第77話 黒いコートの訪問者
「真白詩織の研究資料を、提出してもらう」
黒崎冬馬は、帳場の前に立って、そう言った。
店の前で俺に気づいた黒崎は、一言も口をきかずに、引き戸を開けて中に入っていった。まるで、俺が帰ってくるのを待っていたみたいに。慌てて追いかけて、敷居をまたいだときには、もう黒崎は帳場の前にいて、さっきの一言を口にしていた。
俺は、敷居の上で動けなくなった。黒いコートの背中が、夕方の薄暗い店の中で、ひどく大きく見えた。
帳場に座ったばあちゃんは、老眼鏡を外して、ゆっくりと顔を上げた。
「どちらさんだい」
「迷宮庁特務課、黒崎です」
黒崎は、コートの内ポケットから身分証を出して、帳場の上に置いた。それから、一枚の書類を並べる。
「迷宮庁職員服務規程、第十四条。職員が職務上作成した記録は、退職または殉職の後も、庁の所有に属する」
淡々とした声だった。台本を読み上げているみたいに、抑揚がない。
「真白詩織研究官が、研究記録の一部を自宅に持ち帰っていたことは、当時の記録で確認している。速やかに提出を」
――手帳のことだ。
背中に、冷たい汗が流れた。九条さんの声が、耳の奥でよみがえる。絶対に、渡さないで。
ばあちゃんは、書類をちらりと見ただけで、手に取らなかった。
「娘が、息子に遺したもんだよ」
静かな声だった。
「お上に渡す筋合いはないね」
「規程です」
黒崎は、表情を変えずに続けた。
「それに、これはあなた方のためでもある。研究資料の中には、機密に関わる情報が含まれている可能性が高い。民間に置いたままにしておけば、いずれ、あなた方に危険が及ぶ」
「危険ってのは、どっちから来るんだい」
ばあちゃんの声は、少しも揺れなかった。
「あたしにはね、今、目の前に立ってるのが、一番の危険に見えるけどね」
黒崎のまぶたが、ほんのわずかに動いた。
「規程ってのはね、紙に書いた約束だろう」
ばあちゃんは、帳場の上で両手を組んだ。背筋は、ものさしみたいにまっすぐだった。
「あたしとあの子の約束は、紙には書いてない。でもね、そっちの規程より、ずっと古いんだよ。あの子が生まれた日からの約束さ」
黒崎は、何も言わなかった。
「どうしても持っていきたいなら、令状でも持ってきな。それまでは、ここはただの古本屋だ」
ばあちゃんは、帳場の横の棚を指さした。
「買うなら売るよ。百円の文庫からね」
店の中が、しんとした。
黒崎とばあちゃんが、まっすぐに見つめ合っていた。どちらも、一歩も引かない。軒先の風鈴が、ちりん、と一度だけ鳴った。
俺は、気づいてしまった。
帳場の陰で、ばあちゃんの組んだ手が、かすかに震えていた。
黒崎の目が、ゆっくりと店の中をなぞった。棚。帳場。奥へ続く廊下。それから、入口に立っている俺。
一瞬だけ、その視線が、壁際の文庫本の棚で止まった気がした。
「……また来る」
黒崎は、身分証と書類をしまった。
「黒崎さん」
気がつくと、俺は口を開いていた。
「母さんのこと、知ってるんですか。合宿のとき、言いましたよね。『母親のようになりたくなければ』って」
黒崎は、手を止めた。
黒い目が、こちらを向く。何かを測るような、静かな目だった。
「……答える義務はない」
それだけだった。
コートの裾をひるがえして、出口へ向かう。俺の横を、すれ違う。
その瞬間、低い声が、俺にだけ聞こえる大きさで落ちてきた。
「渋谷の件。……よくやった」
――え。
振り返ったときには、黒いコートはもう、引き戸の向こうに消えていた。すずらん通りの夕暮れの中を、振り返りもせずに歩いていく。
俺は、その背中を、ぽかんと見送っていた。
今の、聞き間違いじゃないよな。
あの人が? 手帳を出せと言いに来た、その口で?
