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25 堕ちた黒き風と、守るべき者

8歳の頃、属性検査を受けた。


魔導機に触れると、鮮やかな緑光が輝いた。

その魔力量の多さに、公爵家の一員として認められたのだと、胸が高鳴った。


だが――


風を示す緑の魔石の隣で、

黒い魔石もまた、同じように瞬いていた。


父はそれを確認すると、すぐに検査を打ち切った。


――まさか、二属性適性?


期待を込めて見上げると、父は優しく微笑んだ。


「エルヴィンは風属性適性だよ。それも素晴らしい魔力だ。

もう一つの光は、魔導機が正常に作動しているのを示す灯りだよ」


そう言って、頭を撫でてくれた。


その後、母は体調を崩し、実家へ療養に戻り、

――いつの間にか離縁していた。


あの頃は気づかなかった。

いや、気づこうとしなかっただけかもしれない。


だが、今は違う。


周囲を満たす黒い風が、ひどく心地いい。


思うがままに、あるがままに振る舞える。

それが、こんなにも自由だなんて。


先ほどはフィリアを驚かせて、泣かせてしまった。


……次は、もっと丁寧に。


逃げ出さないように、ゆっくりと染め上げていこう。


ああ――楽しみだ。


エルヴィンはフィリアの残滓を辿って、静かに歩き出した。




魔力の霧が濃い。


先ほどまで、このような現象はなかったはずだ。


ダリウス・グランディスは眉をひそめ、巡回を続ける。


黒い風――

闇の門から漏れ出す魔力に似ている。


だが、これは瘴気というより……


欲望を刺激する、精神干渉系の魔法に近い。


「学院の結界に異常はないはずだが……」


となれば、内部からか。


黒い魔力の濃い方へと足を向けた、その時――


人影が、地に伏していた。


「君、大丈夫か!」


駆け寄り、抱き起こした。


それは見覚えのある顔だった。


フィリア・リヴァリエ。


先の魔獣討伐の際、被害に遭った少女。


「……ん」


かすかな反応に、胸を撫で下ろした。


意識はある。だが、このままにはしておけない。


医務室へ運ぼうとした、その時。


さらりと揺れた髪の奥に、小さなほくろが見えた。


――「ここのホクロ。ピアスを開けるのに丁度いい目印みたいでしょ?」


屈託なく笑う少女の記憶がよぎる。


「フィー……」


フィリア。


そうか、君は――あの時の。


懐かしさが胸をよぎる。


だが、その視線がふと止まった。


首筋に貼られた絆創膏。


……なぜ、こんな場所に。


小さな違和感が胸に残る。


ダリウスはわずかに眉をひそめながらも、歩を速めた。



医務室に入ると、クラウス教諭が珍しく慌てていた。


「クラウス教諭――」


声をかけるより早く、


「ベッドは自由に使ってください。

少し魔力に当てられただけでしょう。すぐ落ち着きます」


早口でそう言い残し、


「では」


と、そのまま足早に出ていってしまう。


……妙だな。


一瞬そう思ったが、今はそれどころではない。


ダリウスはフィリアをそっとベッドへ寝かせ、

傍らの椅子に腰を下ろした。


「ふむ……」


状況を整理する。


結界に異常はない。

だが、この濃い魔力の霧。


原因を探る必要がある。


しかし――


このまま彼女を一人にするわけにもいかない。


「どうしたものか……」


立ち上がっては数歩歩き、また戻る。


時計を何度見ても、ほとんど進んでいない。


落ち着かない。


やがて観念したように息を吐き、再び椅子に腰を下ろす。


フィリアの隣に座り、じっと様子を窺う。

時折、苦しげに表情を歪めている。


そっと、その手を取った。


「昔と反対だな……」


あの時は、俺が倒れて。


お前が、こうして手を握ってくれていた。


ダリウスは意識を失ったフィリアの顔を見つめる。

青白い肌、弱々しい吐息。


かつて療養先で出会ったあの頃、死の淵にいた自分を救ってくれたのは、彼女の不思議な力と温かな手だった。


「……君に救われた命を、今度は君のような人を守るために使うと決めたんだ」


幼い日の誓いを、胸の奥でなぞる。


乱れた髪に触れようとした、その時。


指先が、首筋の絆創膏に触れた。


……なぜ、こんな場所に。


嫌な予感が、静かに胸を締めつける。


そっと端を剥がす。


――そこにあったのは、


赤紫に残る、生々しい痕。


一瞬、思考が止まった。


これは――


事故ではない。


無意識のうちに、指先に力が入る。


胸の奥で、何かが音を立てて崩れた。


(……誰が、こんなことを)


