第71話 拒絶された福音
昨日の交渉決裂を経て、源田たちは再び港区の廃校へと足を運んだ。
夕暮れ時の静かな校庭。
守衛室跡の前には、昨日と同じように車椅子に座るおばあさんの姿がある。その唇に引かれているのは、今日を生きる証のような淡いピンク色の口紅。膝の上では、色褪せた一色の巾着袋が大切そうに抱きしめられていた。
「聖女様、昨日はごめんなさいね。大したおもてなしもできなくて」
穏やかな微笑みとともに、傍らの竹籠からアルミホイルで包まれたおにぎりが取り出される。
レイナが密かに『心眼』を凝らして見つめたのは、その不格好なおにぎりからふわりと立ち上る、温かな桃色の光。膝の上の巾着袋――かつて幼い息子から贈られた母の日のプレゼント――から発せられるのと同じ、深く純粋な慈愛の色だった。
「これ、食べておくれ。私の手作りだけどね」
「……ありがとう」
ヒミコは両手でおにぎりを受け取り、大きな口を開けて頬張る。
「ん……おばあさんの手、すごくあったかい。おいしい」
無邪気に笑う白銀の少女を見て、おばあさんも嬉しそうに目を細める。
その時。
おばあさんの膝にそっと触れたヒミコの動きが、ピタリと止まった。
「……おばあさん、体、すごく痛いんだね」
ヒミコの純白の魔力が、おばあさんの体を蝕む絶望的な病魔の正体を正確に捉えていたのだ。ただの老いなどではない。車椅子に彼女を縛り付けているのは、全身に転移し、静かに命を削り取っている末期の癌。
常人であれば立っていることすら不可能なほどの激痛を、このおばあさんは気丈な笑みとピンク色の口紅で隠し通している。
「痛いの、私が治してあげる。一万円で、全部きれいに消えるよ」
真っ直ぐにおばあさんの目を見つめ、無垢な奇跡を提示するヒミコ。
傍らに立つ老理事が「え……」と息を呑んだ。源田は鋭い眼光を僅かに細め、その成り行きを静かに見守る。どんな重病であろうと、ヒミコの力にかかれば、文字通り一瞬で真新しい命へと再定義されてしまうのだから。
しかし。
驚いたように目を見開いたおばあさんが浮かべたのは、悲しいほど穏やかな笑みだった。そして、ヒミコの小さな手をそっと優しく退ける。
「ありがとう、優しい聖女様。でもね……この病気は、治さなくていいの」
「……え?」
ヒミコがパチリと瞬きをした。
これまで、どんな権力者も大富豪も、彼女の奇跡にすがりつき、涙を流して感謝してきたはず。治ることを真っ向から「拒絶」されたのは、ヒミコにとってこれが初めての経験である。
「どうして? 痛いの、辛くないの?」
「辛いわよ。でもね……」
おばあさんの手が、膝の上の色褪せた巾着袋を愛おしそうに撫でていく。
「この痛みがあるから、私はあの子がいない寂しさを忘れないでいられるの。体が動かなくなったおかげで、この学校の思い出の中に、私はずっと留まっていられる」
そして、おばあさんは茜色に染まる空へと静かに視線を向けた。
「それにね……この痛みの先に行けば、ようやくあの子に会える気がするのよ。ずっと待たせているから、早く抱きしめてあげなくちゃ」
治ってしまえば、あの子の元へ行く時間が遠のいてしまう。
死を受け入れてでも思い出を守り、愛する息子との再会を待ち望む、静かで気高い狂気。不自由な体と削られていく命こそが、彼女にとって亡き息子と繋がっているための、そして彼のもとへ旅立つための切符なのだ。
困惑したように眉を寄せたヒミコは、おばあさんの瞳の奥にある決して揺るがない『意志』の強さに圧倒されていた。
その光景を黙って見つめていた源田の脳裏に、ふと蘇る記憶。
かつて冷たい雨の中で最愛の娘を亡くした日。絶望の中で立ち止まり、前に進むことすら罪だと感じていた、あの頃の自分。もしあの時、自分も死の淵に立っていたなら、喜んで娘の元へ行くことを選んだのではないか。
理論や利益では決して測れない「思い出への忠誠」。病魔に侵され、命を落とすことすらも救いになり得るという人間の業の深さを、源田は誰よりも痛烈に理解できてしまう。
「……ヒミコ。そこまでにしておけ」
夕暮れの校庭に、低く落ち着いた声が響き渡った。
源田の鋭い眼光には、いつもの冷徹な弁護士としての非情さはない。同じ痛みを知る一人の父親としての、静かな敬意。彼もまた、この理屈を超えた強固な絆を前に、二度目の敗北を静かに受け入れていたのだ。
ヒミコは源田の顔を見上げ、再びおばあさんへと向き直る。
奇跡を拒まれた理由が、まだ完全にはわからない。それでも、ヒミコはおばあさんの手をそっと握り返した。
「……わかった。治さない。でも、またおにぎり食べに来てもいい?」
その言葉に、おばあさんは淡いピンク色の唇をふわりと綻ばせる。
「ええ。いつでもいらっしゃいな」
魔法学校のための土地買収という目的は、完全に果たされずに終わった。
しかし、札束でも理論でも、そして奇跡の魔法でさえも買えない尊い絆。それが茜色に染まる追憶の学び舎に、確かに刻まれていた。
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