第79話 最後の一冊
仏壇の前は、いつも線香の匂いがする。
二階の奥の、六畳の和室。ばあちゃんは、腰をさすりながら、ゆっくりと仏壇の前に膝をついた。俺と鷹宮は、その後ろに立っていた。ルルが、俺の肩の上で、じっと息をひそめている。
仏壇には、位牌が二つ並んでいた。じいちゃんのと、父さんのだ。
母さんのは、ない。
八年前からずっと、そうだった。小さいころ、どうして母さんのはないのかと聞いたことがある。ばあちゃんは、「作る気になれなくてね」とだけ答えた。それ以上は、聞けなかった。
ばあちゃんが、仏壇の下の小さな引き出しを開けた。
線香の箱と、ろうそくの束と、マッチ。それを一つずつ外に出していく。引き出しの一番奥に、紫色の布の包みが入っていた。
ふくさだった。ばあちゃんが、それをそっと開く。
中から出てきたのは、深い緑色の、布張りの手帳。
背表紙に、白いインクで、十二。
「……あ」
声が、それしか出なかった。
「あの子が、出かける前の晩にね。手帳の箱をあたしに預けるとき、言ったんだよ。『お母さん、十二冊目だけは特別だから』って」
ばあちゃんは、手帳を両手で持って、俺のほうに差し出した。
「特別ってのが何なのかは、聞かなかった。でも、あの黒いのが来たあとで、なんだか胸騒ぎがしてね。昨日の晩、書庫から、こっそりこれだけ出しといたのさ」
「いつの間に……」
「あんたが風呂に入ってるあいだにね」
「なんで、言ってくれなかったんだよ」
「敵を騙すには、まず味方からって言うだろう」
ばあちゃんは、けろりとした顔で言った。
……まいった、と思った。今日一日で、ばあちゃんに二回も負けた。剣道と、作戦で。
ということは、持っていかれたのは、十一冊目だけだ。
言樹と、詠界。あの二つの単語のまわりに、母さんが何ページも書き込んでいた、あの一冊。まだ、ほとんど読めていなかった。
胸の奥が、きりきりと痛んだ。
でも、十二冊目は、ここにある。
俺は、手帳を両手で受け取った。思っていたより、ずっと軽かった。
◇ ◇ ◇
ばあちゃんが電話をして、警察が来たのは、空が白み始めたころだった。
制服のお巡りさんが二人、壊された勝手口と、倒れた本棚を見て回って、手帳を一冊盗まれたという話を、メモに書きとめた。
「物盗りでしょうなあ。古本屋さんだと、高い本があると思われたんでしょう」
お巡りさんは、気の毒そうにそう言った。
違います、と言いたかった。でも、言えなかった。特務課の型と同じ動きだった、なんて言っても、証拠は一つもない。
鷹宮は、事情を聞かれて「ジョギング中に、通りかかりました」と答えていた。ジャージ姿に、刀袋。午前二時の、ジョギング。お巡りさんは首をかしげながら、それでもメモに書いていた。
お巡りさんが帰ったあとで、俺は改めて聞いた。
「……で、本当は」
鷹宮は、少し黙ってから、ぽつりと言った。
「昨日、真白からメッセージが来たあと、祖父に言ったの。仲間の家に、危ないことが起きるかもしれないって」
「それで?」
「祖父が、言った。『行け。守るのが、剣だ』って」
鷹宮は、白鷺の下げ緒を、指先でいじった。
「すずらん通りの先の、お稲荷さんの境内で、素振りしてた。……朝まで、のつもりだった」
「朝まで!?」
「……たまたま、近くにいたのは、本当」
たまたまじゃない。どう考えても、たまたまじゃない。
でも、俺はそれ以上、何も言えなかった。言ったら、たぶん鷹宮は、照れて白鷺を抜く。
「……ありがとな、鷹宮」
「……別に」
鷹宮は、そっぽを向いた。耳が赤かった。
昼前には、大河とひよりと雫が駆けつけてきた。三人とも、朝起きてから、夜中の俺のメッセージに気づいたらしい。
大河は、両手にからあげの大きな箱を抱えていた。昨日の約束を、律儀に守ったらしい。
「誰だよ! ばあちゃんちに忍び込んだ奴は! オレがぶっ飛ばしてやる!」
「わ、わたし、湿布、持ってきました……! おばあさんの腰に……!」
ひよりは、ドラッグストアの袋いっぱいに湿布を買ってきていた。たぶん、一年ぶんある。
雫は、何も言わずに、床に散らばったままの本を、一冊ずつ棚に戻し始めた。広辞苑を持ち上げて、表紙の角についたへこみを、そっと指でなでる。それから、俺の頭のこぶを見て、心配そうに眉を寄せた。
『いたい?』
