第80話 閉じてはいけない扉
すずめの声で、朝が来たことを知った。
真白堂の物干し台は、二階の屋根の上にある。洗濯物を干すための、小さな木の台だ。徹夜明けの頭を冷やしたくて、俺たちは全員でそこに上がっていた。
五人と一匹で乗ると、物干し台はみしみしと鳴った。
「……落ちねえよな、これ」
「大河が真ん中に来なければ、たぶん」
「オレのせいかよ!」
東の空が、薄い桃色に染まっていく。すずらん通りの屋根の向こうに、霞ヶ丘の街がまだ眠っていた。どこかで、新聞配達のバイクの音がした。
ひよりは、毛布を頭からかぶって、まるでてるてる坊主みたいになっていた。鷹宮は手すりにもたれて、膝の上のルルを撫でている。雫は、スケッチブックを胸に抱えて、俺の隣に座っていた。
誰も、何も言わなかった。
さっきの俺の言葉の続きを、みんな、待っているのだとわかった。
「……ちゃんと、話す」
俺は、息を吸った。
「全部。今まで、言ってなかったことも」
八年前の、第七次深層調査隊のこと。
隊長は御堂の父親、御堂玄十郎だったこと。母さんと、灰原先生も隊員だったこと。灰原先生は第六十層で引き返し、母さんと長官だけが第百層にたどり着いたこと。帰ってきたのは、長官一人だけだったこと。
合宿の最後の夜に、灰原先生から聞いた話。
母さんの最後の言葉は、迷宮の言葉で記録端末に残っていて、迷宮庁の翻訳装置がそれを『門を閉じよ』と訳したこと。
長官は、それを母さんの遺言だと信じていること。
長官室で、長官は俺に頭を下げたこと。あの人の言葉には、嘘がなかったこと。
それから、言語研究室の石板のこと。『休め』と書いてあるのに、装置が『停止せよ』と訳したこと。あの装置は、ステータス窓の仕組みを借りていること。
「窓の文字は、誤訳だらけだ。お前らの【大食い】も、【臆病】も、【無口】も、鷹宮の【剣聖】も、全部そうだった」
四人が、それぞれの顔で、うなずいた。
みんな、自分の窓で、それを知っている。
「だったら、窓の仕組みを借りた装置も、同じように間違えるはずなんだ。……母さんが本当に言ったのは、たぶん、『門を閉じよ』じゃない」
俺は、十二冊目の手帳の最後のページと、ひよりが書き写したノートを、並べて開いた。
『この扉は、閉じてはいけない。閉じれば――』
「正反対なんだ。母さんは、閉じちゃいけないって書いてる。なのに、長官は、閉じろって言われたと思ってる。八年間、ずっと」
物干し台の上を、朝の風が吹き抜けていった。
「……でも、証拠はない」
自分の声が、少し小さくなった。
「録音は、迷宮庁の最高機密で、長官しか聞けない。この手帳だって、母さんの字だってことしか証明できない。最後のページは破れてて、閉じたら何が起きるのかもわからない。十一冊目は、たぶん、特務課に持っていかれた」
ルルが、鷹宮の膝の上で、小さく身じろぎした。
「長官が、門を閉じるって、何をするつもりなのかも、わからない。迷宮の何を、どうやって閉じるのか。……でも、あの人は、母さんの遺言を果たそうとしてる。本気で」
それが、いちばん怖かった。
悪い人なら、まだよかった。悪い人の嘘なら、暴けばいい。でも、あの人は嘘をついていない。間違った訳を、正しいと信じて、まっすぐ進んでいる。
「……以上だ」
言い終わると、急に体から力が抜けた。手すりに背中を預ける。
すずめが、電線の上で、ちゅんちゅんと鳴いていた。
「よくわかんねえけど」
最初に口を開いたのは、大河だった。
大きな体をのそりと起こして、まっすぐ俺を見ていた。
「お前の母さんが、まだそこで待ってるかもしれないなら、行くしかねえだろ」
――待ってる。
その言葉に、心臓が、どくんと跳ねた。
考えないようにしていた。母さんは、公式には殉職扱いだ。八年たっている。第百層なんて、人が生きていられる場所なのかもわからない。
でも、大河は、何のためらいもなく、そう言った。
「……わかんないぞ。本当に、何も」
「わかんねえから、見に行くんだろ」
