16 うさぎと、おおかみ
「フィリアには、お仕置きが必要だと思う」
エルヴィンは唐突に、
しかしとても真剣な表情で言った。
――お仕置き?
意味がわからず、フィリアはきょとんと首を傾げる。
「そう。約束を破った罰だよ」
当然のことのようにエルヴィンは続けた。
そんな重大な約束、あったっけ……?
急いで記憶を辿るが、思い当たるものが何一つ浮かばない。
「忘れるほどの約束だったの?」
エルヴィンは小さく息を吐く。
「悲しいなぁ」
そう言いながら、フィリアが焦っている様子を楽しむように、余裕の笑みを浮かべている。
どうしよう。本当に思い出せない……。
頭がショートしそうになった頃、
痺れを切らしたように、エルヴィンがすっと距離を詰めた。
顔のすぐ前に、彼の顔がある。
「約束、思い出させてあげようか?」
指を絡められた瞬間――
ふっと記憶が蘇る。
初めてエルヴィンと魔力共有をした日のこと。
「僕以外に魔力を満たしちゃダメだよ」
あの時の約束。
はっと目を見開くフィリアを見て、エルヴィンは満足そうに微笑んだ。
「思い出した?」
そして、少しだけ声が低くなる。
「なのに、なんで約束破って、魔力あげちゃうかな」
静かなのに、圧がある。
このままだと何か本当に危ない気がして、
フィリアは慌てて言い訳を探す。
「そ、それは授業だったからで!」
しかし、それは完全に地雷だった。
「へぇ……授業、ねぇ」
優しい笑顔なのに、背筋がぞくりとする。
「ヴェルナ嬢はわかるけど」
エルヴィンはそこで一度言葉を区切る。
そして、はっきりと言った。
「“それ以外”は、する必要なかったよね?」
“それ以外”の部分が、やけに強調されている。
カイルとの魔力共有についてだ。
すごく怒っている。
それは、さすがのフィリアにもわかった。
しゅんと肩を落とすフィリアを見て、エルヴィンは小さく息を吐いた。
怒りは少しだけ収まったらしい。
今度は、心配するような声音で言う。
「だいたいフィリアは自覚が足りないんだ」
「君の魔力は……その……とても……甘くて……」
熟れた桃のような甘い魔力を思い出し、
エルヴィンの頬がわずかに赤く染まる。
一度その味を知ってしまったら――
思い出すたび、
また味わいたい衝動に駆られる。
「私の魔力って、甘いんですか?」
熱いとか、冷たいとかならわかる。
でも、甘いって――?
不思議そうに首を傾げるフィリアに、
エルヴィンはじっと視線を向けた。
「そう。とても甘い……」
そして、そっとフィリアの手を取る。
「まるごと食べてしまいたくなるくらい」
甘く囁くその声に、フィリアの心臓がどくんと鳴る。
その瞳は、とろけるように優しくて。
でも――
次の瞬間。
ふっと光が変わった。
獲物を見つけた捕食者のような、鋭い光が宿った。
翡翠色の瞳が、夜の獣のように縦に細く収縮する。
「っ!」
指先にギリッ、と鋭い牙が食い込んだ。
「……いたっ……!」
痛みに身体がビクッと震える。
視界がちかちかするほどの痛みと熱が、指先から全身へ駆け巡る。
驚いてエルヴィンを見ると、
視線だけで絡め取られたように、身体が動かなくなる。
瞳をそらすことができない。
――逃げられない。
本能がそう告げた瞬間。
噛んでいた力がふっと緩み、
痛みを和らげるように、指先にそっと口づけが落ちる。
「これが、お仕置きだよ」
指先がじんじんと熱い。
赤い線が刻まれている。
「覚えておいて」
エルヴィンは悪戯っぽく笑う。
「次は、本当に食べてしまうからね」
冗談みたいな言い方。
でも――
一瞬見えた瞳は、冗談に見えなかった。
魔獣討伐事件以来、
フィリアに好意を寄せる者が増えている。
ふと視線を落とすと、
制服に揺れるうさぎのチャームが目に入る。
愛玩動物の代表といえる、うさぎ。
小さくて、無防備で、
守られる存在。
――簡単に捕まってしまいそうな生き物。
まるでフィリアみたいだ。
女同士の友情に口を挟む気はないが、
チャームが揺れるたびに、気になって仕方がない。
それは獲物を自然と追いかけてしまう本能なのか。
または嫉妬からくるものなのか。
フィリアは、僕のものなのに。
「フィリア」
ぎゅっと、抱きしめる。
「これは、おまもり」
そう言って、あたたかな魔力を流し込む。
量はほんの少し。
フィリアの瞳に、すっと翠色が宿る。
「世の中は狼だらけなんだ」
エルヴィンは諭すように言う。
「よく知らない人に一人でついていっちゃダメだよ」
「もう、子供じゃないんだから」
フィリアは笑った。
「知らない人にはついていきませんよ」
心配しないで、と。
◆
ルミナリア王立魔導学院
フィリア・リヴァリエ殿
突然の書状となる非礼を許してほしい。
近く、学院の個別サロンにて貴女と話をする時間を設けたいと考えている。
少々込み入った話ではあるが、内容については当日直接伝えたい。
夏の暑さも厳しい頃だ。
学院の貴族サロンにて冷たい紅茶でも用意して待っている。
レオニス・ルミナリア
上質な紙の便箋。
王家を示す、光を抱いた獅子の封蝋。
整った、美しい筆跡。
――どうして?
