33 幸せな時間と、黒い雪
はぁ……。
白い吐息が、冬の空に溶けていく。
——落ち着かない。
エルヴィンは黒革手袋を外してはめ直すのを繰り返していた。
(この格好、フィリアに気に入ってもらえるだろうか……)
アイボリーのハイネックニットに、深緑のロングコート。
上品で落ち着いた装い。
使用人達が「これが一番お似合いです」と満場一致で選んだ一着だ。
——それでも、落ち着かない。
コートの裾や袖口に不自然なところがないかと、何度も視線を落とす。
(……早くフィリアに会いたい)
胸の奥が、静かにざわめいていた。
ーー
「ぼっちゃま、今なんとおっしゃいましたか?」
“デート”と伝えた瞬間、屋敷内が一斉に騒がしくなったのを思い出す。
寮には制服と軽い外出用の服しかない。
家にあるもので十分だろうと公爵家に戻った途端——
「それではいけません、ぼっちゃま!」
急ぎ仕立て屋が呼ばれ、その場で即席のファッションショーが始まってしまった。
「お相手の方はどんな方でしょう? お洋服を合わせて贈らせていただいてもよろしいでしょうか?」
「誕生日に合わせて、パーティーを開かれてはいかがでしょう?」
フィリアのドレス姿を想像し、それも悪くないと思う。
しかし。
使用人達があまりにも生き生きとしており、今にもフィリアの元へ押しかけそうな勢いだったため、やんわりと断った。
「前日は公爵家にお泊まりくださいませ。外出までに全て整えておきます」
ずらりと並んだ使用人達の目が、きらきらと輝いていた。
——完全にやる気だ。
これは前日は寮に戻れないな、と苦笑する。
観念してそのまま公爵家に泊まり、
前日から朝にかけて入念に準備を施されたのだった。
ーー
いつものシダーウッドの香りが、ふわりと漂う。
フィリアが「安心する」と言った香り。
香水など気にかけたことはなかった。
けれど、彼女の一言でお気に入りになった。
フィリアはどんな服で来るのだろう。
髪型は?
化粧は?
様々な姿を思い浮かべては、ひとり頬を熱くする。
そのとき、ひやりとした感触が頬に触れた。
ちらり、と濁りのない粉雪が舞い始めている。
(フィリアは無事に来られるだろうか)
わかりやすい待ち合わせ場所として噴水広場を選んだが、間違いだったのではないか。
女子寮まで迎えに行くべきでは——
そう一歩踏み出した、その瞬間。
——脳裏に、あの緋色の瞳がよぎった。
◆
「いい? 何があろうと絶対に女子寮前に来ちゃダメよ!」
フィリアからデートの話を聞いたヴェルナが、真っ先に釘を刺しに来た日のことだ。
「フィリアとデートなんて出来ずに、女の子に囲まれて終わるだけなんだから」
学院では最近、フィリアとヴェルナと共にいるエルヴィンの姿をよく見かけるようになった。
それはつまり——
女生徒たちにとって、接触の“隙”ができたということ。
これまでエルヴィンは、常にレオニスと共にいた。
近寄りがたい、公爵家の跡継ぎ。
誰にでも優しいが、決して手の届かない存在。
――“みんなの春風の君”。
けれど今は違う。
最近のエルヴィンは、感情のこもった柔らかな笑顔を見せるようになった。
周囲はそれを「近づきやすくなった」と勘違いしている。
その笑顔が向けられているのは、フィリアだけなのに。
——誰も、それに気付いていない。
傍から見れば、隣にいるのは優秀とはいえ平民の少女。
婚約者でも、恋人でもない。
ヴェルナが一緒にいる時は、侯爵令嬢として睨みを利かせられる。
けれど——常に守れるわけではない。
「だからこそ、迎えに行った方がいいのではないか?」
と問うエルヴィンに、ヴェルナは一歩踏み込んだ。
「あなた、自分の顔と立場を本当に理解してる?」
深いため息。
そして次の瞬間、
緋色の瞳が鋭く細められる。
「フィリアを傷つけたら、許さないんだからね!」
それだけ言い捨てて、嵐のように去っていった。
◆
ヴェルナの言葉を思い出し、エルヴィンは小さく息を吐く。
——自分の顔と立場を理解しているか。
もちろん理解している。
嫌というほど。
公爵家の跡継ぎ。
周囲の思惑。
婚約話。政略。視線。噂。
そしてーー
フィリアは、それらから何一つ守られていない。
まだ、“お友達”以上の何の関係も持っていないのだから。
自分が近づくことで危険に晒すかもしれない。
(……それでも)
胸の奥で、静かに熱が灯る。
諦めるという選択肢だけは、最初から存在しなかった。
ーー
ちらり、と時計を見る。
