第94話 ひとつのティーカップ
時は遡り――アリスが大人たちに向かって「私が囮になります」と気高く宣言した、翌日のこと。
世間が連続誘拐事件の恐怖に沸き立つ中、港区の屋敷の一室には、外の喧騒とは無縁の静かな時間が流れていた。
防音の施されたその部屋にいるのは、ヒミコとアリスの二人だけである。
ヒミコは、ソファにちょこんと座る8歳の少女の前に立ち、そのフラットな瞳で、アリスの気高い黄金色の瞳をじっと見つめ返した。
「……ん。本当に、泥だらけの暗いお化けの囮になるの? 怖くない?」
それは、犯人の持つ異常な悪意がいかに冷たく、恐ろしいものであるかを深く理解しているからこその問いかけだった。ヒミコは、幼いアリスの覚悟を最終確認したのだ。
しかし、アリスの瞳に一切の迷いはなかった。
彼女はソファから立ち上がり、ヒミコを真っ直ぐに見上げて、小さく、けれど力強く頷く。
「Yes,ヒミコお姉様。怖くありません」
きっぱりと言い切るその姿は、とても8歳の少女とは思えないほど強固な決意に満ちていた。
ヒミコお姉様が作ってくれた、この温かい居場所。そこを土足で踏み荒らし、脅かそうとする泥色の悪意を、アリスは決して許すことができなかった。自分が危険な役目を引き受けてでも、この大切な場所を守り抜く。その真っ直ぐな思いが、黄金の瞳の奥で炎のように揺らめいている。
アリスの揺るぎない覚悟を見たヒミコは、小さく「ん」と頷いた。
アリスは魔力干渉系の類稀なる才能を秘めた、アメリカ特別枠の逸材だ。しかし、彼女はまだ魔法学院に入学する前の幼い子供であり、己の内に眠る強大な魔力を実戦レベルで引き出す術を知らない。
そして、その深く眠れる力を今、即座に引き出し、真の魔法として授けることができるのは、魔法学院の優秀な教師陣などではなく、ヒミコただ一人であった。
ヒミコは歩み寄り、アリスの金糸のような美しい髪の上に、そっと手を置いた。
「……なら、お掃除のお手伝いができるように、アリスの『鍵』を開けてあげる」
それは、魔力制御という本来ならば長い年月をかけて学ぶべき手順を、完全に超越した儀式。
「……ん。『治癒』」
カッ……!!
ヒミコが静かに紡いだ言葉と共に、その掌から眩いほどの白銀の光が溢れ出した。
温かく、絶対的な優しさを伴った神聖な光が、アリスの小さな体をすっぽりと包み込む。
「あっ……」
アリスの口から、微かな声が漏れた。
白銀の光はただ傷を癒すだけでなく、アリスの体内の奥深くで眠っていた魔力の源泉に直接触れ、その扉を優しく、しかし確かな力でこじ開けたのだ。
体の中を、これまでに感じたことのない熱く澄んだ奔流が駆け巡る。アリスの黄金の瞳が、魔力光を帯びて淡く輝き始めた。
光が静かに収まると、ヒミコは手を離し、アリスを見つめた。
「アリスの魔法は、形のないものを触る力。……特定のものを、自分の手みたいに動かせる」
ヒミコが伝えたのは、アリスに目覚めた魔法の正体。特定の物質・エネルギーを触れずに操作し、物理的な運動、簡易な状態変化を起こすタイプの魔法――『物質操作』だった。
「……私の手みたいに」
ヒミコはゆっくりと、アリスにその操り方を教えていく。己の魔力をどうやって外の世界に繋げ、対象を捉えるのか。不器用な言葉ながらも、ヒミコは感覚のすべてを丁寧に伝えていった。
アリスは教えに従い、部屋のローテーブルの上に置かれていた、ひとつの空のティーカップへと視線を集中させた。
ふっ、と細く息を吐き出す。
見えない魔力の糸を伸ばし、陶器の表面へと繋げるイメージ。しかし、それは決して容易なことではなかった。頭の中で想像することと、実際に魔力を出力して物理法則に干渉することは全く違う。
アリスの白い額に、じわりと汗が滲む。
黄金の瞳が、瞬きすら忘れたかのように真剣な光を帯びた。
カタッ。
静かな部屋に、小さな音が響いた。
テーブルの上のティーカップが、微かに震えたのだ。
「……っ!」
アリスがさらに集中力を高める。
カタ、カタカタカタ……ッ!
ティーカップの震えが大きくなり、やがて――まるでその場だけ重力が失われたかのように、ティーカップがふわりと、テーブルから数センチだけ宙に浮き上がった。
そのまま空中で静止するティーカップ。
部屋の中には他にも様々な無機物があるが、今の彼女には、他の物を動かす余裕など全くない。ただこの小さなティーカップをひとつ浮かせ、維持するだけで、8歳の少女の集中力は限界ギリギリだった。
しかし、アリスはその浮遊する白い陶器をじっと見つめながら、胸の奥に確かな希望の光が灯るのを感じていた。
(……これを完璧に使いこなせるようになれば、悪い人が来ても、きっと戦える)
ただ守られるだけの子供ではなくなる。大好きなヒミコお姉様の隣に立ち、一緒に戦うことができるのだ。
「ん。上手にできた」
ヒミコのフラットで優しい声が降り注ぎ、アリスの頭がぽんぽんと撫でられる。
その瞬間、アリスの集中がふっと解け、ティーカップはコトンとテーブルの上に音を立てて落ちた。
「ヒミコお姉様、ありがとうございます。私、もっと練習します」
「ん。付き合う」
アリスの強い決意に応えるように、ヒミコは静かに頷いた。
アリスが己の魔法を自在に操れるようになるまで、ヒミコは急ぐことなく、静かな部屋で何度も何度も彼女の特訓に付き合い続けた。
迫り来る泥色の悪意を迎え撃つための、二人の穏やかで、しかし真剣な時間が流れていった。
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