第81話 二学期と「喫茶・外れ屋」
「あの……そろそろ、霞祭の出し物を決めたいんですけど……」
その声に気づいたのは、たぶん教室で俺一人だった。
九月の終わり。二学期が始まって、三週間とちょっと。窓の外ではまだ生き残りの蝉が鳴いていて、六時間目のロングホームルームの五組は、ほどよくだらけていた。
教壇に立っているのは、藤堂アオイ。五組の学級委員長だ。黒髪を後ろで一つに結んだ、きちんとした感じの女子で――それ以上の特徴を挙げろと言われると、正直ちょっと困る。
スキルは【地味】。説明文は「目立たなくなる」。
その説明文は、悲しいくらい真面目に仕事をしていた。
「あの、皆さん……聞こえてますか……」
聞こえていない。前の席の男子は消しゴムのカスを集めて団子を作っているし、後ろの女子二人は昨日のドラマの話で盛り上がっている。大河は弁当箱の中身を数えている。六時間目なのに、まだ残っているらしい。
教室の隅のパイプ椅子では、灰原先生がキャンディをくわえたまま、半分眠っていた。
「……先生」
小声で呼ぶと、先生は片目だけ開けた。俺が顎で教壇を示すと、先生はめんどくさそうに首の後ろをかいて、ぼそりと言った。
「おーい。委員長がしゃべってんぞ」
教室が、しん、となった。
「え、委員長いたの!?」
「いつから!?」
「……最初からです」
藤堂は、ちょっとだけ泣きそうな顔で笑った。
霞祭。霞高の学園祭で、毎年十月の半ばに二日間ひらかれる。一般のお客さんも入れるし、すずらん通りの商店街からも屋台が出る。ばあちゃんは毎年、近所の人と見に来ていたらしい。俺は一度もついて行かなかった。人混みが苦手なので。
藤堂が黒板に書いた候補は三つ。お化け屋敷。劇。模擬店。
「お化け屋敷は二組がやるってさ」
「一組は展示だって。『迷宮庁と探索者の歴史』」
「真面目か」
「じゃあ模擬店でよくね? 予算は?」
藤堂が、申し訳なさそうに一枚のプリントを掲げた。
「五組の予算は……一組の、三分の一です」
ざわっ、と教室が揺れた。
「なんで!?」
「人数ならそんな変わんないだろ!」
「……ランク割り、だそうです」
空気が、すっとしぼんだ。
ランク割り。この学校は、そういうことを平気でやる。春からずっとそうだった。日当たりの悪い教室。切れかけの蛍光灯。そして今度は、三分の一の予算。
「……まあ、どうせ外れだしな」
誰かがぽつりと言った。笑いまじりの、でも少しも笑っていない声だった。
「じゃあさー」
窓際でぼんやり外を眺めていた早乙女リクが、ふわふわの茶髪を揺らして手を挙げた。スキル【気まぐれ】。春の実習で同じ班になって以来、こいつが何を考えているのか、俺はいまだにわからない。
「いっそ開き直っちゃえば? 喫茶・外れ屋、とか」
一瞬の沈黙。
それから、教室がどっと沸いた。
「外れ屋!」
「ひっでえ!」
「でもちょっといいかも!」
「メニュー、外れからあげとかにしようぜ!」
「当たりが出たらもう一杯!」
「それ自販機だろ!」
多数決は、ほぼ満場一致だった。半分はヤケで、半分はたぶん、本気で面白がっていた。
……いや、その名前、どうなんだ。
喉まで出かかった言葉を、俺は飲み込んだ。
みんなが笑っていたからだ。春の講堂で俺たちが浴びた笑いとは違う、自分たちの口から出た笑い声だった。そこに水を差すのは、なんだか違う気がした。
「内装は、俺がやる」
低い声がして、教室の後ろで小山テツが立ち上がった。休み時間はいつも工具のカタログを眺めている、口数の少ない男子だ。
「予算が三分の一なら、材料は拾ってくる。廃材でいい。……ただし、大正ロマンでいく。妥協はしない」
「た、大正ロマン……?」
「木のカウンター。ステンドグラス風の窓。柱時計。レースのカーテン。全部作る」
「全部!?」
「全部だ」
小山のスキルは【こだわり】。説明文は「特定の物事に執着する」。その目は、もう完全に職人のそれだった。誰も逆らえなかった。
「じゃあさじゃあさ、看板は水無瀬さんにお願いしようよ!」
佐伯ミナが、椅子ごと跳ねるみたいに振り返った。スキル【おしゃべり】。この教室でいちばんよくしゃべる女子で、今もしゃべりながら、もう次の話題に行こうとしている。
「水無瀬さんの絵、めちゃくちゃうまいんだよ! 合宿のときにちらっと見えたんだけど、え、プロ? ってくらいで、あたし思わず二度見して、三度見して――」
俺の後ろの席で、雫の肩がびくっと揺れた。
