第8話 臆病な先触れ
小日向ひよりは、よく悲鳴を上げる。
入学してから十日ほどで、俺はもう十回以上聞いていると思う。教室で、廊下で、それから迷宮で。
基本形は「ひゃっ」だ。驚きが大きいと「ひゃああっ」になる。そして悲鳴を上げると、その場で固まって動けなくなる。
今も、そうだった。
「ひゃっ!」
隣の通路で、小日向が頭を抱えてしゃがみこむ。同じ班の三人が、うんざりした顔で振り返る。
「小日向、今度は何?」
「な、なにか……来る気がして……」
「何も来てないじゃん」
そう言われた、ほんの二、三秒あと。
〈体当たり、左〉
通路の奥のスライムが、鈴の音で予告した。
青い塊が、小日向の班めがけて左から飛びこんでくる。班の男子が慌てて短剣を振り回し、なんとか追い払った。
「うわ、あぶねっ……」
……今の。
俺は、自分の班の戦闘そっちのけで、隣の通路を見つめていた。
小日向が悲鳴を上げた。そのあとで、スライムが攻撃を「予告」した。
順番が、逆だ。
スライムは攻撃の直前に、何をするか言う。俺はそれを聞いて、「来る」とわかる。つまり俺が気づけるのは、スライムが動くと決めた瞬間だ。
でも小日向は、それより前に叫んでいた。
スライムが、まだ決めてもいないうちに。
「真白、隣の班ばっか見てどうした?」
森田が眼鏡を押し上げる。
「惚れた?」
「違う」
「即答かよー」
早乙女がけらけら笑った。俺はそれを無視して、耳を澄ませ続けた。
〈体当たり、正面〉
こっちの通路でも、スライムが予告した。
「あ、大河、正面」
「おう――ぐえっ!」
言うのが一拍遅れた。ぼよん、と大河の顔面にスライムが命中する。
「湊! 今の、もうちょい早く言ってくれよ!」
「悪い。考えごとしてた」
「迷宮で考えごとすんな!」
ごもっともだった。俺は大河に謝りながら、それでも隣の通路から耳を離せなかった。
四回。五回。
小日向が「ひゃっ」と叫ぶ。数秒後、スライムが予告して、攻撃が来る。一度も外れなかった。
なのに、小日向の班の連中は、そのたびに笑っていた。
「また小日向が先に叫んでる」
「怖がりすぎだって」
――違う。怖がりすぎてるんじゃない。
小日向は、知っているんだ。
◇ ◇ ◇
実習のあと、小日向は一人で管理棟の裏の石段に座っていた。
班の連中に何度も「すみません」と頭を下げて、置いていかれたのを、俺は見ていた。膝を抱えて、小さく鼻をすすっている。
「小日向」
「ひゃっ!?」
声をかけた瞬間、小日向は石段から転げ落ちそうになった。
「……今のは、何が来る気がしたんだ」
「ひ、人が、近づいてきたので……」
それは来ている。確かに来ている。
俺の後ろから、大河がひょいと顔を出した。小日向がまた「ひゃっ」と縮こまる。大河の体格だと、そうなるのも無理はない。
「わりいわりい。驚かせる気はなかったんだ」
「い、いえ……すみません、わたしが、怖がりなので……」
俺は、石段の一段下にしゃがんで、小日向と目の高さを合わせた。
「聞きたいことがある。悲鳴を上げる前、どんな感じがするんだ?」
「え……」
小日向は戸惑ったように目を泳がせた。それから、小さな声で言った。
「ぞわっ、て……背中が、急につめたくなるんです。ここにいちゃだめ、って。でも、見回しても何もなくて。それで、何もないのに怖がって、みんなに迷惑かけて……」
小日向は、膝の上で指をぎゅっと組んだ。
「うち、きょうだいが六人いて、わたしがいちばん上なんです。なのに、いちばん怖がりで。弟たちにも、お姉ちゃんなのにって、よく笑われて。……天啓の儀で【臆病】って出たとき、ああ、やっぱりって思いました」
〈小さいのが、泣いておるな〉
フードの中で、ルルがぽつりと言った。俺は聞こえないふりをした。聞こえないふりをするのは、なかなか難しかった。
「何もなくないよ」
小日向が顔を上げた。
「小日向が叫んだあと、毎回、ちゃんと来てた。五回とも。俺、数えてたから」
「……え?」
俺は少し迷って、それから正直に言った。
「俺、魔物の声が聞こえるんだ。あいつら、攻撃の前に何をするか言ってる。でも小日向は、その声より先に叫んでた。……信じなくてもいいけど」
小日向は、大きな目をぱちぱちさせた。泣いたあとの、赤い目だった。
「し……信じます」
「いいのか」
