26 星光と灼紅と、奪われゆくもの
開かれた医務室の扉の向こう。
黒い風を纏い、銀の髪を揺らしながら――
恍惚とした笑みを浮かべた青年が、ゆっくりと歩み入る。
エルヴィン・アステリア。
風の公爵家嫡男。
……前に会った時とは、別人のようだ。
闇を優雅に纏うその姿は、もはや春風の君ではない。
さながら――闇の王。
「フィリア……見つけた……」
視界に入っているはずなのに、
ダリウスを一切見ていない。
ただフィリアだけを、慈しむように見つめ、微笑んでいる。
エルヴィンが一歩踏み出したその瞬間。
「エルヴィン・アステリア君だね。何をしに来た?」
抜刀の構えを崩さず、ダリウスが静かに問う。
エルヴィンの視線が、すっと移る。
鋭い殺気。
だが次の瞬間には、柔らかな笑みへと変わっていた。
「これは……ダリウス・グランディス様ではありませんか。フィリアを介抱していただいたようで、ありがとうございます」
一礼すら優雅だった。
「ここからは、僕が面倒を見ますので――席を外していただけますか?」
微笑みは崩れない。
だが、その奥にあるものは明確だった。
それ以外の選択肢は許さない――そう告げていた。
「正気でない者に、預けるわけにはいかないな」
ダリウスは一歩も引かない。
空気が、軋む。
「……一つ聞こう」
静かに言葉を落とす。
「フィーの首筋――貴方がつけたものか?」
これは甘く愛し合った印でない。
一方的に、己が所有を深く刻むような暴力的な印。
その答え次第では――
柄を握る手に、力がこもる。
……フィー?
エルヴィンの瞳が、わずかに細まる。
(愛称で呼ぶ、だと……?)
観察する。
だが、身につけた物から彼女との繋がりは感じられない。
ならば――
優位は、こちらだ。
触れた回数も。刻んだ証も。
そして、フィリアが想っているのも。
すべて――自分が上だ。
エルヴィンは笑みを浮かべながら答える。
「ここは学校です」
穏やかな声音で、しかし愉悦を滲ませて告げる。
「自分のものに名前を書くのは、当然でしょう?」
「貴方のような“悪い虫”が間違えないように……」
「どの口が……!」
ダリウスの覇気が、空間を震わせる。
「人を傷つける者に、フィーは渡さぬ!」
圧が一気に解き放たれた。
「フィーと呼ぶな!」
低く、冷たい声。
その瞬間――
空気が、さらに暗く沈む。
「うぅ……」
フィリアが苦しげに眉を寄せる。
先に動いたのはダリウスだった。
「フィー!」
即座にフィリアを包む結界を展開する。
まるで、ガラスの棺に守られた姫のように。
「フィリア!」
駆け寄ろうとするエルヴィン。
だが――
ダリウスの一閃。
ギィンッ!!
すんでのところで躱し、後方へ跳ぶ。
睨み合い。
張り詰める沈黙。
――その均衡を、光が断ち切った。
閃光が、室内を白く塗り潰す。
「お姫様を守るのは――王子の役目でしょ?」
軽やかな声。
レオニスが、光を纏いながら降り立つ。
舞い散る光粒の中、金の髪が煌めく。
その穏やかな表情の奥に、わずかな憂いが滲んでいた。
「エルヴィン……少し、頭を冷やそう?」
――弾ける光。
反応すら許さない速度で、額を打つ。
「……っ!」
鈍い衝撃に、エルヴィンがのけぞる。
視界を取り戻した時には――
誰も、いなかった。
「………なっ」
あまりのことで声が出ない。
――フィリアが奪われた。
突然のことで頭が真っ白になる。
……人を消す魔法?
まさか、そんなものがあるはずない。
……落ち着け、まだ近くにいるはずだ。
深く息を吸う。
まだ、繋がりはある。
微かに残る、フィリアの魔力。
それを辿る。
自身とは離れた位置にある魔力の微かな塊が、
少しずつ遠のいていくのを感じる。
――見つけた。
フィリアをどこに連れていくつもりだ。
「レオニス……」
想い人を奪われた。
信頼していた者に裏切られた。
ただ、彼女と共にいたかっただけなのに。
悲しみ、焦燥感、怒り、
様々な感情が入り混じりながらも、
フィリアの残滓を追いかけた。
この繋がりまで無くなってしまったら、もう……。
残滓を追い、駆ける。
◆
やがて――中庭。
灼紅に輝く髪が、一瞬、視界をかすめた。
同時に。
火の柱が上がる。
「っ!!」
後方へ飛び、辛うじて回避する。
「ほぅ、いい反射神経だ」
すっと現れたのは、ニヤリと笑っているラグナだった。
「急いでいるんです。どいてください」
間髪入れずにラグナの周囲に真空のドームを展開する。
――ヴォイド・テンペスト。
三つ首の炎龍とラグナを倒した、あの一撃。
――捉えた!
勝利を確信した、その瞬間。
「甘いわっ!」
足元に、炎が灯る。
鼓動のように、脈打つ。
「イグニス・ドミニオン」
――爆ぜた。
膨張する熱が空間を侵食し、
閉じられた風が悲鳴を上げる。
「ただの真空だと?……笑わせる」
ラグナの黄金の瞳が、嘲笑うように細められた。
ドームが、内側からひび割れる。
「この程度の“空間”――」
炎が、全てを塗り潰す。
「私の炎で満たせばいい」
――バキンッ!!
砕け散る、ヴォイド・テンペスト。
舞い散る風の欠片は、ラグナの熱に灼かれ、
赤く染まりながら火の粉となって消えていく。
揺らめく炎の中、ラグナは悠然と笑った。
「二度も同じ技は喰らわん」
そして――
「やるなら全力でかかってこい」
傲岸不遜な声が、熱波とともに叩きつけられる。
舞い散る火の粉が、エルヴィンの視界を赤く染めた。
――その時だった。
指先にかろうじて繋いでいた、
フィリアの微かな魔力の残滓が。
ぷつりと、音もなく消えた。
レオニスの光による遮断か――それとも。
その瞬間。
エルヴィンの世界から、色が消えた。
ただ一つ、
彼を現世に繋ぎ止めていた甘い「桃の残り香」さえも、
跡形もなく消え去った。
翡翠の瞳が、ゆっくりと濁る。
理性が――音を立てて、崩れ落ちた。
「……どいつもこいつも」
低く、温度のない声。
研究対象として見る者。
価値でしか測らぬ者。
王家の道具にしようとする者。
今更、守る側を気取る者。
そして――
守れなかった、自分。
「……うんざりだ」
足元から、どろりと黒が滲む。
それは影ではない。
意志を持った「呪い」だった。
銀の髪が逆立ち、
肌には黒い紋様が浮かび上がる。
「返せ」
静かに、だが絶対的に。
世界の理すら捻じ曲げるような圧。
「僕のフィリアを……返せッ!!」
背後で、黒き翼のような魔力が噴き上がる。
――その瞬間。
ラグナの黄金の瞳が、
初めて、明確な驚愕に見開かれたのだった。




