第9話 スケッチブックの迷宮文字
「水無瀬って、無視するんだよ」
その声は、教室の後ろのほうから聞こえた。
翌日の昼休み。教室は、班決めの話でざわついていた。四人一組、自由編成。こういうとき、決まるのは早い。仲のいい者どうしが目配せして、あっという間に輪ができていく。
俺たちは三人。あと一人を探していた。
とはいえ、探すまでもなく、答えは目の前にあった。
教室のあちこちで、四人の輪ができては閉じていく。その間を、何人もの生徒が行き来する。でも、俺の後ろの席の前で立ち止まる者は、一人もいなかった。
水無瀬は、昼休みが始まってからずっと、同じ姿勢でスケッチブックに向かっている。誰にも声をかけられないまま。誰にも声をかけられないことに、慣れているみたいに。
「あの子、中学一緒だったんだけどさ。話しかけても、ずーっと黙ってんの。三年間ずっとだよ? 感じ悪いって有名だった」
「えー、こわ」
「じゃあ班どうすんの、あの子」
「知らない。誰か拾うでしょ」
窓際に固まった女子の一人が、そう言って笑った。
俺の後ろの席で、ペンの音が止まった。
水無瀬は、うつむいたままスケッチブックに向かっていた。長い前髪で表情は見えない。でも、さっきまで紙の上を走っていたペン先が、ぴたりと動かなくなっていた。
聞こえている。当たり前だ。同じ教室なんだから。
「無視してるんじゃないだろ」
気づいたら、口が動いていた。
窓際の女子たちが、ぎょっとしてこっちを見た。
「自己紹介のとき、書いてただろ。声が出にくいって」
「え……あ、いや、そういう意味じゃ……」
さっきの女子が、気まずそうに目を逸らす。それきり、窓際の会話は別の話題に移っていった。
……自分でも、少し意外だった。
御堂に笑われたときは、黙っていられた。講堂で笑われたときも。自分のことなら、まあいいかで済ませられる。
でも、聞こえてしまったものを、聞かなかったことにするのは、どうにも苦手らしい。
振り返ると、水無瀬がこっちを見ていた。前髪の隙間から、驚いたような目がのぞいている。
俺は、入学二日目の放課後のことを思い出していた。踊り場に落ちていたスケッチブック。迷宮の絵。それから、最後のページの、蔓の模様。
『ありがとう』
あのとき、そう書いてくれた丁寧な字。
「水無瀬」
水無瀬の肩が、小さく跳ねた。
「班、組まないか」
時間が止まったみたいに、水無瀬は動かなくなった。
それから、ゆっくりと、スケッチブックの新しいページにペンを走らせた。くるりと、こちらに向ける。
『いいの?』
字が、少し震えていた。
「誘ってるんだから、いいに決まってるだろ」
水無瀬は、俺の横に立っていた大河と小日向を、交互に見た。
「おう! 水無瀬が入ってくれたら、ちょうど四人だ!」
大河が親指を立てる。小日向は大河の陰から半分だけ顔を出して、もじもじと指を組んだ。
「あ、あの……し、雫ちゃんって、呼んでも、いいですか……?」
水無瀬は、こくこくこく、と三回うなずいた。それからペンを走らせる。
『ひよりちゃん』
名前の横に、小さな花の絵が添えてあった。
「ひゃ……か、かわいい……」
小日向が両手で口元を押さえた。
「よろしくな、水無瀬! 腹減ったら言えよ!」
大河が言うと、水無瀬は少し考えてから、またペンを動かした。
『犬飼くん、自己紹介のときも、それ言ってた』
「覚えててくれたのか!」
大河は嬉しそうだった。たぶん、そういう意味ではない。
水無瀬は口元を手で隠して、肩を小さく揺らしていた。笑っているのだと、少しして気づいた。
それから、背筋を伸ばして、ページをめくる。
『よろしくお願いします』
ぺこりと、深く頭を下げた。
◇ ◇ ◇
放課後。人の減った教室で、俺は水無瀬に頼みごとをした。
「スケッチブックの、最後のページ。もう一度、見せてもらえないか」
水無瀬は、スケッチブックをぎゅっと胸に抱えた。少し迷ってから、ペンを走らせる。
『どうして?』
「前に拾ったとき、あの模様を、どこかで見た気がしたんだ」
