第91話 泥だらけの迷子
世間がヒール屋への理不尽なバッシングで連日騒ぎ立てる中、港区にある屋敷内では、奇妙な静寂が落ちていた。
リビングを歩いていたヒミコが、ふと何もない空間をじっと見つめ、ピタリと足を止めたのだ。
彼女の視線の先には、高級なソファとテーブルがあるだけで、誰もいない。しかし、ヒミコのフラットな瞳は、確かに『そこにいる誰か』を真っ直ぐに捉えていた。
「ヒミコ……? どうしたの?」
レイナが不思議に思い、何気なく『心眼』を発動させる。
次の瞬間、レイナは息を呑み、両手で自らの口を強く覆った。
視覚化されたのは、信じられないものだった。
そこには、先日、犯人によって痛ましい遺体で発見されたばかりの5歳の少女――結衣の霊が立っていたのだ。
結衣の小さな魂は、犯人の悪意そのものであるどす黒い泥にまみれ、猟奇的な装飾に使われた不気味な造花を力なく握りしめている。
彼女は、自分が死んだことすら理解していないようだった。
『……暗いよぉ。寒いよ、ママぁ……っ』
ヒール屋の屋敷から溢れ出る、神聖で温かな魔力に引き寄せられたのだろう。結衣の魂は、ポロポロと泥の涙をこぼしながら、迷子のように泣きじゃくっていた。
レイナがそのあまりにも悲惨な姿に言葉を失う中、ヒミコは一切の躊躇なく歩み寄り、泥だらけの結衣の魂をそっと抱きしめた。
普通なら触れることすらできない幽体。しかし、聖女の腕は確かに小さな背中を包み込んでいた。
「冷たい地下にいたから、迷子になっちゃったんだね。……大丈夫、お家へ帰ろう」
ヒミコが結衣の頭を優しく撫でる。
すると、結衣の魂にべっとりとこびりついていた泥色の悪意が、ヒミコの手が触れた場所から浄化され、ふわりと温かな黄金の光へと変わっていった。
「結衣ちゃんが呼んでる。燃やされちゃう前に、ママのところに連れて行かなきゃ」
ヒミコが源田たちを振り返り、静かに告げる。
その言葉の意味を、源田は即座に理解した。肉体が火葬場の焼却炉で灰になってしまえば、魂を戻す器が完全に失われ、本当に手遅れになってしまうのだ。
「時間がない。三上、真壁、車を出せ。警察の規制線ごと突破するぞ」
源田の冷徹かつ迅速な指示が飛ぶ。
ヒール屋の面々はただ一つの小さな命を繋ぎ止めるため、結衣の遺体が安置されている火葬場へと急行した。
◇
重苦しい絶望の空気が漂う、火葬場のホール。
真っ白な小さな棺の前で、結衣の両親が声を枯らして泣き崩れていた。
「結衣……ごめんね、助けてあげられなくて……っ、結衣ぃ……ッ!」
棺の小窓から見える、冷たく青ざめた愛娘の顔。母親がすがりつくようにその窓を撫でるが、非情にも別れの時間は迫っていた。
係員が沈痛な面持ちで頭を下げ、棺を炉へと運ぼうと手を伸ばした、その時だった。
キキィィィィンッ!!
火葬場の入り口に、黒塗りの車が急ブレーキの音と共に乗り付けてきた。
そこから黒服の三上と真壁が降り立ち、驚いて止めに入ろうとする警察官や係員たちを、圧倒的な威圧感と物理的な力で強引に制止する。
「な、なんだ君たちは! ここをどこだと――」
「少しの間だけ時間をくれ」
怒号を上げる親族たちの前に進み出た源田が、低く通る声で告げた。
「娘さんは、まだあなた方とお別れをしていない」
突然の闖入者に混乱と怒りが入り交じる両親。その前に、ヒミコが静かに歩み寄る。
ヒミコは棺の中を覗き込んだ。
犯人によって猟奇的に傷つけられ、すっかり冷たくなってしまった肉体。
しかし、ヒミコの目には、その肉体に必死にしがみつき、『置いていかないで』と母親の手を握ろうとして泣いている結衣の魂の姿が、はっきりと見えていた。
「……魂の記憶が、まだちゃんと残ってる」
ヒミコは棺の蓋に手をかけ、無造作にそれを開け放った。
周囲が悲鳴のような声を上げるのも気に留めず、ヒミコは棺の中の結衣の小さな胸に、そっと両手をかざす。
「今なら、全部治せるよ」
発動するのは、世界の理すらも根底から覆す、最高位の魔法。
失われた命の時間を巻き戻す、奇跡の御業。
「――『蘇生』」
ヒミコが紡いだその言葉と共に、冷たい火葬場のホールが、まばゆくも優しい白銀の光に包み込まれた。
それは周囲を破壊するような暴力的な魔力ではない。春の陽だまりのように温かく、すべてを許し、包み込むような絶対的な優しさの光だった。
光の中で、犯人が結衣の肉体に刻んだ痛ましい傷跡が、まるで幻だったかのように完全に消え去っていく。
青ざめていた頬にほんのりと温かな血の気が戻り、止まっていた心臓が、トクン、と小さな鼓動を刻み始めた。
やがて、白銀の光が静かに収まった直後。
静寂に包まれた棺の中で、結衣がゆっくりと、その小さな瞳を開いた。
「……ママ?」
あどけない、日常と何も変わらない幼い声がホールに響く。
その声を聞いた瞬間、両親は信じられないものを見るように目を見開き、そして、言葉にならない絶叫と共に床に崩れ落ちた。
「結衣……っ、あぁ、結衣っ!!」
母親が棺に覆い被さるようにして、温かさを取り戻した娘の体をきつく、きつく抱きしめる。父親もまた、震える手で妻と娘をまとめて抱きしめ、大粒の涙をボロボロとこぼして号泣した。
理不尽な泥色の悪意によって一度は奪われた命が、聖女の規格外の魔法によって、今、家族の元へと確かに帰ってきたのだ。
冷たかった火葬場は、温かな涙と奇跡の光に満たされていた。
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