第75話 とどけ、とどけ
〈……とどけ……〉
〈……とどけ……とどけ……〉
低い、地鳴りのような声だった。
影の命令文とは、まるで違う。短くもないし、そっけなくもない。同じ言葉を、何度も、何度も、繰り返している。心臓の鼓動みたいに。
〈……とどけ……〉
――届け?
命令じゃない。少なくとも、誰かに何かをさせようとする言葉じゃない。
これは、願いだ。
何かを、どこかへ届けようとしている。必死に。苦しそうに。そのたびに地面が震えて、穴の縁が崩れて、底から影があふれ出してくる。
まるで、無理に伸びようとして、熱を出しているみたいだった。
「真白! まだ来る!」
鷹宮の声で、我に返った。穴の縁から、また影狼が二匹、這い上がってくる。鷹宮が氷の翼を広げて斬りかかり、大河が盾で押し返す。
これじゃ、終わらない。
影を何匹倒しても、意味がない。熱の原因を止めないと。
「……鷹宮。大河」
俺は、短剣を鞘に収めた。
「あの穴、しゃべってる。……ちょっと、話してくる」
「穴と!?」
大河の声が裏返った。
「穴と話すって何だよ! 穴だぞ!? 口とかあんのか!?」
「口みたいなもんだろ、たぶん」
「たぶんって!」
「援護、頼む」
鷹宮は、一瞬だけ俺の顔を見た。それから、何も聞かずにうなずいた。
「……行って。道は、開ける」
鷹宮が、俺の前に出た。大河が、舌打ちしながら盾を構え直して、その隣に並ぶ。
「ったく、お前はいつも無茶ばっかだな! 行け!」
穴の縁まで、十歩。
その十歩が、ものすごく長かった。
穴の底から、冷たい風が吹き上がってくる。八月の渋谷の真ん中なのに、真冬の地下室みたいな冷気だった。
途中で、影狼が一匹、俺の前に飛び出してきた。白い光が横から閃いて、それを斬り払う。鷹宮だ。洞蝙蝠が頭上から降ってくる。大河の盾が、俺の頭の上に差し出される。
〈湊〉
フードの中で、ルルが小さく震えていた。
〈こやつ、苦しそうだ。……とても、苦しそうだ〉
「わかってる」
穴の縁に、膝をついた。
割れた石畳の下は、真っ暗だった。底が見えない。黒い空洞の、ずっと奥のほうから、声が湧き上がってくる。
〈……とどけ……とどけ……〉
〈……まだ……とどかない……〉
〈……とどけ……〉
――届かない。
その言葉が、胸に刺さった。
この穴は、何かを届けようとしている。届けたいのに、届かない。だから、もっと強く、もっと必死に、届けと叫び続けている。その叫びが、地面を揺らして、影をあふれさせている。
だったら。
俺は、母さんの手帳の、最初のページを思い出していた。手書きの辞書の、あの一行。
『〈しゃらん〉……「ありがとう」に近い。でも、もっとやわらかい。たぶん「あなたの声が、届きました」くらいの意味。』
届いたよ、と。
誰かが、言ってやればいいんじゃないのか。
割れた石の縁に、手のひらを当てる。ひんやりとして、かすかに脈打っている。
息を吸った。
逆翻訳は、短い言葉しか話せない。〈止まれ〉〈下がれ〉〈こっちだ〉。それ以上は、喉と頭がもたない。合宿で覚えたばかりの力だ。今日も、もう何度も使っている。
でも、これは、短い言葉じゃ足りない。
〈――聞こえてる〉
喉の奥で、鈴が鳴った。
頭の中で、何かがはじけた。視界の端が、白くちかちかする。
〈……とど、け……?〉
穴の声が、揺れた。
届いている。聞いている。続けろ。
〈届いてる〉
鼻から、熱いものが流れ落ちた。ぽたぽたと、石畳に赤い点が散る。こめかみに、錐を突き立てられたような痛み。
まだだ。まだ、最後まで言っていない。
人の話は、最後まで聞く。だったら、自分の話も、最後まで言わなきゃいけない。
〈だから――〉
喉が、焼けるように痛んだ。声が、かすれる。それでも、鈴の音は、ちゃんと鳴った。
〈――落ち着け〉
しん、とした。
穴の底の声が、止まった。
地面の震えが、ゆっくりと、ゆっくりと、静まっていく。張りつめていた糸が、一本ずつゆるんでいくみたいに。
