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25 堕ちた黒き風と、守るべき者

8歳の頃、属性検査を受けた。


魔導機に触れると、鮮やかな緑光が輝いた。

その魔力量の多さに、公爵家の一員として認められたのだと、胸が高鳴った。


だが――


風を示す緑の魔石の隣で、

黒い魔石もまた、同じように瞬いていた。


父はそれを確認すると、すぐに検査を打ち切った。


――まさか、二属性適性?


期待を込めて見上げると、父は優しく微笑んだ。


「エルヴィンは風属性適性だよ。それも素晴らしい魔力だ。

もう一つの光は、魔導機が正常に作動しているのを示す灯りだよ」


そう言って、頭を撫でてくれた。


その後、母は体調を崩し、実家へ療養に戻り、

――いつの間にか離縁していた。


あの頃は気づかなかった。

いや、気づこうとしなかっただけかもしれない。


だが、今は違う。


周囲を満たす黒い風が、ひどく心地いい。


思うがままに、あるがままに振る舞える。

それが、こんなにも自由だなんて。


先ほどはフィリアを驚かせて、泣かせてしまった。


……次は、もっと丁寧に。


逃げ出さないように、ゆっくりと染め上げていこう。


ああ――楽しみだ。


エルヴィンはフィリアの残滓を辿って、静かに歩き出した。



◆


魔力の霧が濃い。


先ほどまで、このような現象はなかったはずだ。


ダリウス・グランディスは眉をひそめ、巡回を続ける。


黒い風――

闇の門から漏れ出す魔力に似ている。


だが、これは瘴気というより……


欲望を刺激する、精神干渉系の魔法に近い。


「学院の結界に異常はないはずだが……」


となれば、内部からか。


黒い魔力の濃い方へと足を向けた、その時――


人影が、地に伏していた。


「君、大丈夫か!」


駆け寄り、抱き起こした。


それは見覚えのある顔だった。


フィリア・リヴァリエ。


先の魔獣討伐の際、被害に遭った少女。


「……ん」


かすかな反応に、胸を撫で下ろした。


意識はある。だが、このままにはしておけない。


医務室へ運ぼうとした、その時。


さらりと揺れた髪の奥に、小さなほくろが見えた。


――「ここのホクロ。ピアスを開けるのに丁度いい目印みたいでしょ?」


屈託なく笑う少女の記憶がよぎる。


「フィー……」


フィリア。


そうか、君は――あの時の。


懐かしさが胸をよぎる。


だが、その視線がふと止まった。


首筋に貼られた絆創膏。


……なぜ、こんな場所に。


小さな違和感が胸に残る。


ダリウスはわずかに眉をひそめながらも、歩を速めた。


◆


医務室に入ると、クラウス教諭が珍しく慌てていた。


「クラウス教諭――」


声をかけるより早く、


「ベッドは自由に使ってください。

少し魔力に当てられただけでしょう。すぐ落ち着きます」


早口でそう言い残し、


「では」


と、そのまま足早に出ていってしまう。


……妙だな。


一瞬そう思ったが、今はそれどころではない。


ダリウスはフィリアをそっとベッドへ寝かせ、

傍らの椅子に腰を下ろした。


「ふむ……」


状況を整理する。


結界に異常はない。

だが、この濃い魔力の霧。


原因を探る必要がある。


しかし――


このまま彼女を一人にするわけにもいかない。


「どうしたものか……」


立ち上がっては数歩歩き、また戻る。


時計を何度見ても、ほとんど進んでいない。


落ち着かない。


やがて観念したように息を吐き、再び椅子に腰を下ろす。


フィリアの隣に座り、じっと様子を窺う。

時折、苦しげに表情を歪めている。


そっと、その手を取った。


「昔と反対だな……」


あの時は、俺が倒れて。


お前が、こうして手を握ってくれていた。


ダリウスは意識を失ったフィリアの顔を見つめる。

青白い肌、弱々しい吐息。


かつて療養先で出会ったあの頃、死の淵にいた自分を救ってくれたのは、彼女の不思議な力と温かな手だった。


「……君に救われた命を、今度は君のような人を守るために使うと決めたんだ」


幼い日の誓いを、胸の奥でなぞる。


乱れた髪に触れようとした、その時。


指先が、首筋の絆創膏に触れた。


……なぜ、こんな場所に。


嫌な予感が、静かに胸を締めつける。


そっと端を剥がす。


――そこにあったのは、


赤紫に残る、生々しい痕。


一瞬、思考が止まった。


これは――


事故ではない。


無意識のうちに、指先に力が入る。


胸の奥で、何かが音を立てて崩れた。


(……誰が、こんなことを)