振り返ると、雫はスケッチブックを胸に抱えたまま、前髪の奥で目をぱちぱちさせていた。クラス中の視線が集まっている。こういうとき、雫の喉は、たぶんいつもよりずっと固くなる。
俺は何も言わずに待った。代わりに答えるのは、違う。
雫は少しだけ迷ってから、ペンを走らせた。くるりと、佐伯のほうへ向ける。
『がんばります』
文字の横に、小さな看板を両手で持った、小さな毛玉の絵が描いてあった。
「かわいい! え、なにこの白いの! かわいい!」
佐伯が叫んで、教室がまた沸いた。
……その白いの、今、俺のパーカーのフードの中で寝てるんだけどな。
「あと接客は翻訳くんね!」
「……は?」
「だって『翻訳の少年』だよ? 看板息子じゃん! 『あの翻訳の少年が、あなたのご注文をお受けします』って書いとけば、絶対お客さん来るって!」
「注文を受けるのに、翻訳はいらないだろ」
「いるいる! 雰囲気がいる!」
雰囲気で翻訳を語るな。
夏休みの終わり、渋谷に小さな迷宮が口を開けた。俺たちはたまたまその場に居合わせて、俺は穴の声を聞いて、それをなだめた。誰かがその様子をスマホで撮っていて、動画は一晩で日本中に広まった。顔にはぼかしが入っていたけれど、学校の中では、ぼかしなんて何の役にも立たない。
おかげで二学期が始まってから、俺の周りは妙に騒がしい。知らない上級生に「動画見たよ」と肩を叩かれる。二組の女子に英語の課題を訳してくれと頼まれる。昨日は廊下で、知らない上級生にまでサインを頼まれた。もちろん断った。
「人気者だなあ、湊」
大河が、弁当の最後の一口を飲み込みながらにやにやした。
「迷惑なだけだ」
「またまたー。オレ、ちょっと鼻が高いぜ?」
「お前の鼻を高くするために翻訳したわけじゃない」
大河はがははと笑った。前の席のひよりも、口元を押さえてくすくす笑っている。
◇ ◇ ◇
「……喫茶・外れ屋」
放課後の旧資料室。迷宮言語研究会――略して迷言研の部室で、鷹宮は俺の説明を聞くと、きっちり三秒黙った。
「くだらない」
「だよな」
「……でも、行く」
「来るのかよ」
「甘いもの、出るんでしょう」
鷹宮は真顔のまま、膝の上のルルを撫でていた。一組の鷹宮がうちの部室にいるのは、もう誰も驚かない光景だ。ルルは目を細めて、されるがままになっている。
〈剣の娘。その店には、甘い菓子はあるのか。どら焼きはあるのか〉
「どら焼きは、たぶんない」
〈ならば我は行かぬ〉
「お前は最初から連れて行く予定だよ。フードの中に」
〈ふん〉
鷹宮が小首をかしげる。鷹宮の耳には、今のも「きゅい」としか聞こえていない。
「何て言ってるの」
「どら焼きがないなら行かないって」
「……用意する」
「しなくていい」
部室の窓からは、敷地の北の端にある迷宮管理棟が見える。コンクリートの四角い建物。その地下に、霞ヶ丘迷宮がある。
俺はなんとなく、その屋根を眺めた。
夏休みに、ばあちゃんから母さんの手帳を受け取った。全十二冊。九月の初め、みんなで徹夜して暗号を解いた最後の一冊に、母さんの字で書いてあった。
――この扉は、閉じてはいけない。
東京大穴の第百層にある、扉。そこで母さんは消えた。迷宮庁の記録では、母さんの最後の言葉は「門を閉じよ」。手帳に書かれていたのは、その正反対の言葉だった。
徹夜明けの真白堂の物干し台で、俺はそれを、ここにいるみんなに全部話した。大河も、ひよりも、雫も、鷹宮も、ちゃんと最後まで聞いてくれた。いつか第百層へ行く、と決めた。
でも、いつか、はまだ遠い。今の俺たちは学生で、行けるのはせいぜい霞ヶ丘迷宮と、多摩川迷宮の浅いところまでだ。
「湊くん、どうかしましたか?」
ひよりが顔をのぞき込んでくる。
「いや。……なんでもない」
雫が、スケッチブックの端からこっちを見ていた。何か書こうとして、やめて、代わりに小さく首をかしげる。俺は、平気だと笑ってみせた。
帰り際、忘れ物を取りに五組の教室へ戻った。
扉の向こうから、まだ何人かの話し声がしていた。出し物の相談をしているらしい。
「大正ロマンって、袴とか着んの?」
「着る着る。絶対かわいい」
「でも、ほんとにお客さん来るかなあ」
「来なくてもいいじゃん。どうせ外れだし」
「だよなー。外れは外れらしく、楽しくやろうぜ」
明るい笑い声が、廊下まで転がってきた。
俺は扉に手をかけたまま、しばらく動けなかった。
楽しそうだった。本当に。それは、いいことのはずだ。
なのに、どうせ外れだし、という一言だけが、魚の小骨みたいに喉に引っかかって、いつまでも取れなかった。