レオニス殿下が。
私に?
思い当たるのは、
各属性との魔力共有の件くらいしかない。
考えながら歩き、
学院の貴族専用個室サロンの前まで来ていた。
白を基調に、金の装飾。
上質で静かな扉。
――本当にここで合ってるよね?
私、平民だけど……。
間違ってたら謝ればいいかな。
地図を何度も見返し、
覚悟を決めてノックする。
コンコン。
数秒後。
「どうぞお入りください」
落ち着いた声が返ってきた。
ドキドキしながら扉を開けると、
そこには
レオニス殿下と、
見慣れない二人の男性がいた。
「呼び立てて悪かったね」
レオニスが上品に微笑む。
「適当なところに座ってくれ」
他の二人が気になるが、
とりあえず距離を取ってソファに腰掛ける。
――わ、ふかふか。
思わず顔に出てしまったらしい。
レオニスがくすっと笑う。
「ソファを気に入ってくれたようで嬉しいよ」
庶民丸出しだったかもしれない。
フィリアは恥ずかしくなり、小さく縮こまる。
レオニスは軽く指を組み、静かに口を開いた。
「さて、君に来てもらった理由だが……」
「最近、闇の魔獣が増えているのは知っているね?」
こくんと頷くフィリア。
「これについては、私から説明を」
そう言って前に出たのは、
オールバックの髪にブラウンの瞳。
大柄で筋肉質、実直そうな雰囲気の男だった。
「初めまして、フィリア・リヴァリエ嬢」
低く落ち着いた声が響く。
「私はダリウス・グランディス」
「土の公爵家の出身であり、王宮魔導先遣隊の隊長を務めている」
「また、この学院の結界維持と警備も担当している」
そして、深く頭を下げた。
「先の魔獣討伐訓練にて」
「巡回の不備により、君を危険な目に遭わせてしまった」
「心より謝罪する」
「わ、わっ!」
フィリアは慌てて立ち上がる。
「顔を上げてください!」
「魔獣が活発化しているのは、グランディス様のせいではありません!」
ダリウスはゆっくり顔を上げ、
穏やかに微笑んだ。
「そう言ってもらえるとありがたい」
「だが、危険な目にあった君に直接謝罪がしたかったのだ」
そして真面目な顔に戻る。
「今後、生徒たちに危険が及ばないよう、警戒をさらに強めていく所存だ」
ダリウスは王宮式の敬礼をした。
拳を胸に当て、鋭い視線をフィリアからレオニスへと移す。
「殿下。警備強化の指示がありますので、私はこれで失礼いたします」
「ああ、頼んだよ」
レオニスが軽く頷く。
ダリウスはもう一度敬礼すると、踵を返した。
重い扉が静かに閉まる。
部屋に、わずかな静寂が落ちた。
レオニスは椅子に深く腰掛け、ふっと笑う。
「さて……本題に入ろうか」
そしてフィリアを見る。
「君はこの国の神話について」
「どこまで知っているかな?」
神話。
それは、誰もが知っている物語。
けれど――
誰も、真実を知らない。
その真実の鍵が、目の前の少女にあることを――