針は、約束の時刻を指していた。
胸の奥が、不安と焦りで苦しくなる。
——遅れるような人じゃない。
嫌というほど知っている。
だからこそ、余計に不安が膨らむ。
(何かあったのでは……)
雪はまだ、細かく静かに降り続いている。
冷たい空気が、胸の内側まで冷やしていくようだった。
その時。
視界の端に、やわらかな色が揺れた。
思わず顔を上げた。
遠くから、こちらへ向かってくる人影。
ミルクティーベージュのロングコート。
冬の淡い景色の中で、そこだけ春の色が滲んだようだった。
少し息を弾ませ、不安そうに周囲を見回しながら、早足でこちらへ向かってくる。
制服ではない、初めて見る私服姿。
けれど——
一瞬でわかった。
(……フィリアだ)
胸の奥が、強く跳ねる。
思考より先に、そう確信していた。
やがて彼女の視線がこちらを捉える。
ぱっと、表情が明るくなる。
その可愛らしい笑顔に、胸が締め付けられる。
「エルヴィン様……!」
小さく名を呼び、フィリアが小走りになる。
雪の上を、慌てて駆け寄ってくる。
——危ない。
そう思った瞬間には、もう遅かった。
つるり、と足が滑る。
「きゃっ——」
前のめりに崩れ落ちる身体。
反射的に腕を伸ばし、ぎゅっと抱き寄せる。
ふわり、と甘い桃の香り。
腕の中で小さく震える身体。
「……大丈夫?」
息が触れそうな距離で、低く囁く。
「あ、ありがとうございます……」
腕の中で、フィリアが慌てて顔を上げる。
体を離そうとして——
はっとしたように目を見開いた。
「エルヴィン様、手……!すごく、冷たい……」
彼の手に触れた瞬間、驚いた声がこぼれた。
「すみません、私のせいで待たせてしまって……」
申し訳なさそうに眉を下げながら、フィリアはそっと彼の両手を包み込む。
小さな手のひらが、ぎゅっと重なる。
「少しでも、温かくなりますように……」
吐息が白くこぼれ、指先にかかる。
その温もりが、じんわりと染み込んでくる。
エルヴィンは一瞬、言葉を失った。
(……温かい)
冷えた手ではなく、胸の奥が。
嬉しさが、静かに満ちていく。
けれど同時に、別の感情が胸をよぎる。
雪の中、薄手の手袋もしていない彼女の指先。
ほんのり赤くなっている頬。
「……フィリア」
そっと名前を呼ぶ。
「君が風邪を引いてしまう」
名残惜しさを押し隠し、やわらかく手を引いた。
「近くに温かい飲み物を出してくれる店があるんだ。行こう?」
自然に差し出された腕。
まるで最初からそうする予定だったかのように、穏やかな声音で続ける。
「今日は、ゆっくり過ごそう?」
その言葉に、フィリアの頬がふわりと赤く染まった。
差し出された腕に、少しだけ戸惑いながら手を添える。
雪は静かに降り続け、街の音をやわらかく包み込んでいた。
並んで歩き出す二人の背を、白い世界が静かに飲み込んでいく。
――まるで、このひとときだけが世界から切り離されたかのように。
◆
冷たい風の中、低く呟く。
「ルルティア……どこにいるんだ」
かつて、彼女と共に過ごした丘。
そこには今、白亜の大理石に覆われた建物が建っていた。
木漏れ日が揺れていたあの大樹は、もうどこにもない。
代わりに建物の壁には、五聖者を象った彫刻。
ところどころに施された金の装飾が、静謐でありながらどこか誇示するように輝いている。
「どこまでも忌々しい……」
五聖者に祈りを捧げる人々。
街の至る所から漂う、薄く残った魔力の残滓。
だが——
五聖者そのものの気配は、どこにもない。
(ヒトに全てを託して消えたのか……)
(ルルティアは、循環できなくなったのか)
探っても、探っても、見つからない。
循環は歪み、不完全で不安定な世界。
闇を受け入れられず、盲目的に覆い隠し続ける世界。
時が経っても、本質は何一つ変わらない。
ヒトの醜さだけが、膨れ上がっていく。
そして——
ルルティアのいない世界。
胸の奥に、ぽっかりと穴が空いたような虚無が広がる。
「この世界に……何の意味がある?」
指先から、黒が滲んだ。
感情に呼応するように、静かに、ゆっくりと。
闇が溢れ出す。
「あの時、すべて包んでしまえばよかった」
そうすれば――彼女と離れることなどなかったのに。
黒が、空へと滲んでいく。
夜でも雲でもない。
光そのものを侵食するような、深い闇。
黒い雪がふわりと舞い落ちる。
街の誰も、まだ気付かない。
笑い声も、灯りも、変わらず続いている。
けれど確かに――
空は、静かに染まり始めていた。




