第107話 元一等陸尉のジレンマ
グラウンドの端には、数日前の魔力暴走によってえぐられた巨大な焦げ跡が、未だ生々しく残っていた。
実技訓練が再開され、生徒たちが少しずつ魔法の感覚を掴んで歓声を上げる中、田中慎一は一人、己の手のひらを重苦しい目で見つめていた。
田中慎一、三十二歳。元陸上自衛隊、一等陸尉。
彼にとって、突如として与えられたこの魔法という力は、夢や希望に溢れたファンタジーなどでは決してなかった。極めて危険な「殺傷兵器」である。
先日の海外特待生による暴走事故は、まさに兵器の安全管理を怠った結果起きる大惨事そのものだった。あの時、九条というアドミニストレータの介入(田中はその正体を知らないが)がなければ、多数の死傷者が出ていたはずだ。
田中の魔力値は750。特待生すら凌駕する、部隊で言えば重砲クラスの莫大な数値である。
もし自分が制御を誤れば、威力が拡散して周囲の一般生徒を吹き飛ばしてしまう。プロの軍人ゆえの強烈な危機感と安全管理への責任感が、田中の魔法発動に強固なブレーキをかけていた。
「よし、次は田中! その莫大な魔力、思い切り的に向かってぶっ放してみろ!」
教官である三上翔が、期待のこもった声で田中を促した。
周囲の十代の若者たちが、田中の750という数値がどれほどの魔法を生み出すのかと、興味津々な視線を向けている。
田中は無言で前に出ると、五十メートル先の標的を見据え、右手を突き出した。自身の内にある放出系の魔力を練り上げ、外へ放とうとする。
しかし、いざ撃ち放とうとした瞬間。
田中の脳内で、実戦的なリスク計算が瞬時に働き始めてしまった。
(標的までの距離、五十。風速二メートル。発射時の爆発半径は? 周囲の非戦闘員(生徒)との安全距離は確保されているか? 跳弾、あるいは貫通による後方への被害は――)
考えれば考えるほど、グラウンドのど真ん中で重砲を撃つことの異常性に理性が警鐘を鳴らす。結果として、威力を極限まで殺す方向に無意識のストッパーが全力でかかってしまった。
「……っ」
田中の指先から、パチン、と情けない火花が数粒散っただけだった。標的はおろか、足元の砂埃すら舞わない。
「えっ……? あれだけ?」
「750もあるのに、全然ダメじゃん」
「大人は頭が固いから、魔法みたいな感覚的なものは苦手なんだよ」
若者たちから失望と失笑の声が漏れる。三上も「あれ? 調子悪いのか?」と首を傾げている。
田中は何も言い訳をせず、「……申し訳ありません」とだけ短く告げ、深く唇を噛み締めながら列の後ろへと下がった。
「なんだ、その隙だらけの構えは」
ふいに、背後から低く鋭い声が響いた。
振り返ると、近接戦闘のエキスパートである特別教官、剣崎が立っていた。剣崎は田中の迷いと及び腰の姿勢を一目で見抜き、手にしていた木剣の一振りを、田中へと無造作に放り投げた。
「魔法がダメな剣術だ。来い」
突然の手合わせの要求。周囲の生徒たちがどよめく中、田中は反射的に木剣を受け取り、身体に染み付いた自衛隊式近接格闘術(CQC)の構えをとった。
田中が踏み込み、鋭い突きを放つ。しかし、剣崎はそれを最小限の動きでいなし、冷笑した。
「遅い。迷いがある証拠だ」
田中の肉体は鍛え抜かれているはずだった。だが、今の彼は体内に持て余している莫大な魔力と、肉体の動きが完全に分離してしまっていた。大砲を抱えたままナイフで戦おうとしているような、致命的なアンバランスさ。
本来のキレが全くない田中の隙を、剣崎が見逃すはずもなかった。
一瞬の踏み込み。閃きのような剣崎の木剣が、田中の手首を正確に打ち据えた。
「ぐっ……!」
木剣を取り落とした田中の足を払い、剣崎は容赦なく彼を地面に転がした。勝負は一瞬だった。
「……お前のそれは、手にした兵器の威力に怯えるただの素人の目だ」
地面に這いつくばる田中を見下ろし、剣崎は冷徹な声で言い放った。
「周囲を巻き込むのが怖いから撃ちません、だと? 笑わせるな。お前はプロの軍人だろう。大砲が撃てない状況なら、手持ちの武器の『最も効率的で安全な運用法』を自分の頭で考えろ」
周囲の冷ややかな視線よりも、その剣崎の鋭い言葉のほうが、田中の胸に深く突き刺さった。
(プロの軍人なら、手持ちの武器の最も効率的で安全な運用法を考えろ……)
その言葉は、田中の軍人としての誇りと理性に、強烈な火をつけた。
剣崎から視線を外し、田中は自分の手のひらを見つめ直した。
放出系だからといって、誰が「遠くへ撃ち放たなければならない」と決めた? 自分の手元で、一切の漏れなく、完璧にコントロールして「放出」を完結させることができれば、巻き込みの危険性はゼロになるのではないか。
地面に座り込んだまま、田中の脳内で、魔法という未知の兵器に対するパラダイムシフトが静かに、そして劇的に起こり始めていた。
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