言いながら、どこまで話すか考えた。でも、大河にも小日向にも話したことだ。同じ班になるなら、水無瀬にだけ隠しておくのは、なんだか違う気がした。
「俺、魔物の声が聞こえるんだ。それと、ステータス窓の文字の、本当の名前みたいなものが読める。……たぶん、それがスキルの【翻訳】なんだと思う」
『ほんとう?』
「ほんとうです!」
答えたのは、小日向だった。帰り支度の途中で、こっちに身を乗り出している。
「わたしの、【臆病】じゃなくて、【先触れ】でした。真白くんが読んでくれたんです!」
「オレのは【蓄積】な。壁割ったやつ」
大河も、鞄を肩にかけたまま寄ってくる。
水無瀬は、三人の顔を順番に見た。そして、スケッチブックを机の上に置くと、ゆっくりと最後のページを開いた。
蔓の模様が、そこにあった。
〈……む。なんだか、眠くなる模様だな〉
首の後ろで、ルルがもぞりと動いた。
――きゅい。
人の減った教室に、その声ははっきり響いた。
小日向が「ひゃっ」と跳び上がる。水無瀬が顔を上げる。俺は固まる。
「……あ、わりい。オレの腹の音」
大河が、ものすごく真顔で言った。
「は、腹の音……ですか……?」
「おう。オレの腹、たまにかわいい音で鳴るんだ」
どこかで聞いたような言い訳だった。小日向は「そ、そうなんですね……」と納得しかけていたけれど、水無瀬だけは、じっと俺のフードのあたりを見ていた。
……あとで、ちゃんと話そう。
俺は咳払いをして、模様に向き直った。
何本もの細い線が、絡み合い、ほどけかけ、また結ばれて、横に並んでいる。前に見たときより、よく見える。一つひとつの形が、少しずつ違う。まるで、一文字ずつ書き分けられているみたいに。
――やっぱり、そうだ。
中学の社会の教科書に、写真が載っていた。迷宮の壁に刻まれている、意味のわからない古い文字。
迷宮文字。
水無瀬の模様は、あの写真の文字にそっくりだった。そして、天啓の日の夜、俺の窓の端で揺れた形にも。大河の窓がほどけたときに現れた、あの蔓の文字にも。
「……ちょっと、集中する」
模様を見つめる。
窓のときとは、少し勝手が違った。最初から蔓の形をしているから、ほどける必要がない。かわりに、文字そのものの奥へ潜っていくような感覚があった。暗い水の底に、目を凝らすみたいに。
頭が、きしんだ。
大河の窓を読んだときほどじゃない。でも、こめかみの奥で、細い針がちくちく動いている。
蔓の一本が、ふっと意味を帯びた。
〈……しずかに……〉
続けて、もう一本。
〈……ねむれ……〉
そこまでだった。残りの文字は、どれだけ見つめても、霧がかかったようにぼやけて読めない。無理をすると、針が釘に変わりそうだった。
目を閉じて、息を吐く。
しずかに、ねむれ。
文章、というより、もっと短くて、やわらかい。言葉と言葉のあいだに、ゆったりとした間がある。まるで――
「……歌の、歌詞みたいだ」
「湊? 読めたのか?」
大河の声で、目を開けた。
水無瀬が、俺を見ていた。両手でスケッチブックの端を握りしめて、じっと。
「たぶん、これ、迷宮文字だと思う。全部は読めなかった。でも、少しだけ」
俺は、最後のページを指でなぞった。
「『しずかに、ねむれ』って、書いてある」
水無瀬の目が、見開かれた。
前髪の隙間から、はっきりと見えた。黒くて大きな、驚いた目だった。
水無瀬は、震える手でペンを握った。何度か書きかけて、やめて、また書いた。
『わたしにも、わからないの』
ページをめくる。
『中学のころから、気づいたら、描いてた』
またページをめくる。字が、だんだん小さくなっていく。
『授業中とか、寝る前とか。手が勝手に動いて。なんの模様なのか、ずっと、わからなかった』
そして最後に、ひときわ小さな字で。
『意味があるなんて、知らなかった』
誰にも習っていない。教科書の写真を写したわけでもない。それなのに、迷宮の壁に刻まれているのと同じ文字を、水無瀬の手は、ずっと前から知っていた。
どういうことなんだろう。俺には、まだわからなかった。たぶん、水無瀬にも。
水無瀬は、自分の描いた蔓の文字を、まるで初めて見るもののように、見つめていた。




