。


そこでようやく思い出す。


フィリアを、助けられなかった。


圧倒的だった。


カフェを出た直後。

背筋を撫でる、憎悪にも似た冷たい視線。


振り返るより早く、黒い手に捕らわれた。


背中を地面に押しつけられ、呼吸が止まる。

詠唱しようと口を開く――だが。


魔力が、流れてこない。


身体の中を巡るはずの力が、

途中で断ち切られている。


虫に食われた布のように、

ぼろぼろと崩れて消えていく。


視界だけが残された。


――まるで「見ていろ」と言われているように。


フィリアから、

自分の魔力が奪われていく。


伸ばした手は届かない。

声も出ない。

何もできない。


ただ、見ているしかなかった。


そして、闇に閉ざされた。


……フィリアは無事だろうか?


焦る気持ちと、不安と心配。

そして、助けられなかったことへの怒り。


様々な感情と頭の痛みを抱えながら、ベッドからゆっくりと降り立つ。


重い身体を引きずるようにして歩みを進めようとすると、バランスを崩して倒れてしまう。


あまりの無力感に涙が溢れそうになる。


フィリアをただの一度も守れていない。


……いやだ。


このままフィリアを奪われてしまうのは、嫌だ。


這いつくばりながらもドアへと向かうと、


「エルっ!!」


心配そうなフィリアと使用人達が駆け込んできた。


「フィー……」


元気そうで良かった。

いなくなってなくて、本当に良かった。


手を伸ばすと、ぎゅっと握り返してくれる。

柔らかいフィリアの手の感触に安心する。


身体を起こし、フィリアに抱きつく。


「また……守れなくてごめんね」


「それでも、一緒にいてくれる?」


肩に回された腕が震えている。


フィリアは頷かなかった。


「……っ」


ただ、壊れ物を守るように、強く抱きしめ返した。

お話をお読みいただきありがとうございます。

またリアクションをくれた方、ありがとうございます。

誰かに読んでもらえているとわかって、嬉しすぎて頬が緩んでおります(*´꒳`*)


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