36 闇の邂逅と、器
空を黒く染め上げたあと――
懐かしい魔力の波長を感じた。
「……ルルティア?」
ノクトは手を止め、静かに目を細める。
その出所を辿るたび、胸の奥がわずかに高鳴った。
ルルティアがいるかもしれない。
逸る気持ちのまま辿り――
「……見つけた」
そこにいたのは、ルルティアによく似た少女。
だが――。
その内側は、風の聖者エアリオの魔力残滓で醜く汚されていた。
ーー風の聖者エアリオ。
軽薄で享楽的な男。
ヒトを魔力酔いさせては、
ルルティアを困らせていた。
「ルルティアが遅いから、彼女達はこうなったんだよ」
あの男は、いつもそうやって
ルルティアの罪悪感を煽った。
色香を纏い、無遠慮に距離を詰める姿。
思い出すだけで腹立たしい。
ふと少女の隣へ視線を向ける。
風の魔力を纏う青年が、幸福そうな顔で少女を見つめていた。
――なるほど。
あれが、魔力を満たしたのか。
……私のルルティアに、触れたのか。
◆
風にほどける漆黒の長い髪。
雪のように白い肌。
そして、すべてを呑み込むような――静謐な闇を宿した、紅黒曜の双眸。
「……っ」
見てはいけない。
本能が最大級の警鐘を鳴らしているのに、視線は絡め取られたように動かない。
黒い雪が、音もなく絶望のように降り積もる。
「フィー……逃げ……て……」
エルヴィンの掠れた声に、正気を取り戻す。
彼は黒い手に絡め取られ、地に伏していた。
「エルっ!?」
駆け寄ろうとした瞬間――
「……っ!」
冷たい手が腕を引いた。
「ルルティア。いつも言っただろう?
魔力を受け止めすぎると苦しくなるって」
「いけないな。こんな汚い魔力を奥まで溜め込んで」
耳元で囁かれる、感情の欠落した声。
紅黒曜の瞳からは何も読み取れない。
だけど。
身体に溜まったエルヴィンの魔力を不快に思っていることだけは、はっきりとわかる。
「……離して!」
必死に振り解こうとするが、腕は空間に固定されたようにびくともしない。
エルヴィンが苦しそうに喘いでいる。
「エルっ……エルっ!」
このままでは彼が死んでしまう。
必死になってエルヴィンに手を伸ばす。
そのとき。
「どうして、私を見てくれないのかな?」
背後から落ちた声に、全身が凍りつく。
心臓が激しく脈打ち、振り向いたら最後、
永遠の闇に閉じ込められる予感に身体が震える。
「ねぇ、ティア……こっちを向いて」
……どうにかしないと。
震える手で、密かに風の魔法陣を構築する。
今ならまだ離れられるかもしれない。
「……ルルティア?」
「私は……フィリアですっ!」
叫びとともに魔法陣を起動させる。
だが――。
魔法陣は光ったまま、沈黙した。
どうして発動しないの!?
白く細い手が魔法陣に触れると、
それは光を失い、脆く崩れ去った。
「そうだね。私のルルティアは、こんな悪いことをしない」
ふっと、慈しむように笑った。
「この魔力が悪いことを教えたのかな?」
空気が凍る。
先程より冷たく、息が吸えない。
捕まれた手から、漆黒の粒子が侵入してくる。
「あぁ、本当にいけない子だ。
こんな濁った魔力で中を汚して」
「……大丈夫だよ。跡形もなく綺麗に掃除してあげるから」
身体の隅々が、泡立つように沸き立つ。
優しい風の魔力が絡めとられて、消えていく。
エルヴィンとの大切な思い出、
指先を舐めとられた時の熱、
あの甘い「好き」という言葉……。
それらが一つずつ黒く塗り潰されていく。
身体の中に空白が増えていく。
「……やめて……っ、お願い……!」
灰青の瞳から涙が零れる。
満たされていたはずの幸福が、
指の隙間からこぼれ落ちる砂のように消えていく。
「あなたは……誰なんですか」
どうして、こんなことをするの?
「ノクトだよ。忘れてしまった?」
紅黒曜の瞳が、悲しげに揺れた。
その響きには、拒絶された子供のような純粋な絶望が混じっていた。
「……ノクト」
どこかで聞いた名前。
夢の中で、ルルティアを待っていると言っていた少年。
漆黒の髪に、吸い込まれるような紅い瞳。
あの時よりも成長しているが、間違いない。
彼だ。
「やはりルルティアと違うのかな?」
「……少し覗かせてもらうね」
視界が闇に塗りつぶされる。
生まれてからのすべてを、冷たい指先でかき回されるような不快感。
やがて手が離れ、光が戻る。
「なるほど。君は器なんだね」
ノクトは、壊れ物を扱うような手つきでフィリアの頭を撫でた。
「ルルティアが身を移すまで、その身体を大切にして」
「君の泣き顔は見たくないから、お友達は助けてあげるよ」
嵐が去るように、彼は雪の中に溶けていった。
そして、二人が残された。
「……エル?」
呼びかけると、エルヴィンはゆっくりと目を開いた。
その瞳が一瞬、深い夜の色に沈んだ気がした。
◆
――器があるなら、ルルティアは存在する。
世界を壊すのは、それからでいい。
空を見上げ、苦々しく呟く。
「空から魔力を降らせるなんて、ルクシオンらしい」
自らを調停者と名乗り、聖者を管理する側に立った男。
その在り方が、どうにも気に入らなかった。
まるで――
ルルティアを側に置くのが当然であるかのような、その態度が。
「……それとも、ルルティアは空にいるのか」
黒い雪は、いつの間にか白へと変わっていた。
まだ本来の力を取り戻していないとはいえ、
ルクシオンの魔力残滓に浄化されるとは。
――もう少し様子を見よう。
次は。
ルルティアを、確実に手に入れるために。




