第73話 道しるべの紅
季節が少し進み、初夏の風が熱を帯び始めた頃。
おばあさんの病状は急激に悪化し、ついにベッドから起き上がれなくなってしまった。
駆けつけたヒミコは、苦しげな息を吐くおばあさんの胸元に両手をかざす。
「おばあさん、痛いの、なくすから」
しかし、力なく持ち上がったしわがれた手が、ヒミコの純白の魔力を優しく押し留める。
「……いいのよ、聖女様。もう、充分だから」
頑なな、けれど穏やかな拒絶。
動くことすらままならないおばあさんは、枕元を視線で示し、あの色褪せた巾着袋を取ってほしいと懇願する。
ヒミコが中から取り出したのは、一本の古い口紅だった。
それは、おばあさんがいつも引いていた淡いピンク色とはまったく違う、目が覚めるような真っ赤な色をしている。
「私が、死んだら……この赤い口紅を塗って、見送っておくれ」
それが、おばあさんがヒミコに託した最後の願いとなる。
そして数日後、おばあさんは愛する夫に見守られながら、静かにこの世を去っていった。
◇
深い悲しみに包まれる静寂の中。
ヒミコとレイナの手によって、眠るおばあさんの唇に真っ赤な口紅が引かれていく。すっかり血の気を失った青白い肌に、その紅は痛々しいほど鮮やかに、そして美しく映えていた。
その傍らで、おじいさんがぽつりぽつりと静かに語り始める。
「……その赤い口紅はね、死んだあの子が、母の日に、ばあさんに贈ったものなんだよ」
『お母さんは真っ赤なバラみたいに綺麗だから』
そう言って無邪気に笑う息子からの、初めてのプレゼント。
「だけど、ばあさんの好みの色は薄いピンク色でね。もったいないからって、一度も塗ってやらないうちに……あの子は、事故で逝ってしまった」
おじいさんの声が、微かに震える。
「死ぬ時、あの子がくれたこの口紅を塗っていれば……あの子がそれを『道しるべ』にして、私を迎えに来てくれるだろうか。ばあさんはずっと、その後悔と祈りをあの袋に抱えて生きていたんだよ」
眠る妻の真っ赤な唇を見つめ、おじいさんは顔を覆う。
「ばあさんは、ちゃんとあの子に会えただろうか……」
しわがれたその呟きが落ちた瞬間。
ヒミコは眠るおばあさんに向かって両手を真っ直ぐにかざし、透き通るような声で新たな魔法の言葉を紡ぎ出した。
「神聖」
それは、傷ついた肉体を治癒する物理的な力ではない。この世に残る強い想いと、神聖なる魂そのものを、ほんのひと時だけ具現化させる奇跡の輝き。
ヒミコの手から溢れ出したまばゆい光の粒子が、部屋全体を温かく包み込んでいく。
光が渦を巻き、やがてベッドの傍らに一つの小さなシルエットを結ぶ。
そこに現れたのは、半透明に透き通った、幼い男の子の魂だった。
男の子は、真っ赤な口紅を引いたおばあさんの顔を見つけると、花が咲いたような満面の笑みを浮かべる。
『お母さん! 見つけた! 迎えに来たよ!』
無邪気な声が、確かに室内に響き渡る。
光の粒子の中で二つの魂が優しく重なり合い、やがて一つになって、天高くへと昇っていく。
その幻想的な光景を前に、おじいさんはたまらずその場に崩れ落ちた。
「逢えたのか……逢えたのか……っ」
ボロボロと大粒の涙をこぼし、何度も何度も震える声で繰り返す。その涙は、長年抱え続けてきた深い悲しみが、眩い光の中でようやく救済された証でもあった。
◇
それから、しばらくの時が過ぎたある日。
ヒミコたちの住む館を、おじいさんが一人で訪ねてくる。
出迎えた源田とヒミコに対し、おじいさんは深々と頭を下げた。
「ありがとう。……あの廃校跡地、あんたたちに使ってほしいんだ」
思いがけない申し出に、レイナが驚きに目を丸くする。
「それが、ばあさんと息子が一番喜ぶことかもしれないと、そう思ってね」
源田は、眼光を驚くほど静かに和らげ、
「……ありがたく、お預かりします」
と深く頭を下げる。強引な手段ではなく、純粋な祈りの結果として、新時代の拠点が彼らに託された瞬間である。
帰り際。
館の門を出たおじいさんは、ふと高く澄み渡った空を見上げる。
そして、少しだけおどけたように、けれど底知れぬ深い愛を込めて、ぽつりと呟いた。
「俺も口紅ぬれば……あいつらに、逢えるかな」
初夏の風が、おじいさんの背中を優しく撫でて通り過ぎていった。
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