〈……ふう〉
文庫本の棚の、上から三段目。本と本のあいだから、白い毛玉が、もぞもぞと這い出してきた。
〈行ったか。我の擬態は、完璧であったな〉
「擬態?」
〈毛糸玉のふりをしておったのだ。古本屋に毛糸玉。どこにもおかしなところはない〉
「おかしいだろ。古本屋に毛糸玉は」
〈む……〉
さっき黒崎の視線が止まったのは、あの棚だった。……気づかれたのか、気づかれていないのか。考えると怖いので、考えないことにした。
ばあちゃんが、すっと立ち上がった。
台所から、塩の壺を持ってくる。店の入口に立って、ひとつかみ、ぱっと撒いた。
「縁起直しだよ」
〈祖母殿、それは塩であろう。塩は甘くないぞ〉
「舐めるもんじゃないよ、きゅいちゃん」
話が噛み合っていないのに、なぜか噛み合っている。
ばあちゃんは、もう一つかみ撒いて、それから帳場に戻って、どかりと座り込んだ。
肩を、自分の手でとんとんと叩く。
「……年を取ると、肩が凝るね。ああいうのとしゃべると、特に」
その手が、まだ少しだけ震えていた。
俺は、帳場の前に立った。
「ばあちゃん」
「なんだい」
「……ありがとう」
ばあちゃんは、ふん、と鼻を鳴らした。
「礼を言われるようなことは、してないよ。当たり前のことを言っただけさ」
それから、少し声を低くした。
「湊。手帳は、書庫に戻しときな。鍵をかけて」
「……うん」
二階の自分の部屋から、木の箱を下ろした。
十二冊の手帳。あの日、書庫の奥から運び出して、毎晩少しずつ読んできた手帳。十一冊目と十二冊目の、解きかけの暗号のページには、ひよりの字のメモが何枚も挟まっている。
書庫の棚の、一番奥に、箱をしまう。扉を閉めて、南京錠をかける。今度は、扉の下を蹴らなくても、ちゃんと鍵がかかった。
鍵を、ばあちゃんに返す。ばあちゃんは、それを赤い組紐ごと、帯の中にしまった。
部屋に戻って、ベッドに寝転がる。
――渋谷の件。……よくやった。
あの声が、まだ耳に残っていた。
黒崎冬馬。迷宮庁特務課の課長。鷹宮の教官。合宿の森で、黙者の群れを一瞬で崩した人。母さんのことを知っていて、「母親のようになりたくなければ」と言った人。
手帳を取り上げに来た、敵のはずの人。
なのに、どうしてあんなことを言ったんだろう。
それに、もう一つ、気になっていた。どうして迷宮庁は、手帳のことを知っていたのか。
一瞬だけ、九条さんの顔が浮かんだ。でも、すぐに打ち消した。黒崎は「当時の記録で確認している」と言った。母さんが手帳を持ち帰っていたことは、八年前から、迷宮庁の記録に残っていたのだ。九条さんが言わなくても、最初から知られていた。
そう考えて、少しだけ、ほっとした。ほっとしてから、ほっとしている場合じゃないと思い直した。最初から知られていたということは、最初から、狙われていたということだ。
人間の言葉には、命令文みたいな、わかりやすい予告がない。表と裏が、いつも違う。翻訳なんて、できやしない。
スマホを取り出して、ルビのグループに、今日のことを書いた。
返事は、すぐに来た。
『黒崎ってあの怖い人だろ!? 大丈夫か!? からあげ持ってく!』
大河。からあげで何をするつもりなんだ。
『こ、こわいです……おばあさん、大丈夫ですか……?』
『湊くん、だいじょうぶ?』
ひよりと、雫。雫のメッセージの横には、ルルが盾を構えている小さな絵が添えてあった。
最後に、鷹宮から。
『わかった』
それだけだった。
……わかった、って、何がわかったんだ。
聞き返そうかと思って、やめた。鷹宮の「わかった」は、たぶん、鷹宮の中ではちゃんと意味が通っている。訳せないのは、俺のほうだ。
スマホを枕元に置いて、目を閉じた。明日は土曜日だ。暗号の続きは、明日、みんなでやればいい。そう思いながら、いつの間にか眠っていた。
その夜。
夜中の何時ごろだったのか、わからない。
眠りの浅いところを、ふわふわと漂っていた。枕元で、何かが動く気配がした。
〈……湊〉
ルルの声だった。いつもの、尊大な調子じゃない。息をひそめた、ささやくような声。
〈湊。起きよ〉
目を開ける。
暗い部屋の中で、枕の横のルルが、窓のほうをじっと見つめていた。白い毛が、一本残らず、ぴんと逆立っている。
〈……外に、誰かおる〉