静かに、だが確かに怒りが燃え上がる。


彼女は――


こんな風に傷つけられていい存在ではない。


「……許さない」


低く、押し殺した声が漏れる。


その瞳に、これまでにない強い光が宿った。


◆


「ダンお兄ちゃ〜ん!こっちこっち〜!!」


風に揺れる、オーロラ色の髪。


遠くで手を振る少女が、太陽みたいに笑っていた。


「はぁ……はぁ……待って、フィー……」


胸を押さえながらも、必死に後を追う。


生まれつき身体が弱く、発作もあった。

療養のため、王都を離れた先で――彼女と出会った。


空から落ちてきた、不思議な少女。


胸の痛みも忘れて走り、

受け止めたのが始まりだった。


フィーは明るく人懐っこく、

そして物知りであった。


「ほら、ここ!すごい綺麗でしょ?」


案内された原っぱには、淡い紫紅色の花が一面に咲いていた。

透き通るような花弁が、風に揺れている。


「一週間前には、何もなかったはずだが……」


「秋水仙っていうの!時が来ると一斉に咲くんだよ」


得意げに語り、くすりと笑う。


「触ったら毒だけどね」


無邪気なその笑顔に、なぜか目が離せなかった。


「一週間後には、もう見られなくなっちゃうから」


――だから、今だけ。


「無理させちゃって、ごめんね」


そう言って微笑む彼女は、どこか儚くて。


胸の鼓動が、やけに速い。


熱い。苦しい。


それでも、笑い返そうとして――


視界が、ゆっくりと暗く沈んだ。


ーー


その後。


目を覚ました時、隣で泣きじゃくっていた少女の姿を思い出す。


「……本当に、反対だな」


今度は自分が、守る番だ。


眠るフィリアの手を、そっと握り直す。


「……ん」


指先が、かすかに震えた。


同時に――


濃い魔力が、こちらへ近づいてくるのを感じる。


離れようとした、その時。


きゅ、と。


弱々しく、袖を掴まれた。


「……いか、ないで……」


ダリウスは息を呑んだ。


——無意識か。


それでも。


「大丈夫だ。君は、私が守る」


そっと頭を撫でる。


フィリアは少し安堵したような顔つきをした。


ーー


医務室の扉の向こう。


――コツ、コツ。


その音は規則正しく、優雅でさえある。

けれど、扉の隙間から這い寄る黒い風は、まるで獲物を追い詰める大蛇のような冷たさを帯びていた。


廊下に立つエルヴィンは、ゆっくりと口元を歪める。


自身の魔力が、愛しい彼女の居場所を正確に告げていた。


逃げ場など、どこにもない。


魔力の残滓が近くなるほど、心臓の鼓動が激しくなる。


指先が歓喜に震え、背筋に甘い痺れが走った。


「見つけたよ、フィリア……」


その声は、ひどく優しいのに――


どこか壊れている。


「大丈夫。もう、逃がさないから」


低く、呪いのような愛を囁く。


ーー


一方、室内ではダリウスが顔を上げた。


扉の隙間から、どろりとした黒い霧が足元を濡らすように入り込んでくる。


その不吉な気配に、空気が凍りつく。

視界が歪むほどの、濃密な魔力。

身体が本能的な恐怖で自然に震える。


「……っ」


――来た。


逃れられぬ破滅を、直感が告げる。


ダリウスは静かに、剣の柄へ手を添えた。


背には、守るべき少女の温もり。


ギィィ――


医務室の扉が、ゆっくりと開かれた。

同時刻、別棟では――


ラグナは、窓の外を眺めていた。


黒い風。濃い魔力。


——似ている。


あの、“黒い雨”に。


「……ふん、愚弟め」


口元が、わずかに歪む。


「……堕ちたか」


低く呟き、踵を返す。


「少し、仕置きが必要だな」

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