大河は、にかっと笑った。
「こ、こわいです」
毛布のてるてる坊主が、もぞもぞと動いた。ひよりが、毛布から顔だけ出していた。目が、もううるんでいる。
「第百層なんて、どれくらい怖いのか、想像もつかないです。……でも」
ひよりは、毛布の端をぎゅっと握った。
「一緒に、行きます。わたしの先触れ、そういうところで、一番役に立つと思うので」
鷹宮は、ルルを撫でる手を止めずに、静かに言った。
「並んで歩くって、決めたから」
それだけだった。鷹宮らしい、短い言葉だった。でも、白鷺の下げ緒を握るみたいに、その言葉は、しっかりと結ばれていた。
隣で、雫がスケッチブックを開いた。
しばらく、ペンの先が、紙の上で止まっていた。それから、ゆっくりと動き出す。
くるりと、こちらに向けた。
『湊くんの声が届くところまで、一緒に』
朝日が、ちょうど屋根の向こうから顔を出したところだった。スケッチブックの白いページが、淡い金色に光っていた。
〈我も行くぞ。当然であろう〉
鷹宮の膝の上で、ルルがふんぞり返った。
〈我を置いていくなど、許さぬ。……それに〉
ルルは、少しだけ声を落とした。
〈なぜだろうな。扉、と聞くと、胸の奥がざわつくのだ。誰かが、我を呼んでいるような気がする〉
――この子を、あの子のところへ。
合宿の夜にルルが思い出した、知らない女の人の声。その言葉が、なぜか今、頭の中で響いた。
「……ありがとう」
声が、少し震えた。泣きそうだったから、それ以上は言わなかった。言わなくても、たぶん、全部届いていた。
――いつか、行く。
東京大穴の、第百層へ。
母さんが、最後にいた場所へ。母さんの本当の言葉を、この耳で聞くために。そして、長官に、正しい訳を届けるために。
今の俺たちでは、まだ無理だ。それくらいは、わかっている。
でも、いつか、必ず。
「朝ごはんだよー!」
下から、ばあちゃんの声が響いた。
「寝てない子は、味噌汁二杯! 残したら承知しないよ!」
大河が、ばっと立ち上がった。物干し台が、盛大にみしりと鳴った。
「よっしゃああ! 二杯!」
「大河、急に立つな! 落ちる!」
「ひゃっ、揺れてます、揺れてますっ!」
鷹宮がルルを抱えて手すりにしがみつき、雫がスケッチブックを胸に抱えたまま、俺の袖をつかんだ。
朝日の中で、俺たちは、ばたばたと物干し台を降りた。
◇ ◇ ◇
同じ日の夜。霞が関。
迷宮庁本部の最上階、長官室の明かりだけが、遅くまで灯っていた。
御堂玄十郎は、机の前に座っていた。
机の上には、深い緑色の、布張りの手帳が一冊。背表紙に、白いインクで、十一。その横に、薄い報告書の束。特務課の分析係が、一晩かけて暗号の一部を読み解いたものだった。
玄十郎は、報告書のページをめくった。
『……詠界は、■■■によって、■■■■……』
『言樹の■■は、この世界に■■■……』
『沈黙は、■■■■■■……』
黒く塗りつぶされているのは、まだ読み解けていない部分だった。読めた単語より、読めない部分のほうがずっと多い。それでも、そこに書かれている言葉は、玄十郎の知る、どの報告書にもないものだった。
手帳のほうを開く。暗号になっていない前半のページ。迷宮文字の写しと、その訳。懐かしい、丸みのある、少し右上がりの字。
あるページの余白で、玄十郎の手が止まった。
『御堂さんには、まだ言えない。でも、いつか、ちゃんと話したい。』
玄十郎は、その一行を、長いあいだ見つめていた。
机の端に置いた写真立ての中で、八年前の六人が笑っている。
「詩織くん……」
かすれた声が、静かな部屋に落ちた。
「君は、何を見たんだ」
答える者はいない。
窓の外では、霞が関のビル街の明かりが、夜の底に沈んでいた。
やがて、玄十郎は、ゆっくりと手帳を閉じた。
布張りの表紙に、そっと手のひらを置く。目を閉じる。もう一度、開く。
その目には、もう迷いはなかった。
「……だが、迷宮は閉じる」
低く、穏やかで、少しも揺るがない声だった。
「それが、君の遺言だ」