そして。
〈……とどい、た……〉
〈……きこえ、た……〉
穴の奥から、長い、長い息のような風が吹き上がってきた。さっきまでの凍えるような冷気じゃない。少しだけ、ぬるい風。
それきり、声は聞こえなくなった。
穴の縁が、崩れるのをやめていた。
ぎざぎざに割れていた石畳の端が、ゆっくりと形を変えていく。ぱらぱらと小石がこぼれて、穴の内側の壁が、いつの間にか、下へ降りていく石の段になっていた。迷宮の入口の、階段だ。
影が、湧いてこない。
広場に残っていた影狼も、洞蝙蝠も、体の端からほどけて、光の粒になって消えていった。
――止まった。
背後で、鷹宮が白鷺を下ろす気配がした。背中の氷の翼が、さらさらと細かい霜になって、夏の空気に溶けていく。
「……真白。あなた、穴と話したの」
「話したっていうか」
俺は、穴の底を見下ろしたまま答えた。
「聞いただけだ。……最後まで」
「……そう」
鷹宮は、それ以上何も聞かなかった。
〈静かになったな、湊〉
フードの中で、ルルがつぶやいた。
〈あやつ、眠ったようだ。……泣き疲れた子どものように〉
何を、どこへ、届けたかったのか。それは、わからないままだった。
立ち上がろうとして、膝から力が抜けた。
視界が、ぐらりと傾く。石畳が、斜めに迫ってくる。
倒れる、と思った瞬間、横から細い腕が伸びてきて、俺の体を受け止めた。
雫だった。
いつの間に、そこにいたのか。たぶん、最初からずっと、俺のすぐ後ろにいたのだ。目を閉じて、歌いながら。気づかなかった。いや、気づいていたのかもしれない。頭の割れるような痛みの中で、ずっと、どこかで、静かな歌が鳴っていた気がする。
雫の肩に、俺の頭がもたれかかる。雫は両手で俺を支えていて、スケッチブックもペンも持っていない。何も書けない。
だから、雫は、何も書かなかった。
かわりに、もう一度、歌ってくれた。
〈……だいじょうぶ……だいじょうぶ……〉
鼻血で、雫の服を汚してしまう。そう思ったけど、体が動かなかった。
「……ごめん、雫。服」
雫は、ふるふると首を振った。それから、俺の頭を、そっと自分の肩に押しつけ直した。
サイレンの音が、急に近くなった。
坂の下から、パトカーが何台も入ってくる。その後ろから、迷宮庁の紋章をつけた黒いワゴン車。制服姿の探索者たちが、武器を手に飛び降りてきた。
「全員、下がって! ここは我々が――」
先頭の探索者が、穴の前で足を止めた。
石の階段になった穴の入口を見下ろして、ぽかんと口を開ける。
「……止まってる?」
「このガキどもが止めたんだよ」
岩城さんが、ゆいちゃんの母親らしい女の人を連れて、坂を下りてきた。女の人はゆいちゃんを見つけると、駆け寄って抱きしめた。ゆいちゃんは、母親の腕の中から、ひよりに向かって小さく手を振った。
ひよりは、また泣いていた。たぶん、今度は本当に汗じゃない。
そのとき、広場に、ものすごい音が響いた。
ぐぎゅるるるるる。
全員が、音のしたほうを見た。
大河が、大盾を抱えたまま、ゆっくりと前のめりに倒れていくところだった。
「……カツ丼……切れた……」
ずしん。
大河は、大盾と一緒に、石畳に突っ伏した。【蓄積】を使い切ったのだ。駆けつけた探索者が「け、怪我人か!?」と慌てて、ひよりが「ち、ちがいます、お腹が空いてるだけです!」と叫んでいた。
俺は、雫の肩にもたれたまま、少しだけ笑った。笑ったら、頭がずきんと痛んだ。
顔を上げる。
広場のまわりのビルの窓。坂の上の歩道。駅の階段の入口。
そこに、たくさんの人がいた。みんな、手を顔の前に掲げている。
スマホだ。
何十台ものスマホのレンズが、こっちを向いていた。
一番近くにいた大学生くらいの男の人の画面が、ちらりと見えた。今撮ったばかりの動画が再生されている。穴の縁に膝をついて、鈴みたいな音を鳴らしているフードの少年。
男の人の指が、画面の『投稿する』のボタンに触れた。




