第64話 無垢なる断罪と、お菓子の半分
クライ国の首都の空から、重く垂れ込めていた死の影が完全に消え去った。
数日前まで空襲警報と絶望の悲鳴が響いていた街には今、復興へ向けた活気と、純白の「聖女」を讃える感謝の歌声が満ち溢れている。
大統領府の広々とした一室には、国民から届けられた山のような感謝の品々が所狭しと並べられていた。
色鮮やかな地元の果物、砂糖をふんだんに使った伝統菓子。そして何より目を引くのは、こんがりと黄金色に揚げられた大きな「特製ツナ入りピリジィキ」の山だった。
「ん……これ、美味しい」
ふかふかのソファに座ったヒミコは、両手で持った熱々のピリジィキをサクッと頬張り、幸せそうに目を細めていた。
ツナの旨味と生地の甘みが口いっぱいに広がり、彼女の真っ白な頬がふわりと緩む。
ヒミコはふと手を止めると、周囲で警戒を解いてくつろいでいる護衛チームの面々を見回した。
「ゲンさん、三上、みんなも食べて。これ、すごく美味しいよ」
かつての彼女は、他人に何かを勧めることなど決してない、ただ命令に従って対象を「お掃除」するだけの無機質な存在だった。それが今、自分の「美味しい」という感情を、他者と分かち合おうとしている。
その様子を部屋の隅から見守っていたレイナは、そっと『心眼魔法』を発動させた。
レイナの透き通った瞳に、ヒミコの魂の色が映し出される。
出会った当初の、何も持たない「虚無の純白」。それが今はどうだろう。三上の人の良さ、真壁や剣崎の不器用な優しさ、そして何より源田の与えた「ツナマヨ」の温もりに触れた彼女の魂には、淡い桃色や柔らかな黄金色がマーブル模様のように溶け込み、確かな「人間」としての輝きを帯び始めていた。
(……ヒミコ、すごく綺麗な色になってる)
レイナが微笑みを深めた一方で、彼女の視界の端――厳重にロックされた隣の監禁室からは、対極の色彩が微かに漏れ出していた。
全財産を源田に合法的に剥ぎ取られた独裁者、グロモフの魂だ。かつて世界を焼き尽くそうとしたどす黒い悪意すら枯れ果て、今の彼に残っているのは、ただ怯えて震えるだけの「ちっぽけな灰色の影」でしかなかった。
◇
尋問の合間の、静寂に包まれた時間。
ヒミコはふらりとソファを立ち上がると、見張りの三上が止める間もなく、グロモフのいる監禁室の扉を開けた。
「……何の用だ」
薄暗い部屋の中、椅子に力なく座り込み、虚空を見つめていたグロモフが掠れた声を出す。世界最強の権力者だった男は、わずか数時間ですっかり生気を失い、ただのひどく老け込んだ老人へと成り下がっていた。
ヒミコは何も言わず、とてとてと彼の正面まで歩み寄った。
そして、手に持っていた丸い伝統菓子を、パキッと綺麗な音を立てて二つに割った。
「……これ、美味しいよ」
ヒミコは、割ったお菓子の半分を、グロモフの目の前にすっと差し出した。
「半分、あげる」
グロモフは息を呑み、目を見開いた。
毒が入っているのか、それとも敗者への残酷な嘲笑か。疑念が頭を過ったが、目の前に立つ少女の大きな瞳には、憎しみも、哀れみも、優越感すら一切存在しなかった。
そこにあるのはただ、「お腹を空かせた、可哀想なおじいさん」にご飯を分けてあげようとする、残酷なまでの「無垢」だけだった。
「あ……」
気がつけば、グロモフは震える両手でそのお菓子を受け取っていた。
一口かじる。素朴な甘さが、乾ききった口の中に広がっていく。
自分が核の炎で焼き尽くそうとした世界は、こんなにも温かく、優しい味で溢れていたのだ。その事実が、今更になって彼の胸を激しく締め付けた。
自分は一体、何と戦い、何を支配しようとしていたのか。
少女の絶対的な無垢の前に、己の大罪と、今の自分の救いようのない惨めさが浮き彫りになる。
「う……ううっ……」
世界を恐怖で支配した独裁者は、お菓子の欠片を握りしめたまま、子供のように声を殺して泣き崩れた。
◇
監禁室から戻ってきたヒミコを、源田が静かに迎えた。
凄腕弁護士は、何も言わずにヒミコの白銀の頭にポンと手を置き、ぶっきらぼうに軽く撫でた。
「情を移すなよ。あいつはまだ、日本政府への天文学的な請求額を確定させるための、大事な『担保』なんだからな」
口から出る言葉は相変わらず冷徹なビジネスマンのものだったが、その鋭い眼差しには、仲間たちを見守る父親のような、あるいは群れを守るボス狼のような、確かな温かさが宿っていた。
「ゲンさん、甘いですね」
と三上が苦笑し、真壁と剣崎も肩の力を抜いて微かに口角を上げている。
レイナもまた、平和な光に満ちたこのチームの空気を、心地よさそうに深呼吸して味わっていた。
やがて、大統領府のバルコニーから差し込む光が、黄金色の夕暮れへと変わっていく。
眼下には、復興の槌音と人々の笑い声が響く、平和なクライ国の街並みがどこまでも広がっている。
「……ゲンさん」
夕日に照らされてオレンジ色に染まったヒミコが、源田のコートの裾をちょこんと引っ張って見上げた。
「明日も、ツナマヨある?」
その間の抜けた、けれど平和そのもののような問いかけに、源田は呆れたように小さく息を吐き、不敵な笑みを浮かべて答えた。
「ああ。日本に帰ったら、嫌というほど食わせてやるよ」
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