第72話 代わりのいない場所
土地の買収を断念してから数日。
ヒミコは治癒の仕事の合間を縫って、港区にあるあの廃校跡地を幾度か訪れていた。
初夏を思わせる柔らかな午後の陽だまり。守衛室跡の庭先には、車椅子に座るおばあさんと、その隣で穏やかに笑うおじいさんの姿がある。
おばあさんの唇に引かれているのは、いつものように淡く美しいピンク色の口紅。そしてその手からヒミコへと手渡されたのは、丁寧に握られたツナマヨおにぎりだった。
「……おいしい。おばあさんのツナマヨ、好き」
「ふふっ、そうかい。いっぱいお食べ」
両手でおにぎりを持ち、幸せそうに頬張る白銀の少女。
少し離れた場所では、源田が鋭い眼光を崩さないまま、しかしその佇まいには静かな安らぎを湛えて二人の時間をひっそりと見守っている。
「ヒミコちゃん」
おばあさんは、もぐもぐと口を動かすヒミコの白銀の髪を優しく撫でながら、ふと問いかけた。
「あなたのご両親は? お父様やお母様は今、どこにいらっしゃるの?」
ヒミコは口の中のツナマヨを飲み込み、パチリと瞬きをする。
そして、どこか遠くを見るような透き通った瞳で、淡々と答えた。
「……父様はいたけど、今はもう会えない。お母さんは、一度も見たことがない」
その言葉の響きに宿る、底知れぬ孤独。
おばあさんは小さく息を呑むと、膝の上に置かれた色褪せた巾着袋――亡き息子の形見――に触れていた手を伸ばし、そっとヒミコの小さな背中をさする。
「……そう。でもね、ヒミコちゃん」
慈しむような、ひだまりのように温かい声。
「あなたには、もう立派な家族がいるじゃない」
家族。
その言葉に、ヒミコは不思議そうに小首を傾げる。
そして、おばあさんの優しい視線の先、自分を見守ってくれている面々を一人ずつゆっくりと思い浮かべていった。
常に自分を律し、間違いのない正しい場所へと導いてくれる源田。
豊かな感情と、女の子としての喜びを教えてくれる姉のようなレイナ。
無口だけれど、影のように寄り添い必ず守ってくれる剣崎。
どんな攻撃の前にも立ち塞がり、決して揺らがない盾となってくれる真壁。
いつも騒がしくて、だけどたくさん笑わせてくれる三上。
ヒミコの胸の奥底が、ツナマヨおにぎりとはまったく別の、ぽかぽかとした心地よい熱で満たされていく。
(……そっか。みんな、家族なんだ)
少し離れた場所でその光景を見ていたレイナは、思わず目頭を熱くする。
彼女の『心眼』には、はっきりと映っていた。ヒミコと自分たち仲間の間に、おばあさんの不格好なおにぎりから立ち上るのと同じ、温かく力強い「絆の色」が幾重にも結ばれていくのが。
ヒミコは手の中のおにぎりを最後の一口まで大切に食べ終えると、トコトコと源田の元へ駆け寄った。
そして、彼の漆黒のコートの裾を小さな手できゅっと引く。
「ゲンさん」
「……どうした」
「私、あのおばあさんたちみたいに、みんなが笑っておにぎりを食べられる学校にしたい」
それは、誰かに言わされたわけではない。
ヒミコという少女が、自らの意志で口にした「理想」だった。
源田はその純粋な瞳を見つめ返す。
利益の追求、圧倒的な効率、あるいはかつて喪った最愛の娘への狂おしい贖罪。これまで源田を突き動かしてきたのは、常に過去の影と冷徹な計算式だったはずだ。
しかし、今目の前で無垢な願いを口にするヒミコを見た瞬間、源田の心にまったく新しい、静かで熱い灯火が宿る。
過去の幻影に縛られるのではなく、今、ここにいるこの少女の純粋な願いを叶えること。それこそが、自分に課せられた真の使命なのだと。
源田の鋭い眼光の奥から、過去の痛みが静かに溶け落ちていく。
彼は父親のような、それでいて絶対的な守護者のような揺るぎない眼差しでヒミコを見下ろし、静かに力強く頷いた。
「……ああ。最高の学校にしよう」
利益や理屈を超えた、代わりのいない場所。
それを創り上げるための本当の戦いが、ここから始まろうとしていた。
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