第90話 泥色の準備
冷たい土とカビの匂いが漂う、薄暗い地下室――。
カビの張り付いたコンクリートの壁に囲まれたその空間で、テレビのモニターだけが不気味な光を放っていた。
画面の中では、先ほど放送されたばかりの全国ネットの生放送の録画映像が、何度も、何度も繰り返し流されている。
『声明文で吠える暇があるなら、我々の前に姿を見せてみろ』
『一生、その泥臭い地下に引きこもって震えていろ。薄汚いネズミめ』
画面の向こうで、源田壮一郎が虫けらを見るような冷酷な瞳で言い放つ。
その瞬間だった。
ガシャァァァンッ!
暗闇から投げつけられた硬い鈍器がモニターに激突し、画面が蜘蛛の巣状にひどくひび割れた!
バチバチと火花を散らす液晶の残骸。その前で、荒々しい獣のような息遣いが響き渡る。
「……っ、あああああぁぁぁぁぁッ!!」
暗闇の中で、犯人は自身の爪が剥がれて血が滲むのも構わず、周囲の物を手当たり次第に破壊し尽くしていた。
自分は、薄汚れた世界から純真な天使たちを解放する、崇高で完璧な『救世主』だったはずだ。警察という国家権力すら手玉に取り、日本中を恐怖で支配する天才的な芸術家。
それなのに、あの傲慢な男は全国ネットの生放送で、自分の芸術を、存在を、何千万という人間の前で塵芥のように踏みにじりやがった!
許さない。絶対に許さない。
犯人の心の中で、どす黒いヘドロのような殺意が限界を超えて膨れ上がり、どろりと溢れ出す。
ひとしきり暴れ回り、部屋中の物を破壊し尽くした後。
犯人は暗闇の中で静かに、異常なほど冷たい笑い声を漏らし始めた。
「……ふ、ふふふっ。そうだ、怒る必要なんてないじゃないか」
あの忌々しいオカルト集団の護衛は、外からの物理攻撃に対しては確かに鉄壁だ。
空間を断ち斬る白き魔剣。周囲を一瞬で消し炭にする異常な熱量。そして、いかなる干渉も許さない絶対防御の盾。
怒りに任せて爆発物や銃器を持って正面から挑んだところで、一瞬で処理されて終わるだろう。極限まで計算高い知能犯の頭脳は、どれほど激昂していても、その絶望的な戦力差だけは正確に弾き出していた。
ならば、どうすればいいか?
答えは至極簡単だ。
「……『絶対に攻撃してこない無害な人間』として、堂々と正面からあの聖域に上がり込めばいいんだ」
犯人の歪んだ瞳が、暗闇の中でギラリと悍ましい光を放つ。
標的はもはや、あの黄金の少女アリスではない。自分をコケにしたあの傲慢な男と、奴らが祭り上げている忌々しい『偽物の聖女』の首だ!
犯人は作業台に向かい、一つの凶器を恭しく取り出した。
それは、厳重な金属探知機には絶対に引っかからず、しかし人間の頸動脈を容易く切り裂くことができる、鋭利で純白なセラミックナイフ。
犯人はその白い刃を愛おしそうに指先で撫でた後、それを『ある物』の中へと慎重に隠した。
誰もが知る有名デパートの、高級な焼き菓子の詰め合わせ箱。
ナイフを隙間に忍ばせた後、さらにその上から、美しく上品な包装紙で丁寧に、何事もなかったかのように包み直していく。
完成したのは、誰が見ても『誠意の込もったお詫びの品』にしか見えない、完璧な手土産だった。
「……謝罪に向かおう。全国放送を騒がせてしまった、お詫びのために」
犯人は水道の蛇口を捻り、自らの血が滲んだ手を丁寧に洗い流す。
赤く染まった水が、やがて透明に変わっていく。
そして、身支度を完璧に整えた犯人は、洗面台の鏡の前で自身の顔をじっと見つめた。
そこに映っているのは、猟奇殺人鬼の狂気など微塵も感じさせない、善良で、真摯で、社会的信用に満ち溢れた『完璧な仮面』である。
テレビ局の謝罪という、誰も疑いようのない大義名分。
警戒心すら抱かせない、完璧な手土産。
どんな能力者であろうと、社会的な常識という名の分厚い壁の前に、必ず隙を見せるはずだ。
「待っていろよ、偽物のゴミ共。――最高の笑顔で、貴様らの首を掻き切ってやる」
鏡の中の自分に向かって、犯人はひどく歪んだ、しかし表向きは誰からも愛される完璧な笑顔を作ってみせた。
偽りの小箱を大事そうに抱き抱え、泥色の悪意が、自ら死地へと足を踏み出す決意を固めた瞬間だった。
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