第115話 すっぱいご褒美
木島の哀れな悲鳴が響く訓練室を後にし、田中とニコラは静かな廊下を歩いていた。
二人のジャージは汗と泥、そして先ほどの爆発による灰で薄汚れていたが、その足取りはどこか軽く、心地よい疲労感に包まれていた。
やがて、重厚な造りの扉の前に到着する。校長室である。
田中が短くノックをし、「失礼します」と声をかけて扉を開けた。
広々とした静謐な空間の中央。大きな革張りのソファに、白金の瞳を持つ少女がちょこんと座っていた。
ヒミコは二人が入ってくるのを見ると、待っていたかのようにふんわりと柔らかく微笑み、ソファから降りた。
彼女は足音を立てずにとてとてと歩み寄り、ニコラの目の前でピタリと立ち止まった。
そして、少しだけ背伸びをして、ニコラの胸の奥をじっと見つめる。
「……ん」
ヒミコは嬉しそうに目を細め、小さく頷いた。
彼女の目には、もう見えていなかった。かつてニコラの心臓の奥底で渦巻き、彼を深く苦しめていた恐怖と絶望という名の真っ黒な『煤』は、綺麗に消え去っていた。
代わりにそこには、彼が先ほど生み出した炎と同じ、静かで澄み切った青い光が宿っている。
「真っ暗な煤、もうないね。……とっても綺麗な青色になってる」
ヒミコの言葉に、ニコラは穏やかな表情で頷いた。
彼は姿勢を正し、自分よりふたまわりも小柄な少女に向かって、深く、そして真っ直ぐに頭を下げる。
「校長先生。あの地下シェルターで、俺の命と両足を救ってくれて、本当にありがとうございました」
それは、過去の絶望から救われたことへの、本当の意味での純粋な感謝だった。
「俺は今まで、あなたの奇跡に見合う完璧なエリートでいなければならないと、ずっと焦っていました。それが恩返しなんだって、思い込んでいたんです」
ニコラは顔を上げ、ヒミコの白金の瞳を真っ直ぐに見返した。
「でも、もう大丈夫です。あなたの奇跡に縋るだけの子供は、置いてきました。これからは自分の足で、自分の魔法で前へ進んでいきます」
ニコラの言葉には、迷いも気負いもなかった。
ただ、自分の弱さを認め、それを乗り越えた者だけが持つ、静かで揺るぎない強さがあった。その後ろで控える田中も、教え子の立派な自立宣言を大人として静かに、そして誇らしげに見守っている。
ニコラの真っ直ぐな決意を聞き届けたヒミコは、「うん。よくがんばったね」と優しく声をかけた。
そして小さな手を伸ばし、自分よりずっと背の高い少年の頭を、ポンポンと撫でる。ニコラは少し照れくさそうにしながらも、その優しい感触を受け入れていた。
ふと、ヒミコは何かを思い出したように振り返り、自分のデスクの上の小さな包みを手にした。
それは、海苔が巻かれた少し不格好な三角形。
「ご褒美」
ヒミコが差し出したそれを見て、ニコラは思わず目を見開いた。
かつて戦火のクライ国で、死を待つだけだった瓦礫の地下病棟。絶望の淵にいた彼に、ヒミコが差し出してくれたものと全く同じ、「梅干しのおにぎり」だった。
「……ありがとうございます」
ニコラは両手で大切にそれを受け取ると、大きく一口かじった。
途端に、強烈な酸味が口いっぱいに広がる。
「……やっぱり、すごくすっぱいですね」
ニコラは酸味に顔をしかめた。
あの日、瓦礫の中でこのおにぎりを食べた時は、声を上げて泣きじゃくった。
しかし今、すっぱいとこぼす彼の顔に涙はない。その目には、過去の呪縛から解き放たれ、未来へと進んでいく若者らしい清々しい笑顔が浮かんでいた。
窓から差し込む夕日が、三人の影を長く伸ばす。
あたたかな余韻と、すっぱい梅干しの匂いに包まれた校長室で、ニコラの長く苦しかった特訓編は美しく幕を閉じたのであった。
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