19 黒雨の嵐と、竜王の焔
――三つ首の炎龍
トライセファルス・フレイムドラゴン
ラグナが生み出したそれは、
あまりにも圧倒的だった。
巨体が空を覆い、
その場にいる者すべてを恐怖で包み込む。
ただ一人を除いて。
ラグナ・ヴァルフレア。
あれは召喚ではない。
圧倒的な魔力と技術によって、
炎そのものを具現化しているのだ。
しかも――
意思まで持たせている。
さらに、あの質量の魔法を
当然のように維持し続けている。
「……化け物だ」
誰かが震えた声で呟いた。
本当に――あまりにも容赦がない。
フィリアはエルヴィンを見る。
顔は苦痛に歪み、
身体は動かないままだ。
――このままでは、エルヴィン様が危ない。
「殿下、試合を止めてください!」
フィリアはレオニスに懇願する。
「これ以上は……
エルヴィン様が死んでしまいます!」
しかし、レオニスはゆっくり首を振った。
「君は最後まで見届ける必要があるんじゃないかな?」
穏やかな声。
だがそこには――
止める気など一切ない意思があった。
その瞬間。
フィリアは走り出していた。
エルヴィンの元へ。
◆
死んでしまう。
その言葉を思い浮かべた瞬間、
胸が強く締め付けられた。
必死に駆け寄り、エルヴィンの身体を抱き止める。
自然と涙が溢れていた。
「エルヴィン様、もういいんです」
震える声で語りかける。
「私は大丈夫ですから」
必死に作った優しい声が、
わずかに震えていた。
その光景を、ラグナはじっと眺めていた。
そして、ふと思い出したように口を開く。
「そう言えば……」
黄金の瞳がゆっくりと細められる。
「お前の魔力は、甘美な味がするとか?」
視線がフィリアの上から下へと舐めるように滑る。
そして、口元を歪めた。
「喜べ。後で存分に愛でてやろう」
背筋にぞっとする寒気が走った。
――あの人は、本気だ。
その言葉を聞いた瞬間。
今まで動けなかったエルヴィンが、
渾身の力で身体を起こした。
「ほんっとうに……あなたのことは……」
息を荒げながら、ラグナを睨みつける。
「好きになれません!」
昔から、ラグナには一度も勝てなかった。
いつも余裕の笑みを浮かべ、
欲しいものは当然のように奪っていく。
でも、今回は――
フィリアだけは奪わせない。
「エルヴィン様! 動いては……」
立ち上がってしまえば、
また戦いが始まってしまう。
フィリアはぎゅっとエルヴィンを抱きしめた。
「ダメです……行ったら……今度こそ……」
今度こそ、本当に死んでしまう。
――ぽたっ。
頬に、冷たいものが落ちた。
フィリアは空を見上げる。
雫が、また一つ落ちてくる。
雨……?
さっきまで、あんなに晴れていたのに。
「フィリア、危ないから離れて?」
エルヴィンは静かに微笑んだ。
「大丈夫。僕を信じて」
そう言ってフィリアの肩にそっと触れ、
エルヴィンはラグナへと向き直った。
◆
「天候操作の魔法とは、考えたものだな」
再び挑んでくるエルヴィンを見て、
ラグナは楽しげに笑う。
「しかし――その程度の雨では、
我が炎龍に傷一つつけられまい」
そう言って視線を炎龍へ向けた、その時。
グゥゥゥ……
低い唸り声が響く。
「……?」
炎龍の動きが、わずかに鈍っていた。
何かがおかしい。
何かに耐えている。
炎龍の身体を包む炎が、
黒い粒子によって削り取られていく。
まるで、分解されるかのように。
「……黒い、雨?」
ラグナの黄金の瞳が細められる。
魔力を――分解している。
そんな魔法など、
今まで聞いたことがない。
「ふふふ……」
肩が震える。
「ふははははははっ!!」
ラグナは腹を抱えて笑い出した。
「面白い。面白いぞ、エルヴィン!」
黄金の瞳が鋭く輝く。
「さぁ――殺し合いを始めようではないか!」
ラグナが腕を振り下ろす。
それに応えるように、炎龍が羽ばたいた。
一つ目の首が口を開き、
エルヴィンへ向けて火球を放つ。
だが。
黒い雨に触れた瞬間、
火球の炎は削がれ、勢いを失う。
エルヴィンは風刃でそれを薙ぎ払いながら、
一気に距離を詰めた。
二つ目の首が咆哮する。
ブワァァッ!!
灼熱のブレスが噴き出す。
エルヴィンは瞬時に上昇気流を纏い、
空へ跳ね上がった。
炎の奔流をかすめて躱す。
そして――
空中から龍の首を見下ろした。
翡翠の瞳が鋭く細められる。
狙うは――中央の首。
「真空刃!」
圧縮された真空の刃が、
一直線に炎龍へ迫る。
その瞬間。
三つ目の首が咆哮した。
ガァンッ!!
