第95話 悲鳴と母のウサギ
鼓膜を劈くようなアリスの悲鳴が屋敷に響き渡った直後。
リビングから飛び出した剣崎と三上が、凄まじい速度で奥の防衛ルームへと駆けつけた。
「アリスッ!」
最悪の事態を覚悟した剣崎が、躊躇なく扉を蹴破る勢いで部屋へと突入する。
だが、彼らの目に飛び込んできたのは、血を流して倒れる凄惨な少女の姿ではなかった。
「ぐあぁぁッ! 目が、鼻があぁぁっ!」
部屋の中央で、見知らぬ男が顔面を両手で押さえ、無様に床をのたうち回っていたのだ。床には、凶器である真っ白なセラミックナイフが転がっている。
時間は数十秒前に遡る。
防衛ルームで静かに待機していたアリスは、ドアのわずかな隙間から、テレビ局のスタッフに紛れ込んだ見知らぬ男が近づいてくるのに気づいていた。
その男からは、ヒミコが言っていた『冷たい地下室の泥の匂い』がはっきりと漂っていた。あれが、何人もの子供たちを傷つけた恐ろしい殺人鬼。
8歳のアリスの心臓は、恐怖で早鐘のように打ち鳴らされた。
このまま部屋の鍵をかけて息を潜めるべきか。しかし、狂気に駆られた大人なら、力任せにドアを壊して入ってくるかもしれない。狭い部屋で追い詰められれば、抵抗する間もなく殺されてしまう。
だからこそ、アリスは自らの魔法を確実に当てるための、計算された罠を張ることにしたのだ。
「――きゃああああああああぁぁぁぁッ!!」
咄嗟に、引き裂かれるような悲鳴を上げる。
か弱い子供が恐怖に怯え、すくみ上がっていると錯覚させるための演技。それは見事に男の油断を誘い、部屋の入り口から一直線に突進させるという完璧な導線を作り出した。
バンッ、と乱暴に扉が開け放たれる。
「死ね! お前を殺せば、あの白髪の女も絶望するだろう!」
目を血走らせ、口元からヨダレを垂らした犯人が、一直線に飛びかかってくる。
アリスはその恐ろしい姿を真っ直ぐに見据え、犯人が勝利を確信してセラミックナイフを振り上げたその瞬間――猛特訓した『物質操作』の魔法を発動させた。
武器に選んだのは、硬いガラスやティーカップではない。
彼女がその両腕にしっかりと抱きしめていた、古びたウサギのぬいぐるみだった。
それは、重い病気で長く入院していた時にずっと大切に持っていた、今は亡き母親からのプレゼント。
手によく馴染み、長く持ち慣れた物質ほど、己の魔力のパスが繋がりやすく、操作が容易になる。アリスにとって、このウサギのぬいぐるみは自分の一部も同然だった。
ふっ、とアリスが鋭く息を吐き出す。
同時に、莫大な魔力を帯びたウサギのぬいぐるみが、まるで撃ち出された砲弾のような圧倒的な速度で、犯人の顔面に向けて一直線に射出された!
「なっ――ごはぁッ!?」
全く予期せぬ死角からの、物理法則を完全に無視した一撃。
猛烈な勢いで射出されたぬいぐるみが男の鼻柱と両目にクリーンヒットし、その軟骨を無慈悲に砕いたのだ。
そして現在。
不意を突かれ、鼻血を噴き出してのたうち回る犯人。そこへ状況を瞬時に理解した剣崎が冷酷に踏み込み、一瞬で犯人の腕を背後に捻り上げ、床に押さえつけて完全に制圧した。
「……蒼司くん! アリスちゃんは!?」
血相を変えて駆け込んできたレイナが、部屋の惨状と、無傷で立っているアリスを見て、安堵のあまりその場にへたり込む。
アリスの足は、極度の恐怖と緊張でガクガクと震えていた。それでも彼女は、絶対にこの場所を守り抜くという強い意志で、毅然と立ち続けていた。
そこへ、ヒミコが静かに歩み寄る。
ヒミコは床に落ちていたウサギのぬいぐるみを拾い上げ、その土埃を優しく払うと、頑張り抜いた8歳の少女をぎゅっと力強く抱きしめた。
「ん。よくできた。……すごい」
耳元で聞こえた、大好きなヒミコお姉様の優しい声。
その言葉を聞いた瞬間、アリスの中で張り詰めていた糸がふつりと切れ、黄金の瞳からポロポロと大粒の涙がこぼれ落ちた。
「ひみこ、おねえさま……っ、わ、わたし……っ」
「ん。もう大丈夫。お掃除、終わったから」
ヒミコの腕の中で、アリスはようやく年相応の子供のように声を上げて泣きじゃくった。
日本中を震え上がらせた泥色の猟奇殺人鬼は、小さな少女の気高い勇気と愛の形見の魔法によって、見事に打ち砕かれたのだった。
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