第76話 聖女の庭
アメリカ大統領による『五十パーセントの追加関税』発表から数時間後。
港区の廃校跡地は、完全な無法地帯と化していた。
「源田! 日本経済を人質に取る気か!」
「魔法をアメリカに無償提供して、国難を救え!」
鉄門の向こう側には、マイクを突きつける無数の報道陣と、ネットの扇動に乗せられて集まった暴徒たちが群れを成している。パトカーのけたたましいサイレンと、国賊を糾弾する身勝手な正義の怒号が、初夏の空気をビリビリと震わせていた。
しかし、その狂乱の波が敷地内に届くことはない。
門の前に立つ一人の女性――真壁が、涼しい顔で『絶対防御』を展開し続けているからだ。
目に見えない強靭な境界線は、フラッシュの光も、投げつけられたペットボトルも、人々の悪意に満ちた罵声も、そのすべてを無機質に弾き返す。女性離れした肝の据わり方を見せる彼女の背後で、三上と剣崎もまた、一切の動揺を見せずに不測の事態に備えていた。
「……騒々しいな」
ふいに、プレハブ小屋の方向から静かな声が響いた。
源田である。彼が単身で門の前に姿を現した瞬間、外の群衆は一瞬だけ息を呑み、次いでさらに激しいフラッシュの瞬きと怒号を浴びせかけた。
「源田代表! アメリカの要求に応じるつもりは――」
矢継ぎ早に飛んでくる質問を、源田は片手で制した。
その視線は、目の前の有象無象には向けられていない。無数のカメラのレンズ越しに、その先にいる『世界』の首魁たちへと真っ直ぐに向けられている。
源田の瞳には、一切の熱がない。ただ、極寒の深淵を覗かせるような、底冷えのする理知的な光だけが静かに瞬いていた。
「アメリカ合衆国が自国の利益を守るため、五十パーセントの関税という手段に出たことは理解した。……ならば、我々も我々のルールに従い、正当な防衛措置をとるまでだ」
源田のよく通る低い声が、マイクを通じて世界中に配信されていく。
「日本国への追加関税が完全に撤廃されない限り――当『ヒール屋』は、米国籍を持つ全患者に対する魔法医療の提供、および新規予約を、この瞬間から無期限に凍結する」
その言葉の意味を理解した瞬間、現場の報道陣が水を打ったように静まり返った。
経済の盾で殴ってきた巨大国家に対し、源田は『命』という、どんな大富豪であっても金では決して買えない絶対的なカードを突きつけたのだ。
魔法を独占しているのではない。我々が、お前たちの命の選別権を握っているのだと。一回一万円という平等な奇跡は、相手の出方次第で最も残酷な刃へと変わる。源田の射抜くような眼差しが、無言の威圧となってカメラの向こう側を貫いた。
◇
一方、その頃。
プレハブ小屋の休憩室では、外界のヒリつくような情報戦などまるで存在しないかのような、のどかな空気が流れていた。
「よいしょ、こっちはツナマヨで、こっちは梅干し……っと」
ヒミコがテーブルの上にラップを広げ、せっせと大量のおにぎりを握っている。
その様子を呆れたように見ていたレイナが、ため息をついた。
「ヒミコ、何十個作ってるのよ。さすがのあんたでも食べきれないでしょ」
「ううん、違うよ。これ、お外の人たちの分」
ヒミコは手にご飯粒をつけたまま、窓の外を指さした。
「外の人たち、ずっと立ちっぱなしで、お顔真っ赤にして大きな声出してるでしょ。あれ、きっとお腹がぺこぺこで怒ってるんだよ。だから、これ食べさせてあげようと思って」
「……はぁ?」
レイナは絶句し、思わず『心眼』を凝らした。
鉄門の外で渦巻いているのは、自分たちの権利ばかりを主張する、ドス黒く暴力的な欲望の色だ。しかし、目の前で嬉々としておにぎりを握るヒミコから立ち上っているのは、それらをすべて包み込んでしまいそうなほど、温かく眩い黄金色の光だった。
自分に理不尽な暴力を向けてくる相手にすら、一ミリの疑いもなく純粋な善意を向けようとする。権威や正論など最初から眼中にない、規格外の『聖女』の在り方。
(……本当に、敵わないわね)
レイナは毒気を抜かれたように小さく笑い、ヒミコの隣に並んで不器用におにぎりを握り始めた。
◇
源田の会見が世界中に配信された直後。
海の向こうのアメリカ国内では、未曾有のパニックが巻き起こっていた。
魔法治療の順番を待っていた政財界のトップや、不治の病に侵された巨大企業のCEOたちが一斉に青ざめ、自国のホワイトハウスに向けて猛烈な抗議と脅迫を始めたのだ。日本を追い詰めたはずの関税という刃は、瞬く間にアメリカ自身を内部から崩壊させる猛毒へと変わっていた。
そんな世界規模の地殻変動が起きていることなど、知る由もない。
会見を終えてプレハブ小屋に戻ってきた源田に向かって、ヒミコが満面の笑みで駆け寄った。
「ゲンさん、おにぎりできたよ! みんなで食べよ!」
血で血を洗う権力闘争の世界に、再びツナマヨの平和な香りが満ちていく。
どんな逆風が吹こうとも、この聖女の庭だけは、誰にも侵すことはできないのだ。
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