35 溢れる魔力と、甘い口づけ
トリュフチョコを指先でそっとつまみ、
ゆっくりとエルヴィンの口元へ運んでいく。
緊張で指が震える。
落とさないよう少し力を込めると、
今度はトリュフが儚く崩れてしまいそうで。
思わずチョコから視線を外し、エルヴィンを見ると――
手から受け取ってくれる様子もなく、
ただ微笑んでこちらを見つめていた。
じっと見つめられて、恥ずかしい。
部屋が暑いのか、
それとも自分が熱いのか。
指先から頬まで熱が広がり、どうしようもなくなる。
「エルヴィン様、口を開けてください」
口元まで運んだのに、
彼はイタズラな笑みを浮かべたまま動かない。
「もう!口を開けてくれないと、食べられないですよっ!」
震える指。上気した頬。潤んだ瞳。
そんなフィリアの様子を見て、
エルヴィンの瞳が愉しげに細められる。
「あーん、って言って?」
――っ!!
声にならない声が喉で止まる。
ただでさえ恥ずかしくて死にそうなのに、
これ以上、何をさせるつもりなの。
「ほら、チョコ溶けちゃうよ?」
「わ、わかりました……!」
むぅっと頬を膨らませながら、覚悟を決める。
「エルヴィン様……あーん」
そう言って差し出すが、
エルヴィンは首を横に振った。
やり方を間違えた?
“あーん”にやり方なんてあるの……?
困惑していると、
「ねぇ、フィー……」
突然の愛称に、心臓が跳ねる。
「エルって、呼んで?」
切なさの混じる声。
翠の瞳がまっすぐこちらを見ていた。
「えっと、あの……」
視線を逸らそうとすると、
「だめ。逃げないで……」
腕を引かれ、そのまま抱き寄せられる。
気づけば膝の上に座らされていた。
顔が、とても近い。
「“エル”って二文字言うだけ。簡単でしょ?」
言うまできっと離してくれない。
チョコを持って固まったままのフィリアに、
彼は甘く囁く。
「呼んでくれるまで、このままでいようかな?」
「店員さん、来ちゃうかも」
意地悪く笑う声に、顔が一気に熱くなる。
「困っちゃうね? じゃあ、エから始めてみよう?」
唇にそっと指が触れる。
「ぇ……る」
小さな声が零れた瞬間、
「よくできたね」
囁きながら、エルヴィンが頬を寄せる。
彼の肌の熱が、じかに伝わる。
さらりと流れる銀髪が、フィリアの首筋をくすぐった。
そのまま熱を分け合うように、ゆっくりと頬をすり寄せてくる。
何度も、深く、愛おしむように。
そして――
はむっ。
チョコを、フィリアの指先ごと口に含む。
「……美味しい」
蕩けるような声が、耳元で響いた。
「ここにもついてる」
ちゅっ、と小さく湿った音が密室に落ちる。
上目遣いでフィリアを見つめながら、
舌先が指の輪郭をなぞり、溶けたチョコを丁寧に舐め取っていく。
あたたかく柔らかな感触に、
くすぐったさと甘さが混ざり合い、
思わずエルヴィンの服をきゅっと握りしめてしまう。
「フィー……」
「好きだよ」
誰にも渡したくない。
このままずっと抱きしめていたい。
フィリアといると、心地がいい。
自分が、自分でいられる。
僕のために選んでくれたお揃いのラペルピン。
僕を想って作ってくれたトリュフチョコ。
恥ずかしがる姿も、怒る姿も、すべてが愛おしい。
好きだという想いが、溢れて止まらない。
最初は、ほんの少しの興味だった。
それが同情に変わり、
お気に入りを傷つけられて怒り、やがて独占欲になった。
君から求めてほしいと思いながら、
僕はずっと、一方的に想いを満たしていた。
気づけば――
彼女なしでは、いられなくなっていた。
「ねぇ……僕のこと好き?」
闇に染まる前、怖くて聞けなかった言葉。
もちろん、どんな答えでも離す気なんてない。
選んでくれるまで、愛を囁き続ける。
あの時とは違う。
もう、怖くない。
ーー
離したくないと言うように、
ぎゅっと抱きしめられる。
狂おしいほどに愛されているのがわかる。
それが、とても嬉しい。
そして――
彼を失うことへの恐ろしさも、
彼の魔力をもっと満たしてほしいと思う気持ちも……。
もう、疑いようがなかった。
言葉にしてしまえば、何かが変わってしまうかもしれない。
それでも。
この気持ちは、きっと本物で。
彼の愛に応えないままでは、いられない。
「好き……です……」
小さな声だった。
けれど、確かに届いた。
一瞬、時間が止まったように静まり返る。
次の瞬間――
抱きしめる腕の力が、さらに強くなる。
「……フィー」
震えた声が耳元でこぼれた。
「嬉しい……すごく、嬉しい」
