第74話 街を守れ
〈止まれ〉
喉の奥から、澄んだ鈴の音がこぼれた。
逃げ遅れた人たちに飛びかかろうとしていた影狼が、空中でびくりと固まる。前足を伸ばしたまま、一瞬だけ、時間が止まったみたいに。
その一瞬で、十分だった。
白い光が走った。鷹宮の白鷺が、影狼の胴を横一文字に断ち割る。黒い体が、光の粒になってほどけ、夏の日差しの中に溶けて消えた。
「今の……鈴?」
「あの子の口から、鳴ったよな……?」
逃げかけていた人たちが、足を止めてこっちを見ていた。
「止まらないで! 逃げてください、坂の上へ!」
俺は叫んだ。でも、声が人混みのざわめきにかき消されそうになる。
「――こっちだ! 坂の上へ逃げろ!」
野太い声が、広場に響いた。
坂の上から、岩城さんが駆け下りてきていた。片足を少し引きずっている。それでも、両腕に大きな荷物を抱えていた。
「坊主! 受け取れ!」
投げてよこしたのは、あの灰色の大盾だった。大河が、両腕で抱きとめる。ずしん、と重い音がした。
「出世払いだ!」
「出世払い、早すぎだろ!」
大河が叫び返した。でも、その顔は笑っていた。
「そっちの坊主もだ!」
次に飛んできたのは、鞘に入った短剣だった。灰原先生の短剣より少し短い。慌てて受け取る。柄が、手のひらにすっと収まった。
「元探索者をなめんなよ。避難はこっちでやる。お前らは――」
岩城さんは、穴のほうをあごで示した。
「あれを、頼む」
穴からは、次々に影が這い上がってきていた。
影狼が五匹。洞蝙蝠が、八匹か九匹。数える端から増えていく。
「大河、前! 鷹宮、大河の隣!」
「おう!」
「……わかってる」
大河が大盾を構えて、穴と人混みのあいだに立ちふさがる。鷹宮が、その左隣に並ぶ。半歩下がった位置。何度も練習した、ルビの陣形だ。
俺はその後ろ。ひよりと雫は、さらに後ろ。
耳を澄ませる。
鈴の音が、洪水みたいに押し寄せてくる。でも、一つ一つを聞き分けられる。合宿の森で、もっとひどい音の中を戦った。
〈右、跳躍〉
「右から跳ぶ!」
大河が大盾を右に振る。飛びかかってきた影狼が、鋼の盾に正面から激突して跳ね返った。
〈上空、急降下〉
「上! 鷹宮!」
鷹宮が跳んだ。浴衣じゃない今日の鷹宮は、身軽だ。急降下してきた洞蝙蝠を、空中で二匹まとめて斬り払う。
〈左、回り込め〉
左から、二匹の影狼が、人混みのほうへ回り込もうとしていた。
まずい。あっちには、まだ逃げ遅れた人がいる。
俺は、息を吸った。
〈――こっちだ〉
鈴の音が、広場に響き渡った。
影狼たちの耳が、いっせいにこちらを向く。命令文が、一瞬だけ乱れた。
〈……対象、変更〉
〈音源、排除〉
二匹が、人混みから向きを変えて、まっすぐこっちへ走ってきた。狙いどおりだ。俺の声のほうへ。
鼻の奥が、つんと熱くなった。何かが垂れてくる。手の甲でぬぐうと、赤かった。
……まだだ。まだ、いける。
「大河、正面! 二匹!」
「任せろ!」
大河の盾が、二匹をまとめて受け止める。重い音。大河の足が、石畳の上をずずっと滑った。
ここだ。
俺は、二人の背中に向かって、名前を呼んだ。迷宮の言葉で。二人の、本当の名前を。
〈――比翼の剣。蓄積〉
りぃん、しゃらん、と、鈴の音が二つ重なった。
鷹宮の背中に、冷気が渦を巻いた。白い霜が、空中で形をとっていく。翼だ。氷でできた、薄く透きとおった片翼。
大河の全身が、ぶわっと熱を帯びた。カツ丼五杯ぶんの力が、腕に、肩に、満ちていく。
「【蓄積】――解放ッ!」
大河が、大盾ごと前に踏み込んだ。
ごうん、と鐘を鳴らしたような衝撃。盾に押し飛ばされた影狼が三匹、まとめて宙を舞った。そこへ、氷の翼を広げた鷹宮が飛び込む。白い軌跡が三本、空中に引かれた。
影狼たちが、光の粒になって散った。
広場の向こうで、誰かが息をのむ声がした。