静かに、だが確かに怒りが燃え上がる。


彼女は――


こんな風に傷つけられていい存在ではない。


「……許さない」


低く、押し殺した声が漏れる。


その瞳に、これまでにない強い光が宿った。



「ダンお兄ちゃ〜ん!こっちこっち〜!!」


風に揺れる、オーロラ色の髪。


遠くで手を振る少女が、太陽みたいに笑っていた。


「はぁ……はぁ……待って、フィー……」


胸を押さえながらも、必死に後を追う。


生まれつき身体が弱く、発作もあった。

療養のため、王都を離れた先で――彼女と出会った。


空から落ちてきた、不思議な少女。


胸の痛みも忘れて走り、

受け止めたのが始まりだった。


フィーは明るく人懐っこく、

そして物知りであった。


「ほら、ここ!すごい綺麗でしょ?」


案内された原っぱには、淡い紫紅色の花が一面に咲いていた。

透き通るような花弁が、風に揺れている。


「一週間前には、何もなかったはずだが……」


「秋水仙っていうの!時が来ると一斉に咲くんだよ」


得意げに語り、くすりと笑う。


「触ったら毒だけどね」


無邪気なその笑顔に、なぜか目が離せなかった。


「一週間後には、もう見られなくなっちゃうから」


――だから、今だけ。


「無理させちゃって、ごめんね」


そう言って微笑む彼女は、どこか儚くて。


胸の鼓動が、やけに速い。


熱い。苦しい。


それでも、笑い返そうとして――


視界が、ゆっくりと暗く沈んだ。


ーー


その後。


目を覚ました時、隣で泣きじゃくっていた少女の姿を思い出す。


「……本当に、反対だな」


今度は自分が、守る番だ。


眠るフィリアの手を、そっと握り直す。


「……ん」


指先が、かすかに震えた。


同時に――


濃い魔力が、こちらへ近づいてくるのを感じる。


離れようとした、その時。


きゅ、と。


弱々しく、袖を掴まれた。


「……いか、ないで……」


ダリウスは息を呑んだ。


——無意識か。


それでも。


「大丈夫だ。君は、私が守る」


そっと頭を撫でる。


フィリアは少し安堵したような顔つきをした。


ーー


医務室の扉の向こう。


――コツ、コツ。


その音は規則正しく、優雅でさえある。

けれど、扉の隙間から這い寄る黒い風は、まるで獲物を追い詰める大蛇のような冷たさを帯びていた。


廊下に立つエルヴィンは、ゆっくりと口元を歪める。


自身の魔力が、愛しい彼女の居場所を正確に告げていた。


逃げ場など、どこにもない。


魔力の残滓が近くなるほど、心臓の鼓動が激しくなる。


指先が歓喜に震え、背筋に甘い痺れが走った。


「見つけたよ、フィリア……」


その声は、ひどく優しいのに――


どこか壊れている。


「大丈夫。もう、逃がさないから」


低く、呪いのような愛を囁く。


ーー


一方、室内ではダリウスが顔を上げた。


扉の隙間から、どろりとした黒い霧が足元を濡らすように入り込んでくる。


その不吉な気配に、空気が凍りつく。

視界が歪むほどの、濃密な魔力。

身体が本能的な恐怖で自然に震える。


「……っ」


――来た。


逃れられぬ破滅を、直感が告げる。


ダリウスは静かに、剣の柄へ手を添えた。


背には、守るべき少女の温もり。


ギィィ――


医務室の扉が、ゆっくりと開かれた。

同時刻、別棟では――


ラグナは、窓の外を眺めていた。


黒い風。濃い魔力。


——似ている。


あの、“黒い雨”に。


「……ふん、愚弟め」


口元が、わずかに歪む。


「……堕ちたか」


低く呟き、踵を返す。


「少し、仕置きが必要だな」

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