18 灼紅の公爵と、三首炎龍
「中庭では広さが足りん」
「やるなら全力だろう?」
これから最高の遊びでも始めるかのように、
ラグナは指先に炎を纏わせ、楽しげに微笑んだ。
一同はグラウンドへ移動した。
今は夏。
火属性の精霊が最も活発になる季節で、
炎魔法と相性が最も良い時期でもある。
見上げれば、空は青く澄み渡っている。
雲一つない完璧な天気。
学院全体を覆う結界のおかげで、
耐えられないほどではないが、
空気には夏特有の熱気が満ちている。
エルヴィンとラグナは距離を取り、向かい合った。
少し離れた場所で、レオニスとフィリアが見守る。
「フィリアさんはさ、どっちが勝って欲しいの?」
レオニスがじっとフィリアを見つめて尋ねる。
「どっちって……」
フィリアは言葉に詰まった。
ラグナの提案が魅力的に思えたわけではない。
エルヴィンの婚約者になりたいわけでもない。
どちらが勝とうと――
誰かの婚約者になるつもりはない。
その意思は変わらない。
「……怪我さえしないでくれれば、それでいいです」
「ふぅん」
レオニスは納得いかなそうに眉を上げる。
「ちなみにさ。面倒な彼らを見限って、僕と婚約するのもアリだよ?」
微笑みながら囁く。
「またご冗談を。愛人にはなりません!」
フィリアは即座に切り捨てた。
「ふふ。じゃあ愛想が尽きた時はおいで」
レオニスはくすりと笑い、
冗談めかした軽さで、妙に逃げ道のない声音で続けた。
「もちろん正妃で迎えてあげるから」
耳元で甘く囁かれ、
くすぐったさと恥ずかしさ、
そして苛立ちが混ざり合う。
フィリアは思わずレオニスを睨んだ。
すると――
先ほどとは違う、真剣な表情のレオニスと目が合う。
澄んだ青に金が溶け込んだ、星屑のような瞳。
その視線に吸い込まれそうになった瞬間――
ひやりと冷たい空気が頬をかすめた気がした。
ハッとして、フィリアは慌てて目を逸らす。
……今のは、何?
胸の奥がざわめく。
思わず、確かめるようにそっとレオニスを見上げると――
レオニスは大きくため息をついていた。
「ほんとに、エルヴィンは……」
呆れたように、何かを呟いていた。
◆
火の公爵と風の公爵の決闘。
この異様な状況を見物しようと、
少しずつ学生たちが集まり始めていた。
「フィリア!これは一体なんなの!?」
ヴェルナが息を切らして駆け寄ってくる。
「エルヴィン様とヴァルフレア様が、その……決闘するみたいで」
理由をうまく説明できず曖昧に答えると、
「なんでよ!?」
即座に綺麗なツッコミが返ってきた。
説明に困っていると、
「勝った方がフィリアの婚約者になるんだよ」
レオニスがさらりと言った。
かなり語弊のある説明だった。
「はぁっ!?」
ヴェルナは衝撃のあまり、
口を開けたまま固まった。
季節。
天候。
火と風の属性相性。
二学年上という経験差。
そして――
火の公爵家当主の座を実力で奪い取った男。
どれを取っても、エルヴィンに勝ち目はない。
「どう考えたってあいつの方が不利じゃない!」
ヴェルナは怒りをあらわにする。
「フィリアをあの傲慢な男に渡せっていうの!?」
友人が品物のように扱われることに、
ヴェルナは怒りで震えていた。
「冗談じゃないわ! 人に魔法を放つのは、学院内で禁止のはずよ。
私、止めてくる!」
走り出そうとするヴェルナを、レオニスが静かに止める。
「これは“決闘”だよ」
「学院への許可申請も通っている」
「つまり、正式な試合だよ」
王太子の言葉に、ヴェルナは言葉を失う。
誰も止めることはできない。
「ほら、始まるよ」
レオニスは楽しそうに言った。
◆
エルヴィンとラグナは動かない。
黄金の瞳と翡翠の瞳が静かに対峙している。
無風。
太陽までもが注目しているかのように、
背中に視線のような熱を感じる。
何をどうしても、
エルヴィンに不利な状況は変わらない。
生半可な風では、火を煽るだけだ。
強くすればするほど利用される可能性も高い。
それでも――
エルヴィンはとても落ち着いていた。
戦略的に、相手の出方を伺っていた。
先に痺れを切らしたのは、ラグナだった。
「動かぬなら、こちらから行くぞ」
試し撃ちのように、
人の頭ほどの火球を放つ。
ラグナが軽く放ったそれは、
ただの初級魔法のはずだった。
だが――
その火球は、明らかに異質だった。
炎は一切乱れず、
凝縮された塊のように静かに燃えていた。
中心部は赤黒く輝き、
内部には確かな質量が宿っている。
まるで小さな太陽だ。
空気が歪む。
熱が押し寄せる。
「あれ……初級魔法だよな……?」
学生の一人が思わず呟く。
「嘘だろ……」
誰もが息を呑んだ。
生半可な魔法では、打ち消せるような代物ではない。
エルヴィンは静かに片手を突き出した。
バシュッ!!
