第110話 敗北した大人の背中
胃袋を直接握り潰されたかのような激痛に、田中慎一はグラウンドの土に這いつくばったまま動くことができなかった。
呼吸をするたびに、内臓が軋むような痛みが走る。プロの軍人として幾度も死線を潜り抜けてきた田中であっても、空間を透過して直接体内に打ち込まれた剣崎の斬撃は、全く未知の苦痛であった。
浅い息を繰り返し、なんとか立ち上がろうと身悶えする田中の視界に、小さな靴が入ってきた。
顔を上げると、白金の瞳を持つ学院の最高権力者にして校長、ヒミコがとてとてと歩み寄ってきているところだった。
ヒミコは田中の傍にしゃがみ込むと、泥に汚れた田中の背中に、小さな両手をそっと当てた。
「……ヒール」
短く、鈴を転がすような声が紡がれる。
その瞬間、温かく柔らかな光が田中の全身を包み込んだ。
先ほどまで腹の底で荒れ狂い、内臓を掻き回していたはずの激痛が、まるで冷水に溶ける砂糖のようにスッと消え去っていく。ダメージそのものが「初めから存在しなかった」かのように、田中の身体は完全な状態へと巻き戻っていた。
「あっ……」
信じられない思いで己の腹をさすりながら、田中はゆっくりと立ち上がった。
痛みはおろか、疲労すら完全に抜け落ちている。これが、魔法。いや、聖女と呼ばれる絶対的なトップが持つ、文字通りの奇跡であった。
「……ありがとうございます。お見苦しいところをお見せしました」
田中は姿勢を正し、自身よりふたまわりも小柄な少女に向けて、軍人としての深い敬礼と謝罪を口にした。無様に這いつくばった己の敗北を恥じての言葉だった。
しかしヒミコは、ふんわりと優しく微笑んで首を横に振った。
「ううん。工夫して強い相手に立ち向かう姿、とってもかっこよかったよ」
純粋なその言葉に、田中はハッとして顔を上げた。
視線を巡らせると、周囲を取り囲んでいた生徒たちの様子が、昨日とはまるで違っていることに気がついた。
昨日、大砲の撃ち方が分からず指先から火花を散らしただけの田中を、若き生徒たちは「大人は頭が固い」と失笑した。
しかし今は違う。彼らの目に侮蔑の色は一切ない。
圧倒的な達人の理不尽な技に対し、己の持つ手札を極限まで研ぎ澄まし、知恵と論理で肉薄したプロフェッショナル。その田中の泥臭くも研ぎ澄まされた戦いぶりに、生徒たちは深い敬意と熱を帯びた眼差しを向けていたのだ。
「あれほどの精密な魔力制御、俺には絶対に無理だ……」
教官である三上翔でさえも、信じられないものを見たというように感嘆の息を漏らしている。莫大な魔力を放出する三上だからこそ、それを数ミリの空間に留め続ける田中の異常な技術力の高さが痛いほど理解できたのだ。
静まり返るグラウンドの中、集まった生徒たちの群れから、一人の少年が進み出た。
先日の実技訓練で魔力暴走事故を引き起こし、自身の未熟さを痛感して激しく自信を喪失していた海外特待生、ニコラである。
ニコラは田中の前で立ち止まると、両手で拳を強く握りしめ、特待生としての高いプライドを完全に捨て去り、深く頭を下げた。
「……俺は、力任せに魔法をぶっ放すことしかできなかった。自分の力すら制御できず、あやうく皆を殺しかけた」
ニコラの絞り出すような声が響く。
「どうすれば、あなたのように自身の力を完璧に支配し、制御できるのか。……どうか、そのコツを俺に教えてほしい」
真摯に教えを乞う若きエリートの姿。
自分よりも一回り以上も若い少年の頼みに対し、田中は嫌な顔一つ見せなかった。ジャージに付いた土をパンパンと払い落とすと、真っ直ぐにニコラへと向き直る。
「教えるのは構わない。だが、俺のやり方は自衛隊式の基礎訓練より厳しいぞ。最後まで音を上げずに付いてこられるか?」
田中の厳しいながらも面倒見の良い、大人としての返答。
その言葉を聞いた瞬間、ニコラの顔にパッと明るい光が差し、弾かれたように力強く頷いた。
それを見た他の生徒たちも、堰を切ったように田中のもとへ駆け寄ってくる。
「た、田中さん! 私にもその制御、教えてほしいです!」
「俺も! 俺の放出系でもあんなことできるのか!?」
神楽や他の生徒たちが次々と声を上げ、田中はあっという間に若者たちの輪の中心に取り囲まれてしまった。
困ったように眉を下げながらも、一つ一つの質問に真面目に答えていく田中。
大人は強者に敗北し、地べたに這いつくばることもある。
しかし、何度でも立ち上がり、その生き様と知恵を次へと繋げていく。田中の広く頼もしい背中が、若き生徒たちの精神的な支柱として確立された、温かく熱い日常の情景であった。
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