第78話 真夜中の侵入者
〈下だ。……店に、三つ。息が、三つある〉
ルルのささやき声で、眠気が一瞬で吹き飛んだ。
枕元のスマホを見る。午前二時十四分。
耳を澄ませる。……何も聞こえない。いや、かすかに、聞こえる。一階の、ずっと奥のほうで、金属が金属をこする、小さな音。
書庫の、南京錠だ。
指が震えた。それでも、ルビのグループに、一行だけ打った。
『店に誰か入った』
送信して、スマホを置こうとした瞬間、画面が光った。
『行く』
鷹宮だった。午前二時十四分に。既読がつくより先に、返事が来ていた。
なんで起きてるんだ、と思う暇もなかった。机の引き出しから、灰原先生にもらった短剣をつかむ。ルルが、俺の肩に跳び乗った。
廊下に出る。ばあちゃんの部屋の襖は、閉まっていた。
起こすべきか、迷った。……やめた。ばあちゃんは七十二だ。巻き込みたくない。
階段を、一段ずつ、音を立てないように降りる。古い家の階段は、どこを踏めば鳴るのか、全部知っている。三段目と、七段目。そこを避けて。
店の中は、真っ暗だった。
帳場の奥の、細い廊下。その突き当たりの書庫の扉が、開いていた。中で、小さな明かりが揺れている。ペンライトだ。
人影が、三つ。
全身、黒い服。顔は、目のところだけ開いた覆面で隠している。手には、黒い手袋。一人は書庫の中で棚を探っていて、一人は扉の脇にしゃがみこんで、外れた南京錠を手にしていた。もう一人は、廊下の真ん中で、店のほうを向いて立っていた。
――見張りだ。
三人とも、一言もしゃべっていなかった。指先だけで、短く合図を送り合っている。
声がない。
影なら、動く前に必ず予告する。でも、人間は迷宮の言葉をしゃべらない。次に何をするのか、俺にはまったく聞こえない。
「――誰だ」
声を出した瞬間、見張りの男がこちらを向いた。
速い。
黒い影が、一歩で間合いを詰めてくる。右手に、短い警棒。振り下ろされる。とっさに短剣の鞘で受けた。腕がしびれる。
二撃目。左から。見えた――男の右肩が、打つ前に、ほんの少しだけ沈んだ。後ろに跳ぶ。警棒が、鼻先をかすめる。
声は聞こえない。でも、体は嘘をつけない。肩。腰。足の向き。灰原先生に、さんざん叩き込まれた。お前の武器は耳だ。でも、耳だけじゃ生き残れねえ。
三撃目は、見えなかった。
腹に、蹴りが入った。息が止まる。体が後ろに飛んで、背中から本棚に叩きつけられた。
どさどさどさ、と本が降ってくる。
一番重い一冊が、俺の頭に、角から落ちてきた。
……広辞苑だった。
「っ……さすが、広辞苑……」
目の前に、星が散った。重いのは、知っていた。こんな形で確認したくはなかった。
見張りの男が、警棒を構え直して近づいてくる。
〈させるか!〉
俺の肩から、白い毛玉が弾丸みたいに飛んだ。
ルルは、見張りの男の顔面に、べちゃっと張りついた。覆面の目の穴を、ふわふわの毛が完全にふさぐ。
〈ふはははは! 我の毛は、目に入ると痛いぞ! しかも、くしゃみが出る!〉
「……っ、ぶしっ!」
男が、覆面の下で盛大にくしゃみをした。顔に張りついた毛玉を、両手で必死にはがそうとしている。……毛玉が、プロの侵入者と互角に戦っていた。
その隙に、書庫から二人目が出てきた。
両腕に、何かを抱えている。
――木の箱だ。母さんの手帳の、あの箱。
「返せ!」
立ち上がろうとして、頭がくらりと揺れた。広辞苑のせいだ。
二人目の男が、箱を抱えたまま、店の奥の勝手口へ向かう。
そのとき、階段の上から、声がした。
「――うちの孫に、何してくれてんだい」
ばあちゃんだった。
寝間着の浴衣に、たすき掛け。白髪をきちんと後ろでまとめて、手には、木刀を一本。帳場の下にいつも置いてある、護身用のやつだ。
階段を、とん、とん、と降りてくる。三段目も七段目も、遠慮なく踏んで。ぎしり、ぎしりと階段が鳴った。
「ばあちゃん、下がって――」
「黙ってな、湊」
ばあちゃんは、廊下の真ん中で、木刀を構えた。
中段。正眼の構え。
――空気が、変わった。
七十二歳の、小柄な老人のはずだった。でも、木刀の切っ先が、ぴたりと止まって動かない。背筋は、ものさしよりもまっすぐだった。
