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第112話 ただの撃鉄

挿絵(By みてみん)


 訓練室の冷たい床にポツリ、ポツリと、ニコラの目からこぼれ落ちた涙が染みを作っていく。

 トラウマに縛られ、己の弱さを呪う少年の姿を、少し離れた跳び箱の上から静かに見つめている瞳があった。


 校長のヒミコである。

 彼女はとてとてと跳び箱から降りると、足音も立てずにニコラの目の前まで歩み寄った。


「……ん。ここ、また真っ暗になってる」


 ヒミコはニコラの胸のあたりをじっと見つめ、悲しげに眉を寄せた。

 彼女の目には、ニコラの心臓の奥底で渦巻く、恐怖と絶望という名の黒い煤がはっきりと見えていたのだ。


「……苦しいの、消してあげる」


 ヒミコが小さな手を伸ばし、ニコラの胸にそっと当てようとした。

 肉体の欠損を瞬時に再生させる彼女の『ヒール』は、ただの治癒魔法ではない。対象を「完全な状態」へと書き換える神の御業だ。

 もし彼女が本気でニコラの心にヒールをかければ、精神にこびりついた深い傷や、炎に対するトラウマすらも強制的にリセットし、消し去ってしまうことができる。そうすれば、ニコラはもう炎を恐れることはなくなるだろう。


 しかし、ヒミコの手が触れる直前。


「待ってください、ヒミコ校長」


 田中の大きく分厚い手が、ヒミコの小さな手を優しく、しかし確かな意思を持って制止した。


 ヒミコが不思議そうに小首を傾げる。

 田中は学院のトップである彼女に深い敬意を払いながらも、静かな、しかし力強い声で告げた。


「魔法で過去の恐怖を消し去ることは、彼にとって一番楽な道かもしれません。ですが……それでは、彼が自らの足で過去を乗り越えたことにはならない」


 田中は、泥と涙にまみれたニコラの顔を真っ直ぐに見下ろした。


「こいつは、選ばれた特待生エリートです。自分の心くらい、自分の意志で制御できる」


 それは、実戦の恐怖を知る大人から、未来ある若者への絶対的な信頼の言葉だった。

 ヒミコは田中の真剣な目と、微かに震えながらも顔を上げたニコラの目を交互に見比べた後、「……ん。わかった」と小さく頷いた。

 そして伸ばしかけた手を下ろし、再び跳び箱の上に戻って、今度は静かに見守る姿勢をとった。


 ヒミコを止めた田中は、ニコラに向き直り、プロの軍人としての冷徹な顔つきに変わる。


「いいか、ニコラ。お前は魔法使いになろうとするな。魔法という兵器を扱う、ただの『撃鉄』になれ」


「撃鉄……?」


「そうだ。引き金を引くプロセスから、感情を完全に切り離せ。炎を見るから過去を思い出すんじゃない。お前が魔法に自分の心を乗せすぎているから、フラッシュバックが起きるんだ」


 田中はニコラを立たせ、姿勢を正させた。


「これから、軍隊式の『ボックス呼吸法』を教える。戦場で極限のパニックに陥った兵士が、自律神経を強制的に落ち着かせるためのタクティカル・ブリージングだ。俺のカウントに合わせろ」


 田中が指を鳴らす。


「四秒かけて、鼻から深く息を吸い込め」


「……っ、すぅぅぅぅ……」


「そこで四秒、息を止める。……一、二、三、四。次は四秒かけて、口から細く息を吐き出せ」


「ふぅぅぅぅ……」


「完全に吐き切った状態で、また四秒止める。……よし、そのサイクルを繰り返せ」


 吸って、止めて、吐いて、止める。

 四角形ボックスを描くような規則正しい呼吸の反復。ニコラは目を閉じ、田中の低く落ち着いた声に合わせて、ひたすらに呼吸のサイクルに意識を集中させた。


 脳裏に、クライ国の戦火がフラッシュバックしそうになる。

 焦げた匂いが鼻をかすめ、パニックが頭をもたげかける。

 しかし、四秒という厳格なルールの呼吸が、そのノイズを冷徹に押し殺していく。恐怖を無理に消そうとするのではない。恐怖がそこにあることを認識した上で、分厚い鋼鉄の箱の中に閉じ込めていく感覚だ。


 やがて、ニコラの激しかった心拍数が嘘のように落ち着き、感情の波が平坦な凪へと変わった。

 ただの撃鉄。ただのシステムの一部。己をそう定義づけた瞬間だった。


「……撃て」


 田中の短い命令が飛ぶ。

 ニコラは静かに目を開け、右手の指先に意識を集中させた。

 魔力を練り上げる。しかしそこに、かつてのような焦りも、怯えも、過剰な気負いも存在しなかった。


 ポッ。


 微かな音と共に、ニコラの人差し指の先端に、小さな小さな赤い火花が灯った。

 マッチの火にも満たない、頼りない炎。

 しかしそれは、ニコラ自身の意志で完全に制御され、一切の揺らぎを見せずに静かに燃え続けていた。


 自らの力で過去のトラウマを箱に閉じ込め、魔法を生み出すことに成功したのだ。


「……できました。俺、できましたよ、田中さん」


 指先の小さな光を見つめながら、ニコラが憑き物が落ちたような顔で呟く。

 田中は短く「あぁ」と頷き、跳び箱の上のヒミコも、パチパチと音の出ない小さな拍手を送っていた。

 暴走の恐怖を乗り越えたニコラが、魔法使いとして、そして一人の戦士として、確かな一歩を踏み出した瞬間であった。



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