第56話 魂の期限と、狂気への点火
泥濘の上に倒れていた大男が、自らの足で立ち上がった。
弾丸に撃ち抜かれたはずの胸には傷一つなく、ただ真っ新な皮膚だけがそこにあった。
奇跡を通り越した、神の領域の御業。
だが、それを見届けた源田壮一郎の横顔に感傷はなかった。彼は生き返って泣き崩れるアントンを一瞥すると、傍らに立つ純白の少女を見下ろした。
「……ヒミコ。一つ聞かせろ」
源田の低く静かな声に、ヒミコは首を傾げた。
「その『お掃除』……死人を治すのに条件はあるのか。誰でも、どんな状態でも、いつでも生き返らせることができるのか?」
それは、この奇跡の「商品価値」を決定づける最も重要な質問だった。
ヒミコは自分の小さな手のひらを見つめ、淡々と答える。
「……魂に、記憶が残っている間だけ」
「記憶?」
「うん。自分が自分だって、覚えている間だけ。記憶が消えて、ただの空っぽの箱になっちゃったら、もうお掃除できないの」
なるほど、と源田は小さく息を吐いた。
肉体が滅んでも、魂が完全に霧散するまでのわずかな時間。その「鮮度」が保たれている間だけ、彼女の力は死という不可逆の現象を巻き戻すことができる。
完全な不老不死ではない。だが、だからこそ、その期限付きの奇跡は、世界中の権力者を狂わせるほどの絶対的な価値を持つ。
事実、この瞬間、世界は完全に停止し、そして狂乱の渦へと突き落とされていた。
ドローン中継を通して「死の超越」を目撃した数十億の人間たち。
SNSのサーバーは物理的に悲鳴を上げてダウンし、各国の株式市場では生命保険会社や巨大医療メーカーの株価が一瞬にして大暴落を起こした。
宗教界は「再臨した救世主か、神への冒涜か」で内乱寸前の議論に陥り、狂信的な一部の教団はクライ国へ向けて大規模な巡礼の準備を始めている。
そして何より、各国の首脳陣と諜報機関がパニックに陥っていた。
「一万円で死が取り消せる」ならば、軍隊はもう死を恐れない。国家に忠誠を誓うのではなく、ヒミコという少女を崇拝するようになる。
共和国、大国アメリカ、そして欧州の暗部で、同時多発的にレベル5の特命が下された。
――「日本の聖女を確保せよ。他国に渡るくらいなら、抹殺しろ」と。
◇
連邦国の首都、地下深くのシェルター。
独裁者であるグロモフ大統領は、モニターの中で立ち上がるアントンの映像を凝視したまま、ガタガタと震えていた。
手にしたグラスから、高級なウォッカが床にこぼれ落ちていることにも気づかない。
「ありえない……死から、蘇るだと……?」
グロモフの権力の源泉は、恐怖だ。
逆らう者は殺す。その絶対的な「死の恐怖」があるからこそ、広大な国家を支配できていた。
だが、あの少女はたった一万円で、死という国家最大の罰を無効化してしまった。
「あんな小娘が生きていれば、兵士は俺を恐れなくなる……。国家の秩序が、恐怖が、崩壊する……っ!」
グロモフは血走った目で、傍らに立つ青ざめた将軍を睨みつけた。
「あれは人間ではない! 国家を根底から腐らせる毒だ! 通常兵器で勝てないなら、灰にするまでだ!」
「だ、大統領閣下、まさか……」
正気を完全に失ったグロモフは、机の上にあった厳重なロックが施されたケースに手を伸ばした。
自分が支配できない世界など、終わらせてしまえばいい。
独裁者の震える指先が、封印されていた最終兵器――戦略核ミサイルの起動シーケンスへと触れた。
◇
再び走り出した装甲バスの車内。
シートに座らされたアントンは、まだ自分の温かい手を見つめ、信じられないというように呆然としていた。
その向かいの席で、レイナは息を呑んでいた。
彼女の心眼が捉えるアントンの姿は、先程とは全く違うものになっていたからだ。
家族のために人を殺めたという、どろどろとした紫色の悪意と絶望の煤。ヒミコの「お掃除」は、彼を狂わせていたその暗い感情だけを綺麗に洗い流していた。
決して消えることのない「人を殺めた」という静かなる後悔だけを魂の底に残し、今のアントンの魂は、まるで生まれたての赤ん坊のように、透き通るような純白の光を放っている。
世界を根底から覆し、一人の男の魂まで洗い上げた最強の少女。
その本人はといえば、バスの座席で寝転がりながら、源田のスーツの裾をきゅっと引っ張っていた。
「……ゲンさん」
「なんだ。まだ休まなくていいのか」
「……お掃除したら、すっごくお腹すいた。おにぎり、たべたい」
これだけの偉業を成し遂げても、彼女の世界の尺度は「おにぎり」から一切ブレていない。
呆れ果てて源田がため息をつこうとした、その時だった。
源田のスマートフォンが、けたたましい警告音を鳴らした。
画面には『市ヶ谷総理(緊急)』の文字。
通話ボタンを押した瞬間、普段は冷静な市ヶ谷総理の、悲鳴のような声が車内に響き渡った。
『源田君、逃げて! 今すぐそこから離れなさい!』
「……どうした。ツケの支払いを渋る電話なら後にしてくれ」
『違うわ! 我が国の偵察衛星が、連邦国のミサイルサイロの異常な熱源を捉えたの! グロモフが狂ったわ……彼、あなたたちに向けて核兵器のスイッチを押す気よ!!』
核。
その単語が出た瞬間、運転席の三上も、剣崎も、レイナも顔色を失った。
魔力で大気を消し飛ばそうと、神速の剣で部隊を斬り捨てようと、都市を丸ごと蒸発させる核の業火の前では、ただのチリに等しい。
常に冷徹な計算で動く源田の顔に、初めて明確な「焦燥」が走った。
彼はスマートフォンを握り潰さんばかりに力み、血相を変えて叫んだ。
「三上、バスをUターンさせろ! 全速力でこの空域から離脱するんだ!」
普段の悪徳商人の余裕など微塵もない。源田は傍らにいたヒミコの小さな肩を、両手で強く掴んだ。
その手は、微かに震えていた。
「ヒミコ、よく聞け。今度ばかりは相手が悪い。万が一の時は、お前だけでも……っ」
自分たちを犠牲にしてでも、この無垢な少女だけは生かす。
法と金しか信じなかった男が、いつの間にか抱いていた不器用な親心が、その言葉には溢れていた。
だが、ヒミコは源田の震える手を、自分の小さな両手でそっと包み込んだ。
「……逃げないよ」
感情の欠落した瞳。けれどそこには、確かな意志の光が宿っていた。
「ゲンさんも、レイナも、三上も、真壁も、剣崎も。……みんなが壊れちゃうのは、ダメ」
ヒミコは窓の外、不吉な閃光の予感を孕んだ空を真っ直ぐに見上げた。
「すっごく大きなお掃除で、疲れちゃうかもしれないけど。……私が、みんなを守る」
それは、ただの治癒ではない。
破滅の炎すらも白紙に戻そうとする、最強の少女による絶対的な「庇護」の宣言だった。
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