第117話 聖女の日常
魔導科学技術局での魔石提供という朝の重要な日課を終えたヒミコは、源田に手を引かれながら学院の広大なグラウンドへと向かっていた。
抜けるような青空の下、グラウンドには制服やジャージに身を包んだ生徒たちが整然と列を作って並んでいる。激動の特訓を経て、彼らの顔つきには以前よりもずっと頼もしい自覚と自信が宿っていた。
朝礼の時間が始まり、学院のトップであるヒミコが小さな足取りで朝礼台の階段を上る。
全校生徒の視線が、小柄で無表情な白金の少女に集中した。ヒミコは自分の背丈に合わせて低くセッティングされたマイクの前に立つと、眠そうにまばたきを一つして、ゆっくりと口を開いた。
「……ん。今日も怪我しないように… おにぎりはよく噛んで食べるように…」
それは、世界を裏で牛耳るかもしれない魔法学院のトップのものとは思えない、あまりにも短く、そして緊張感の欠片もない訓示だった。
しかし、その短い言葉の中に彼女の嘘偽りのない優しさと、決してブレることのない平和な価値観が詰まっていることを、生徒たちは痛いほど知っている。張り詰めていたグラウンドの空気がふっと緩み、あちこちから毒気を抜かれたような温かい笑みと小さな拍手が巻き起こった。
朝礼台の傍らで控える源田もまた、見事な訓示だったとばかりに、保護者のような顔で深く静かに頷いている。
朝礼が終わると、ヒミコの本業とも言える『ヒール屋』の営業が始まる。
学院の敷地外縁に設けられた診療所の前には、今朝もすでに長い列ができていた。藁にもすがる思いでやってきた重病の患者や、怪我を負った信徒たちだ。
源田が元エリート弁護士としての冷徹なビジネスセンスと手際で列を整理し、一人一万円という、現代医療の常識を根底から破壊する破格の料金を徴収していく。
診察室の中央で小さな丸椅子に座ったヒミコは、次々と入ってくる患者たちに淡々と手をかざしていく。
「……ん。ヒール」
淡い桜色の光が患者の体を包み込んだ瞬間、長年苦しんできた難病や、現代の医学では切断するしかなかった大怪我が、まるで魔法の消しゴムで汚れを消したかのように「新品」の状態へと書き換えられていく。
車椅子から立ち上がり、信じられないといった顔で自分の足を見つめ、大粒の涙を流して床に伏して感謝を叫ぶ患者たち。そんな奇跡の光景を前にしても、ヒミコは表情を変えることなく「……ん。お大事に」とマイペースに告げ、次の患者を呼び込むだけだ。
どれほどの奇跡を起こそうとも驕らず、日常の作業のように人を救う。それが彼女の尊き日常風景だった。
太陽が真上に昇り、昼休みを告げるチャイムが鳴り響く。
ヒミコが一番楽しみにしている時間だ。彼女は源田を伴って賑やかな学食へと移動し、生徒たちに混ざってテーブルについた。
厨房から特別なトレイで運ばれてきたのは、ヒミコ専用の特別メニュー「日替わりおにぎり定食」である。
本日は鮭マヨネーズ、おかか醤油、そして定番のツナマヨという豪華な三連星。付け合わせには出汁の効いた厚焼き玉子と温かいお茶が添えられている。
「ヒミコ様、本日もお召し上がりになっているお姿が尊すぎます……っ! その米粒一つ一つに神の祝福を!」
向かいの席に座った三上翔が、自分のカツカレーには手もつけず、両手を合わせて涙ぐみながら拝み倒している。
「ちょっと三上教官、ヒミコ校長が食べにくいじゃない。静かにしなさいよ」
隣に座る神楽が呆れたように三上を小突く。彼女は世話焼きな性格を発揮し、ヒミコのお茶の湯呑みが空になっていないか気にかけていた。
その隣では、上品にサンドイッチをつまんでいたアリスがふんわりと微笑む。
「でも、ヒミコお姉様が美味しそうにご飯を食べているのを見ると、本当に平和になったんだなって実感しちゃいます。私たちも、もっと訓練を頑張らなくちゃっ!」
「……ん。アリスたち、無理はだめ。怪我したら、また治すの面倒だから」
ヒミコが鮭マヨおにぎりを頬張りながら、もごもごと答える。
その言葉の裏にある不器用な思いやりに気付いているアリスや神楽たちは、嬉しそうに顔を見合わせて笑った。三上や神楽、アリスといった生徒たちと他愛のない会話を交わしながら食べる昼食は、ヒミコにとっても心地のいい時間だった。激動の特訓を乗り越えた学院には、確かに穏やかで平和な時間が流れている。
しかし、その平和な日常は、午後の診察中に突如として破られることになった。
再びヒール屋に戻り、数人目の患者を治癒し終えたところで、源田の胸ポケットで特殊な通知音が鳴り響いた。魔導科学技術局の木島からの、最高優先度の直通回線である。
通話に出た源田の顔色から、一瞬にして冷徹なビジネスマンの余裕が消え去った。
「……何だと? 分かった、すぐに行く」
源田は通話を切ると、待合室の患者たちに本日の営業終了を冷徹に告げ、ヒミコを抱き上げるようにしてラボへと急行した。
ただ事ではない気配を感じたヒミコも、大人しく源田の腕の中に収まっている。
厳重なセキュリティゲートを強行突破気味に抜け、ラボの最奥のフロアへ飛び込む。
そこには、朝以上の異様な熱気と興奮に包まれた木島と助手たちがいた。そしてフロアの中央には、十メートルほどの距離を置いて向かい合うように設置された、二つの巨大な金属製のゲート状の機械が鎮座していた。複雑な配線と魔石が組み込まれたその装置は、不気味なほどの存在感を放っている。
「ひひっ! 来たか聖女様! そして凡人の源田よ!」
木島はボロボロの白衣を振り乱し、血走った両目を見開きながら狂喜の声を上げた。
「これを見ろ! 空間操作の概念を物理的に組み伏せた、我が局の最高傑作だ! 距離という概念の死! 世紀の実験、『きじま君3号・転移装置』の稼働を今から始めるぞ!」
その高らかな宣言は、魔法使いだけの特権であった空間跳躍を、科学の力で引きずり下ろそうとする宣戦布告だった。平和な日常の終わりに叩きつけられた魔導科学の新たな扉の出現に、源田は息を呑んだ。
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