次の瞬間、火球は空中で四散する。
的確に空気圧を変え、炎を散らしたのだ。
動く炎に風を纏わせ、
燃焼の流れそのものを断ち切る高度な技術。
それを一目で見抜き、
「ほぅ、少しは成長しているようだな」
ラグナは嬉しそうに笑った。
「なら、これはどうかな?」
先ほどと同じ大きさの火球が、
一つ、また一つと増えていく。
数十はくだらない火球が、ラグナの背後に並び立つ。
空中に浮かぶ炎はすべて、
先ほどと同じ密度を持っていた。
「……嘘だろ」
学生の一人が声を震わせる。
「全部あの威力なのか……?」
それを見た瞬間、
エルヴィンは詠唱に入る。
風の刃がみるみるうちに増えていく。
エルヴィンの背後に、
同じく数十の鋭い風刃が並び立った。
「ほぅ、面白い」
ラグナが笑う。
「火球と風刃――
どちらが上か試してみようではないか!」
次の瞬間。
火球が一斉に放たれた。
エルヴィンは冷静であった。
一直線に飛んでくる火球。
軌道を読むのは難しくない。
風刃を一つずつ当て、
魔力核を切り裂く。
炎の流れが次々と消えていく。
「すげぇ……」
学生たちから思わず感嘆の声が漏れる。
だが――
火球の勢いは止まらない。
精密な技術を前にしてなお、
圧倒的な火球の質量が押し寄せてくる。
まるで灼熱の濁流だ。
エルヴィンの額に汗が一筋流れる。
少しずつ後退しながらも、
的確に炎を消していく。
好機を待つように。
「っはっはっは!」
ラグナが心から楽しそうに笑う。
次の瞬間。
火球の速度が――さらに増した。
矢のように迫る炎。
シュッ!シュッ!シュッ!
エルヴィンの風刃がそれを次々と切り裂く。
空中で炎が弾け、熱風が荒れ狂う。
それでも火球は尽きない。
次から次へと押し寄せてくる。
だが――
バシュッ!
最後の火球が消えた。
――終わった。
誰もがそう思った、その瞬間。
エルヴィンの翡翠の瞳が、ふっと揺れる。
――何かが、違う。
嫌な予感が背筋を走った。
肌を刺すような熱。
空気の流れが、わずかに歪んでいる。
「……っ!」
視線を落とす。
地面すれすれ。
炎が――這っていた。
黄金の瞳が細く歪む。
「甘いわっ!」
ドゴォッ!!
地面を滑るように潜んでいた火球が、
エルヴィンを捉えた。
――詠唱が間に合わないっ!
必死に紡いだ風の防御を破り、
火球はエルヴィンに直撃した!
かはぁっ!
弾き飛ばされ、
地面に倒れ込むエルヴィン。
翡翠の瞳が苦痛に歪み、
屈辱に砂を噛むような思いと、
焼けるような肺の痛みに呼吸が乱れた。
ラグナは乱れ一つない呼吸で、静かに告げる。
「お前では、あいつは守れない」
ラグナの黄金の瞳が、
一瞬だけフィリアへ向けられる。
「何度危ない目に合わせた?」
「何度間に合わなかった?」
胸が軋む。
マリエッタの事件。
魔獣ヴァルグレイの襲撃。
そして今。
また奪われようとしている。
圧倒的な差。
悔しさが込み上げる。
手を握ろうとしても力が入らない。
全身が焼けるように痛む。
指先一つ動かすだけで、意識が遠のきそうだった。
――立て。
そう思っても、身体は言うことを聞かない。
ここまでなのか――?
「所詮その程度か」
つまらなさそうに吐き捨てるラグナ。
そして、ゆっくりと腕を掲げた。
「この先もお前は私には敵わない。
格の違いというものをわからせてさしあげよう」
「もう歯向かう気がなくなるほどに」
そう不敵に笑うと、上級魔法の詠唱を始める。
「深紅の炉に眠る王炎よ、
天を焦がす覇火となりて顕現せよ。
三つの顎に業火を宿し、
大空を統べる焔の王と成れ――」
空気が、熱を帯びる。
魔力が、異様な密度で収束していく。
まるで空そのものが赤く燃え始めたかのようだった。
まるでこの世の終わりを見ているようだ。
熱いはずなのに、背筋に冷たいものが走る。
ここにいてはいけないと本能が伝えてくる。
ラグナが、静かに告げる。
「顕現せよ――」
空が裂けた。
灼熱の魔法陣が幾重にも重なり、
轟音とともに炎が渦を巻く。
そして――
その炎の中から、ゆっくりと。
三つの頭が姿を現した。
ひとつ。
またひとつ。
そして最後のひとつ。
それぞれの顎が開かれ、赤熱した牙が覗く。
巨躯を覆う鱗は溶けた金属のように赤く輝き、
広げられた翼は、空そのものを覆い隠した。
圧倒的だった。
ただ存在しているだけで、
この場のすべてを支配してしまうような威圧。
炎を統べる王。
大空に君臨する、灼熱の覇者。
「――トライセファルス・フレイムドラゴン!」
グウォォォォ!!!
三つの首が天を仰ぎ、咆哮を轟かせた。
空気が物理的な壁となって押し寄せ、
観客の学生たちが数歩後退する。
鼓膜が悲鳴を上げ、フィリアは思わず耳を塞いだ。
三つの首がゆっくりと動く。
そして、倒れているエルヴィンを見下ろした。
逃げ場など、どこにもない。
その瞬間、エルヴィンは理解した。
――これは、勝てない。
そう理解した瞬間、
絶望が静かに胸の奥へ沈んでいった。




