第76話 「翻訳の少年」
「――昨日午後、東京・渋谷区で発生した小穴現象で、現場に居合わせた少年少女のグループが、影の鎮圧と避難誘導に協力していたことがわかりました」
朝の居間に、アナウンサーの落ち着いた声が流れていた。
テレビの画面には、見覚えのある広場が映っている。割れた石畳。真っ暗な穴。逃げまどう人たち。そして、穴の縁に膝をついている、フードをかぶった少年の後ろ姿。
顔には、もちろんぼかしが入っていた。
「迷宮庁は『現場の安全確保に協力した民間人に感謝する』とコメントしています。小穴はその後安定化し、今後は『渋谷の小穴』として迷宮庁が管理する予定です。……続いて、天気予報です」
俺は、ちゃぶ台に突っ伏した。
「有名人だねえ」
向かいで、ばあちゃんが新聞を広げてお茶をすすっていた。新聞の社会面にも、同じ広場の写真が載っている。
「顔、ぼかしてあるだろ」
「その猫背で、あんただってわかるよ」
「猫背じゃない」
「猫背だよ。生まれたときから、あたしが毎日見てる猫背だ」
反論できなかった。いや、生まれたときは猫背じゃなかったと思う。たぶん。
〈湊。湊〉
ちゃぶ台の上で、ルルがぴょんぴょん跳ねていた。
〈我も映っておるか? 我の勇姿は、記録されておるか?〉
「お前、ずっとフードの中にいただろ」
〈顔は出しておった。ときどき〉
スマホで、ニュースサイトの動画を探す。再生してみると、たしかに、フードの中で白いものがちらちら揺れていた。ぼかしは入っていない。というか、小さすぎて、ぼかす対象だと思われていないらしい。
動画の下のコメント欄には、こんな書き込みがあった。
『フードの中に、白いのいない?』
『UMA?』
『ぬいぐるみでしょ』
〈ぬいぐるみとは何だ!〉
ルルが、全身の毛を逆立てた。
〈我はぬいぐるみではない! 偉大なる、ルル=ア=ネイアであるぞ!〉
「知ってる知ってる」
ばあちゃんには、ルルが「きゅいー! きゅいー!」と怒っているようにしか聞こえていない。
「おやおや、きゅいちゃん。そんなに映りたかったのかい」
ばあちゃんは、ルルの頭を指でよしよしと撫でた。ルルは、たちまち〈む……まあ、よい〉とおとなしくなった。単純な毛玉だ。
問題は、テレビより、ネットのほうだった。
#翻訳の少年。
朝の時点で、そのハッシュタグは、トレンドの一番上に上がっていた。
最初は、誰かが投稿した、あの動画だった。穴の縁で鈴みたいな音を鳴らすフードの少年と、穴が石の階段に変わっていく様子。それが一晩で、何十万回も再生されていた。
火に油を注いだのは、その動画への、一つの返信だった。
『これ、霞高の五組の翻訳のやつじゃね? 天啓の儀でFランク出てたやつ』
霞高の誰かだ。たぶん、一年の、別のクラスの。
そこから先は、あっという間だった。
『Fランクが迷宮止めたってマジ?』
『迷宮を鎮めた謎のFランク』
『翻訳って、迷宮の言葉を訳すってこと?』
『鈴みたいな音出してるの、あれ何語?』
『合成だろ』
『合成でこんなことできるなら逆にすごい』
画面をスクロールする指が、だんだん重くなっていく。
……目立ちたくない、と思っていた。四月からずっと。
それが、全国区で目立ってしまった。
スマホが、朝からずっと震えていた。
五組のクラスメイトたちからだ。夏休みのあいだ、ほとんど動いていなかったクラスのグループが、一晩で爆発していた。
一番長いのは、佐伯だった。
スクロールしても、スクロールしても終わらない。昨日の夕方のニュースを見てからの心境の変化が、時系列順に、ものすごく丁寧に書いてある。途中で、昨日の晩ごはんの献立と、飼っている猫の話が挟まっていた。【おしゃべり】は、文字でも健在だった。
『渋谷いたなら呼べよ! 俺も行こうとしたら新宿に着いてた』
森田だった。そもそも呼ばれても、たぶん着かない。
『動画見て泣いた』
野々村。たぶん、本当に泣いている。
『クラスのグループで話題になってます。……ちなみに私も昨日から三回発言してるんですけど、誰も反応してくれません』
委員長の藤堂だった。……ごめん、気づかなかった。俺も。