炎龍は牙を噛み合わせ、
真空を裂く刃を噛み砕いた。
爆ぜた衝撃が空中に散る。
「ほう……真空刃か」
ラグナが低く呟く。
「良い技だ」
「だが――竜を落とすには足りぬ」
しかし。
そう言ったラグナの表情から、
いつもの余裕は消えていた。
黒い雨の影響。
炎龍を維持する魔力消費は、
確実に増している。
――決めるなら、今だ。
エルヴィンは、詠唱を始めた。
「空を満たす風よ、
万象を包む嵐となれーー」
空気が震える。
周囲の風が、
エルヴィンのもとへと集まっていく。
空気が重くなる。
「……いいな」
ラグナが笑う。
「やっと本気になったか」
黄金の瞳が燃える。
「ならば――全力で応えようぞ!」
グォォォォォ!
炎龍が主に応え咆哮する。
三つの首が中央へ向き、
炎を凝縮させていく。
ラグナが片手を掲げる。
炎が渦を巻き、
巨大な炎の柱となって天を貫いた。
「見せてやろう――竜王の焔を!」
「ドラコニック・インフェルノ!!」
炎の柱に、細長く蛇のようにしなやかな竜の姿が巻き付く。
灼熱の奔流が、
すべてを焼き尽くす勢いでエルヴィンへ迫る。
その時。
エルヴィンの詠唱が完成した。
「息吹を奪い、炎を沈め――」
翡翠の瞳が静かに光る。
「この場すべてを、静寂へ還せ」
「ヴォイド・テンペスト!!」
瞬間。
巨大な風のドームが発生した。
ラグナ、炎龍、
そしてドラコニック・インフェルノ――
そのすべてを包み込む。
風の檻を破ろうと、
炎龍と焔の竜が咆哮し暴れ回る。
だが。
「消滅せよ」
エルヴィンの瞳が――黒く染まる。
風のドームが、
黒き嵐へと変わった。
粒子が触れるたび、
炎龍の身体が剥がれ落ちていく。
分解。
崩壊。
そしてドーム内部の空気は、
急速に失われていく。
真空。
炎は消え、
龍はぼろぼろと崩れ落ちた。
呼吸もできぬ静寂の中で――
ラグナは、ふっと笑った。
「……見事だ」
そして。
その場に崩れ落ちた。
◆
黒い風のドームがゆっくりと霧散していく。
その中心に、倒れているラグナの姿が見えた瞬間――
学生たちから歓声が上がった。
――勝った。
胸の奥が熱くなる。
フィリアを守れた。
その事実だけで、胸がいっぱいだった。
「フィリア」
名前を呼び、振り返る。
しかし――
彼女はすでに駆け出していた。
倒れているラグナの方へ。
こちらを振り返ることもなく。
その瞬間。
胸の奥で、何かが軋んだ。
……どうして。
どうして、そっちへ行くんだ。
感情が制御できない。
次の瞬間。
暴力的なまでの風が吹き荒れた。
「……わっ!」
フィリアの身体が、強引に引き戻される。
そして。
背後から腕が回された。
強く。
逃がさぬように。
「どこへ行くの?」
耳元で、低い声が落ちる。
フィリアが振り返ろうとした、その瞬間。
首筋に鋭い痛みが走った。
「あ……っ、エルヴィン、様……?」
牙が、白い肌へと深く食い込んでいく。
乱暴に。
それでいて、どこか確かめるように。
牙は深く食い込み、離れない。
視界の端に映ったエルヴィンの瞳は、
どろりと濁った――黒緑だった。
「……もう、逃さない」
「君は僕のものなのだから」
低く、囁く。
フィリアの身体が、びくりと震えた。
白い首筋に深い歯痕が残る。
滲んだ赤が、肌を伝う。
それはまるで――
誰のものかを示す、鮮やかな印だった。
それを見た瞬間。
胸の奥の苛立ちがようやく静まる。
エルヴィンはフィリアを抱き寄せたまま、
静かに言った。
「一人でよく知らない人についていくし」
「勝手に婚約者になっているし」
声は落ち着いている。
けれど。
「僕が、どれだけ心配したと――」
腕に込められた力が強くなる。
「君は、ちゃんと食べられないとわからないの?」
責める言葉。
けれど、その腕はわずかに震えていた。
「エルヴィン様、ごめんなさい」
フィリアが振り返ろうとした、その時。
エルヴィンの身体が、ぐらりと揺れた。
力が抜けるように、
腕がフィリアの肩から滑り落ちる。
そして――
その場に崩れ落ちる。
「エルヴィン様!?」
フィリアの叫びが響く。
エルヴィンはぴくりとも動かない。
そのまま意識を失ったように倒れていた。