「だって、わたしの悲鳴を、ちゃんと最後まで聞いてくれた人、初めてなので……」
なんだそれ、と思った。でも、うまく言い返せなかった。
大河が、俺の肩をばしばし叩いた。
「こいつ、窓の文字の本当の名前まで読めるんだぜ。オレのスキル、【大食い】じゃなかったんだ。おかげで壁割った」
「か、壁……あの噂の……」
「小日向。窓、見せてもらってもいいか」
小日向は、ぎゅっと膝を抱えた。
「わ、笑いませんか」
「笑わない」
しばらくして、小日向の前に、おずおずと窓が開いた。
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名前:小日向 ひより
スキル:【臆病】
説明:恐怖心が増大する。
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恐怖心が、増大する。
ひどい文だと思った。こんなものを毎日見せられて、怖がりなのは自分のせいだと思わない奴がいるだろうか。
息を吸って、窓を見つめる。
今度は、最初から覚悟していた。それでも、痛みはやってきた。こめかみを、冷たい手でぎゅうっと握りつぶされるような痛み。
文字の輪郭が、にじんだ。水に落とした角砂糖みたいに、端からゆっくり溶けていく。溶けた線の中から、細い芽がのびる。早回しの映像みたいに、芽は蔓になり、蔓は絡んで、知らない形の文字を編んでいく。
――読める。
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名前:小日向 ひより
スキル:【先触れ】
説明:来たるものの影を、先に知る。恐れは、守るための灯。
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「……っ、は」
痛みが引いていく。額の汗をぬぐって、俺は読んだ言葉を、そのまま口にした。
「【先触れ】」
「さき、ぶれ……?」
「来たるものの影を、先に知る。恐れは、守るための灯」
小日向が、固まった。
「お前が怖いって感じるのは、危ないものが来るのを、先に知ってるからなんだ。怖がりだから叫んでたんじゃない。来るのがわかるから、怖かったんだよ」
「わたし……」
小日向の唇が、震えた。
「わたし、ずっと……怖がりなだけだと、思ってた……」
大きな目から、ぽろぽろと涙がこぼれた。今日いちばんの悲鳴みたいに、止まらなかった。
「怖いって感じるのが、お前のスキルなんだ」
俺は言った。
「だから、怖がっていい」
「そうだぜ!」
大河がしゃがみこんで、どんと自分の胸を叩いた。
「小日向が叫んだら、オレが前に出る。それでいいじゃねえか。な?」
小日向は、泣きながら、何度も何度もうなずいた。
しばらくして、小日向が鼻をすすりながら、小さくつぶやいた。
「……【先触れ】」
確かめるみたいに、自分の真名を呼ぶ。
その直後だった。
「ひゃっ……! う、上……っ!」
小日向が、大河の袖を思いきり引っぱった。大河の巨体が、よろけて横にずれる。
一、二、三。
ばすん、と。
さっきまで大河の頭があった場所を、サッカーボールが通り抜けた。校庭のほうから、「すみませーん!」という声が飛んでくる。
「……おお」
大河が、石段に転がったボールと小日向を見比べた。
「おおお! すげえ、小日向! 今の、三秒前だったぞ!」
「わ、わたし……今、わかった……わかりました……!」
小日向は、自分の両手を見つめて、また泣きそうな顔で笑った。
そこへ、ボールを追いかけるようにして、灰原先生がのそのそ歩いてきた。
「おー、お前ら、いたのか。言い忘れてたんだが」
キャンディの棒を揺らしながら、先生はだるそうに言った。
「次の実習から、班は自由編成な。四人一組。自分らで決めろ。余ったら俺が適当に決める。めんどくせえから、なるべく余るなよ」
それだけ言って、先生はまたのそのそと去っていった。サッカーボールは拾わなかった。
大河が、ぱんと手を打った。
「よし、班、組もうぜ! 湊と、オレと、小日向で!」
「え……わ、わたしで、いいんですか?」
「先に叫んでくれる奴がいると、助かる」
俺が言うと、小日向は真っ赤になって、こくこくとうなずいた。
「よっしゃ、三人だ!」
大河が指を三本立てて、それから首をひねった。
「……で、あと一人、どうする?」