三人目の男が、警棒を振りかぶって、ばあちゃんに飛びかかった。
「――小手っ!」
ばあちゃんの木刀が、閃いた。
男の手首を、乾いた音を立てて打つ。警棒が、男の手から離れて床に転がった。男が、手首を押さえてよろめく。
一瞬の、出来事だった。
「女学生のころはね、都の大会で、ちょいと鳴らしたもんさ」
ばあちゃんは、切っ先を下ろさないまま、ふん、と鼻を鳴らした。
……知らなかった。十五年、一緒に暮らしてきて、一度も聞いたことがない。
でも、相手はプロだった。
手首を打たれた男は、すぐに体勢を立て直した。ルルを振り払った見張りの男と並んで、ばあちゃんの前に立ちふさがる。そのあいだに、箱を抱えた二人目が、勝手口の鍵に手をかけた。
――逃げられる。
その瞬間、勝手口の扉が、外から蹴破られた。
「……遅くなった」
夜の路地の明かりを背に、鷹宮が立っていた。
ジャージ姿だった。髪はいつものポニーテール。手には、白鷺。ただし、鞘に入ったままだ。白い下げ緒が、夜風に揺れていた。
箱を抱えた男が、ぎょっとして後ずさる。
鷹宮が、踏み込んだ。
鞘のままの白鷺が、男の腕を下から打ち上げる。箱が、男の腕から跳ね飛んだ。宙で蓋が開いて、緑の手帳が、ばらばらと床に散らばる。
「人は、斬らない」
鷹宮は、低く言った。
「……でも、打つ」
二人の男が、同時に鷹宮に襲いかかった。鷹宮は、狭い廊下で、鞘の白鷺を短く構えて受ける。一撃。二撃。三撃。警棒と鞘がぶつかる、硬い音が続く。
一人が、鷹宮に足を払われて床に転がった。すぐに、受け身をとって起き上がる。左足を、すっと後ろに引きながら。
鷹宮の目が、わずかに見開かれた。
次の瞬間、三人のうちの一人が、短く指を二回鳴らした。
合図だった。
三人がいっせいに、勝手口へ向かって走り出す。床に転がっていた一人が、起き上がりざま、床に散らばった手帳の一冊をつかんだ。
「待て!」
鷹宮が追う。でも、三人は勝手口から路地へ飛び出して、角を曲がって消えた。少し遠くで、車のエンジンがかかる音がした。タイヤが、アスファルトをきしませる音。それが、夜の向こうへ遠ざかっていく。
鷹宮が、路地の入口で立ち止まった。白鷺を、ゆっくりと下ろす。
すずらん通りに、また静けさが戻ってきた。
ばあちゃんが、店の明かりをつけた。
廊下は、ひどいありさまだった。倒れた本棚。散らばった本。広辞苑。そして、床一面に散らばった、緑の手帳。
俺は、頭を押さえながら、這うようにして手帳を拾い集めた。背表紙の数字を確かめる。
一。二。三。四。五。六。七。八。九。十。
「……ない」
声が、かすれた。
「十一冊目が、ない。……十二冊目も!」
暗号の二冊が、どちらもない。床を這いまわって、本棚の下まで探す。どこにもない。
さっき、男がつかんで逃げたのは、どっちだ。いや、二冊とも持っていかれたのか。
鷹宮が、勝手口から戻ってきた。白鷺を握ったまま、珍しく、硬い顔をしていた。
「真白。……今の三人の動き」
「動き?」
「転んで起き上がるとき、左足を、こう引いた」
鷹宮は、その場で小さく、さっきの男の動きを真似してみせた。
「特務課の訓練で、教官が教える型と、同じ。特別育成生も、全員これを習う。……間違いない」
背筋が、凍った。
特務課。黒崎の部下だ。
――また来る。
夕方、黒崎はそう言った。まさか、その日の夜に。
「……ていうか、鷹宮。なんで、こんなに早く来られたんだ」
「……近くにいた」
「夜中の二時に?」
「……たまたま」
鷹宮は、目をそらした。……たまたま、ジャージ姿で、白鷺を持って、うちの近所に。
聞きたいことは山ほどあった。でも、今はそれどころじゃない。
階段の下の段に、ばあちゃんが腰を下ろしていた。木刀を膝の上に置いて、片手で腰をさすっている。
「あいたたた……。久しぶりに振ったら、腰にきたよ」
「ばあちゃん、大丈夫か!?」
「大丈夫じゃないのは、腰だけさ」
ばあちゃんは顔をしかめて、それから、ゆっくりと顔を上げた。
散らばった手帳と、青い顔の俺を、順番に見る。
そして、静かに言った。
「……十二冊目は、無事だよ」