「……広辞苑の角は、痛い」
雫は、ちょっとだけ笑いそうになって、それから慌てて首を振った。笑っちゃいけない、という顔だった。いや、笑っていいと思う。俺も、ちょっと笑えてきたから。
居間に集まって、みんなに話した。昨日の夜のこと。十一冊目を持っていかれたこと。十二冊目が、無事だったこと。
話し終えると、誰ともなく、ちゃぶ台の上の十二冊目を見つめていた。
「……今夜、全部読もう」
俺は言った。
「また来るかもしれない。その前に、全部」
四人とも、うなずいた。
「よっしゃ、夜食はオレに任せろ! ばあちゃん、台所借りるぜ!」
「おにぎり、塩はきつめでね。夜中は塩がうまいんだよ」
ばあちゃんが、湿布の匂いをさせながら言った。
それから、長い夜になった。
ちゃぶ台の上に、十二冊目。その横に、雫が描いた記号の対応表と、鷹宮のいろはの手本。ひよりがノートに、解いたひらがなを一文字ずつ書き写していく。崩れすぎた記号は、ルルが響きを確かめる。
〈これは「と」だ。……いや、「ど」かもしれぬ〉
「点々の有無で、意味がだいぶ変わるんだけど」
〈細かいことを気にするな〉
気にする。
ページの最初の記号で、いろはをずらす。その数を見つけるのは、鷹宮の役目だった。ページによってずらす数が違う。それを、鷹宮はほとんど一目で見抜いた。
大河は、大きなおにぎりを山ほど作って、みんなの口に押し込んで回った。夜中の一時には、自分で作ったおにぎりを抱えたまま、畳の上で寝ていた。
一行ずつ。一ページずつ。
母さんの言葉が、少しずつ、ひらがなになっていく。
『一日目。第一層。いよいよ出発。御堂さんは、今日も眉間にしわ。三本。』
最初のページを解いたとき、ひよりが小さく吹き出した。俺も、少しだけ笑った。母さんは、深層調査の初日にも、こういうことを書く人だったのだ。
そのあとの数十ページは、層の名前と、短い記録が続いた。影の数。食料の残り。誰かの怪我。かすれて読めないところも多かった。
そして、あるページで、ひよりの鉛筆が止まった。
『十九日目。第六十層。透くんの足が、もうだめ。帰ってもらうことにした。最後に、「湊を、見ていて」とお願いした。透くんは、泣きそうな顔で、うなずいた。』
灰原先生だ。
足を引きずって歩く背中。キャンディをくわえた、だるそうな顔。「お前、母さんに似てきたな」。
あの人は、八年前、ここで母さんと別れたのだ。そして、母さんに言われたとおりに、ずっと――
喉の奥が詰まって、しばらく次のページをめくれなかった。
雫が、そっと、俺の手の横にペンを置いた。続けよう、という合図だった。
うなずいて、ページをめくる。
窓の外が、白み始めていた。十二冊目の、最後のほうのページ。文字が、それまでより少しだけ乱れていた。急いで書いたみたいに。
『三十一日目。第百層。』
ひよりが、息をのんだ。
『扉があった。』
『白くて、大きな扉。とても静か。静かすぎる。』
記号を一つずつ読み上げる俺の声が、少しずつ、かすれていく。
『扉の向こうに、沈黙がある。』
『この扉は、閉じてはいけない。』
『閉じれば――』
そこで、文字が終わっていた。
ページが、破れていた。
斜めに、乱暴にちぎり取られた跡。残っているのは、紙の端の、ぎざぎざの切れ目だけ。その先は、どこにもない。十二冊目の最後のページは、そこで終わっていた。
「……閉じれば、何なの」
鷹宮が、低い声で言った。誰も、答えられなかった。
俺は、破れたページの切れ目を、指でなぞった。
――この扉は、閉じてはいけない。
頭の中で、別の声が重なる。
あの穏やかな声。長官室の、深く沈むソファ。机の上の、調査隊の写真。
――記録端末に残ったその声を、この庁の翻訳装置は、こう訳した。『門を閉じよ』。
閉じよ。
閉じてはいけない。
正反対だ。
言語研究室の、あの石板。本当は『休め』と書いてあるのに、装置は『停止せよ』と訳した。あの装置は、ステータス窓の仕組みを借りている。そして、窓の文字は、誤訳だらけだ。【大食い】も、【臆病】も、【無口】も、【剣聖】も、全部。
窓が間違えるなら、装置も間違える。
装置が間違えるなら――
「……誤訳だ」
声が、震えていた。
みんなが、俺を見た。大河も、いつの間にか目を覚ましていた。
「母さんの最後の言葉も、誤訳なんだ」