『あの穴の階段の石組み、いい仕事だった。角の処理がきれいだ』
小山。見ているところがおかしい。
『へー』
早乙女。……それだけか。
それから、グループの外から、個別のメッセージが二つ届いていた。
一つ目。
『目立ちすぎだ、アホ』
灰原先生だった。
その十分後に、もう一通。
『怪我は』
俺は少し考えて、返事を打った。
『鼻血だけです』
すぐに返事が来た。
『寝てろ』
……先生らしい。
二つ目は、御堂からだった。
『……悪くなかった』
点が三つ、先頭についていた。この三つの点を打つのに、どれくらいかかったんだろう。少しだけ、想像してしまった。
ルビのグループも、にぎやかだった。
『なあ、オレが倒れるとこ、映ってねえよな!?』
大河の悲鳴みたいなメッセージの下に、ひよりがリンクを一つ貼っていた。開いてみると、大河が大盾ごと石畳に突っ伏す瞬間の、短い切り抜き動画だった。タイトルは『腹ペコの巨人、力尽きる』。再生回数は、本編の半分くらいあった。
『なんでこれがバズってんだよ!!!』
『ご、ごめんなさい大河くん……でも、コメント欄、みんな優しいです……「お疲れさま」とか「何か食べさせてあげて」とか……』
『優しさが痛え!』
鷹宮からは、一言だけ。
『下げ緒、ちゃんと映ってた』
添付された画像は、動画の一場面を拡大したものだった。白鷺の柄で、白い下げ緒が揺れている。……そこなのか、と思った。でも、鷹宮が嬉しそうなので、まあ、いいことにする。
ひよりは、ゆいちゃんのお母さんから、警察を通じてお礼の連絡が来たと書いていた。ゆいちゃんは、昨日の夜、ひよりの絵を描いたらしい。『泣いてるおねえちゃん』というタイトルで。
最後に、雫からメッセージが来た。
文字はなかった。一枚の絵の写真だった。
割れた石畳の縁に膝をついている、フードの少年の後ろ姿。その周りに、ふわりと、光の粒が舞っている。鉛筆と、新しく買った水色の色鉛筆で描いてあった。
絵の下に、小さく。
『湊くん、聞いてあげてたね』
俺は、その絵を、しばらく見ていた。
騒ぎは、それから数日続いた。
テレビの情報番組が「謎の翻訳少年」を特集した。迷宮の専門家だという大学の先生が「迷宮語の発音を模倣した可能性がある」と、よくわからない解説をしていた。真白堂の前を、知らない人がうろうろするようになった。ばあちゃんは、そういう人に古本を一冊ずつ売りつけていた。商魂がたくましい。
俺は、なるべく外に出ないようにした。
そして、ずっと、考えていた。
あの穴が言っていた言葉のこと。〈とどけ〉。何を、どこへ、届けたかったのか。
それから、もう一つ。
――迷宮庁は、君の力を把握している。
黒崎の声が、ときどき、耳の奥で鳴った。あの動画は、きっと迷宮庁の人も見ている。
夏休みは、あっという間に終わった。
始業式の日、五組の教室の扉を開けると、拍手が起きた。
「翻訳の少年だー!」
「本物だ! 猫背だ!」
「翻訳くん、サインちょうだい! あとでいいから! ノートの裏でいいから!」
佐伯が、ノートを振り回しながら突進してきた。猫背は余計だ。誰が言ったのかは、あとで突き止める。
灰原先生は、いつもどおり、キャンディをくわえて教室に入ってきた。
「あー、うるせえ。座れ。……真白、あとで職員室な」
職員室で、先生は、椅子の背にもたれたまま俺を見上げた。
「アホ」
メッセージと同じ一言だった。直接言われると、少しだけ重い。
「……よくやった、とは言わねえぞ。言ったらお前、また無茶するからな」
先生は、キャンディの棒をかじった。
「怪我人ゼロだったってな。……あの広場で」
それだけ言って、先生は書類に目を落とした。追い払うように、片手をひらひらと振る。
職員室を出る直前、背中に、低い声が飛んできた。
「真白。迷宮庁は、ああいうのを放っとかねえ。……気をつけろよ」
二学期が始まって、最初の金曜日。
学校から帰ってくると、すずらん通りの真白堂の前に、男が一人立っていた。
九月の、まだ蒸し暑い夕方なのに。
黒い、長いコートを着ていた。