額が触れるほど近づき、
翠の瞳がまっすぐフィリアを見つめる。
「ねぇ……やり直しさせて?」
返事をする前に、唇が触れた。
ホワイトチョコレートの甘さと、
オレンジキュラソーのほろ苦い余韻が優しく広がる。
あの時と違う、やさしく触れるだけの口づけ。
けれど触れた瞬間――
体の奥が、じんわりと熱を帯びていく。
「……っ」
フィリアの肩がびくりと震える。
触れた場所から、柔らかな風の魔力が流れ込んできた。
「約束したでしょ?」
「たくさん満たしてあげる」
愛おしげな瞳が、優しく見つめてくる。
呼吸をするように自然に、
エルヴィンの魔力がフィリアへ流れ込んでいく。
「んんっ……」
身体が自然に求めているのがわかる。
魔力が、身体の隅々まで行き渡る。
深く、奥深くへと吸い込まれていく。
とぷん、とぷんと満たされていく感覚が心地よい。
灰青の瞳が、エルヴィンと同じ翠へと深く染まっていく。
頭がぽうっと熱くなる。
身体がふわふわと軽い。
気持ちよさと「好き」という感情が、
とめどなく溢れてくる。
「ん……すき」
自然に言葉がこぼれた。
止めようとしても、止まらない。
魔力が身体から溢れ出しているのに――
魔力が空になっていたクローバーの指輪さえ、
溢れた魔力によって満たされていく。
「……エル、溢れてるの」
「……お願い、止めて」
そう伝えると、エルヴィンは嬉しそうで、恥ずかしそうで、
それでいて困ったような複雑な表情を浮かべた。
「僕は、もう流していないよ?」
その言葉に、一気に酔いが覚める。
顔が青ざめていく。
――まさか。
自分から、ずっと魔力を吸っていたの?
あまりの恥ずかしさに、両手で顔を隠した。
……穴があったら入りたい。
……地中深くに埋めてほしい。
今受け取った魔力があれば、
百年くらい地の底に自分を封印できるかもしれない。
そんなふうに悶えていると、
「フィーがとても可愛かっただけだから、大丈夫だよ」
落ち着かせるように、頭を撫でてくれる。
何も大丈夫ではない。
「でも、このままだと危ないから、少し僕に魔力を流して?」
優しい声が、そっと響く。
顔を隠していた片手を、恐る恐る開く。
エルヴィンが微笑みながら見つめている。
恥ずかしさにもう一度顔を隠そうとすると、
その手を取られ、彼の頬へと導かれた。
「フィー、僕に魔力を流して?」
少しイタズラな表情。
自分だけが痴態を晒したことに、むっとする。
(エルも酔っ払って、猫エルヴィンになっちゃえばいいんだ!)
拗ねたまま――
フィリアはエルヴィンへ、一気に魔力を流し始めた。
ーー
突然身体へ流れ込んできた魔力の波に、
エルヴィンの身体がびくりと震える。
いつもは、もっとゆっくり優しく流してくれるのに。
フィリアをちらりと見ると、
普段は見せない、いたずらな表情を浮かべていた。
桃の濃厚な香りとともに、
甘さが口いっぱいに広がる。
じゅわりと溢れるのは果汁なのか、
それとも自分の唾なのか――
口の中を満たす潤いが、瑞々しさをいっそう際立たせた。
甘さと心地よさが一気に押し寄せ、
思わず身体から力が抜けそうになる。
「フィー、こらっ……」
慌てて頬から手を離す。
けれど、繋いだ手から流れ込む心地よい魔力の奔流は途切れない。
焦るエルヴィンの様子がおかしくて、
フィリアはくすくすと笑い出した。
「フィー……?」
名前を呼ばれ、上機嫌のまま顔を上げる。
すると――
「……あとで、おしおきね?」
目だけが笑っていないエルヴィンが、そこにいた。
◆
「またのお越しをお待ちしております」
店員に見送られ、店の外へ出る。
扉をくぐった瞬間、白い息がこぼれた。
ひやりとした空気に、気温が一段下がった気がする。
まだ昼過ぎのはずなのに、
通りには人影がなく、妙な静けさが満ちていた。
ふと空を見上げる。
黒い雲が空一面を覆い、
ひらひらと、ゆっくり舞い落ちてくる雪は――
黒かった。
胸の奥がざわりと波立つ。
何かがおかしい。
周囲を見回したとき、遠くにひとつの人影が見えた。
風にほどける漆黒の長い髪。
雪のように白い肌。
そして、吸い寄せられるような紅い瞳。
その視線がこちらを向いた瞬間、息をすることさえ忘れる。
美しい。
けれど――近づいてはいけないと本能が告げていた。
触れれば壊れてしまいそうなのに、
同時に、すべてを壊してしまいそうな危うさを纏っている。
「……誰?」
彼はただ静かに立っているだけなのに、
世界の色が、ゆっくりと夜に塗り替えられていくようだった。




