第99話 ヒミコのささやき
ドタバタの健康診断から一夜明けた、翌日のこと。
第一期生の三十名は、動きやすいジャージ姿で魔法学院の広大なグラウンドと体育館に集められていた。
「本日は体力測定を行う! 種目は、握力、上体起こし、長座体前屈、反復横跳び、立ち幅跳び、20mシャトルラン、50m走、ソフトボール投げの全八種目だ!」
教官である剣崎の号令と共に、生徒たちは各グループに分かれて測定を開始した。
この第一期生三十名の中で、現時点でヒミコによって魔力の『鍵』を開けられ、実用レベルで魔法を扱えるのは、実はアリスただ一人である。他の二十九名は、まだ己の内に眠る魔力を引き出す術すら知らない。
そのため、彼らは皆ごく自然に、これを「魔法訓練に入る前の、純粋なフィジカルテスト」だと思い込み、己の肉体のみを使って真面目に測定に挑み始めていた。
「ふんっ! どうだ、これがクライ国軍隊式トレーニングの成果だ」
上体起こし(腹筋)の測定マットの上で、ニコラが凄まじいスピードで回数を稼ぎ、周囲の生徒から歓声が上がる。他にも体育会系出身の生徒や、体力自慢の大人たちが次々と好記録を叩き出していた。
しかし、その中で一人だけ、完全に壁にぶち当たっている者がいた。
アメリカ特別枠のアリス・ハワード、8歳である。
「う、うぅぅ……っ」
マットに仰向けになり、膝を立てた状態のアリスは、顔を真っ赤にして腹筋に力を込めていた。しかし、ぷるぷると小刻みに身体が震えるだけで、肩甲骨がマットから一ミリも離れない。
結果は、無慈悲にも「0回」。ダントツのクラス最下位であった。
いくら連続殺人鬼を倒したとはいえ、彼女の肉体はただの幼い少女である。大人や十代の生徒たちにフィジカルで勝てるはずがなかった。
だが、アリスは人一倍誇り高い。自分だけが何もできず、年上のクラスメイトたちに大きく遅れをとってしまったという事実が、彼女の小さな胸を締め付けた。
(私だけ、全然できませんでした……。これでは、ヒミコお姉様の隣に立つ資格が……)
悔しさのあまり、アリスの気高い黄金の瞳に、ポロポロと大粒の涙が滲んでいく。うつむき、ジャージの裾をぎゅっと握りしめていたその時だった。
「……ん。アリス、どうしたの」
とて、とて、と。
マイペースな足取りで、校長であるヒミコがアリスの元へと歩み寄ってきた。ヒミコは泣きそうになっているアリスの前にしゃがみ込むと、その金色の髪を優しく撫でた。
「腹筋、一回もできませんでした……。私、弱いです……」
「ん。そんなことない。アリスはもう、魔法が使える」
ヒミコはいつも通りのフラットな声で、ごく当たり前のことのように囁いた。
「魔法で、全部お掃除していいよ」
――ハッ、とアリスは顔を上げた。
そうだ。よく考えれば、この体力測定で「魔法を使ってはいけない」「己の肉体のみで挑め」というルールなど、教官の口から一言も明言されていなかったではないか。
ヒミコの言葉で、アリスの中の迷いが完全に吹っ切れた。黄金の瞳から涙が消え、代わりに強い意志の光が宿る。
「……Yes。ヒミコお姉様」
アリスは立ち上がると、続く「握力」の測定ブースへと向かった。
教官からアナログ式の握力計を受け取ったアリスは、それを小さな手で握りしめる。周囲の生徒たちは、「あんな小さな手じゃ、せいぜい10キロくらいだろう」と微笑ましく見守っていた。
しかし次の瞬間、アリスは『物質操作』の魔法を発動させた。
対象は自身の筋肉ではない。握力計の内部機構、その金属パーツそのものである。
バキィッ!!
静かな体育館に、何かがへし折れるような嫌な音が響いた。
アリスがふっと息を吐いた瞬間、握力計のメーターの針が恐ろしい速度で回転し、100キロという上限値を完全に振り切って、カチカチカチッ! と異常な音を立てて止まったのだ。
「えっ……!?」
「はぁっ!? な、なんだ今の音! 針が振り切れてるぞ!?」
まだ魔法を使えない二十九名の生徒たちが、目をひん剥いて驚愕する。
完全にぶっ壊れた握力計を手に、アリスは満足そうにニッコリと微笑んだ。
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