「ひゃっ……!」
背後で、ひよりの悲鳴が上がった。
「来ます……! 右の、ベンチのほう……!」
振り返る。ひよりは、震える指で、広場の端のベンチを指さしていた。
「……あそこ、誰か、いますっ……!」
ベンチの下に、小さな影が丸まっていた。
女の子だった。五歳くらいだろうか。ひまわり柄のワンピース。膝を抱えて、声も出せずに泣いている。親とはぐれたのだ。
そして、その小さな背中に向かって、穴から這い出したばかりの影狼が一匹、鼻を鳴らしながら近づいていた。
遠い。俺の位置からも、大河の位置からも。
ひよりが、走り出していた。
「こわい……こわいこわいこわい……でも……!」
泣きそうな声で、それでも、まっすぐに。短い脚で、石畳を蹴って。
影狼が、身を沈めた。
〈跳躍――〉
〈止ま、れ〉
俺の声が、かすれた。さっきから使いすぎて、喉が言うことをきかない。影狼の動きが、一瞬だけ鈍る。止まりきらない。
ひよりが、ベンチの前に滑り込んだ。女の子に覆いかぶさる。影狼に、小さな背中を向けて。
「――大河っ!」
叫ぶより先に、大河が跳んでいた。大盾を前に構えて、ひよりと影狼のあいだに、巨体ごと突っ込む。
衝撃。影狼が盾に叩きつけられ、そのまま光の粒になって消えた。
大河が、ぜえぜえと肩で息をしながら振り返った。
「ひより! 大丈夫か!」
「だ……だいじょうぶ、です……」
ひよりの腕の中で、女の子が、目をまん丸にしていた。
「……おねえちゃん、ないてる」
「な、泣いてません! これは、汗です!」
ひよりは袖で顔をごしごしとこすって、それから、精一杯の笑顔を作った。
「だいじょうぶだよ。お姉ちゃんね、六人きょうだいの長女なの。泣いてる子の扱いは、プロなんだから」
「……ほんと?」
「ほんと。弟が三人、妹が二人。毎日、誰かが泣いてるからね」
女の子は、少しだけ笑った。ひよりは、その子の名前を聞いた。ゆいちゃん、と女の子は答えた。
……泣いてるのはお前のほうだろ、と思ったけど、言わないでおいた。
駅のほうから、別の悲鳴が聞こえた。
駅へ続く階段の入口に、人が殺到していた。我先に地下へ逃げ込もうとして、押し合っている。誰かが、階段の途中で倒れた。後ろから、さらに人が押してくる。
――危ない。あのままじゃ、影より先に、人が人を潰してしまう。
でも、俺の声は届かない。迷宮語は、人間には鈴の音にしか聞こえない。日本語で叫んでも、あの騒ぎの中では誰も聞いていない。
雫が、俺の袖を、きゅっと引いた。
振り向くと、雫はもう目を閉じていた。
胸の前で、両手を軽く組んでいる。唇は、少しも動いていない。声は、一つも出ていない。
でも、俺には聞こえた。
〈おちついて……てを、つないで……ゆっくり、ゆっくり……〉
透きとおった歌だった。
広場の空気が、ふっと変わった。夏の熱気の中に、ひんやりとした、でも温かい風が一筋、吹き抜けた気がした。
階段の入口で押し合っていた人たちの動きが、少しずつ、ゆるやかになっていく。
誰かが、立ち止まった。隣の人の肩に置いていた手を、ゆっくりと離した。別の誰かが、階段で倒れた人に手を差し伸べた。泣き叫んでいた子どもが、母親の胸で、すうっと静かになった。
みんな、自分でも何が起きたのかわからない、という顔をしていた。
……雫の歌は、魔物だけじゃない。人の心も、静めるんだ。
俺は、雫の横顔を見た。目を閉じて、一心に歌っている。額に、汗が光っていた。
地上に出た影は、数分で崩れる。
教科書のとおりだった。大河の盾に弾かれた影狼も、空を飛んでいた洞蝙蝠も、しばらくすると勝手に体の端からほどけて、光の粒になって消えていった。
でも。
〈侵入……〉
〈地上、確認〉
〈多数……多数……〉
穴の底から、また新しい影が這い上がってくる。倒しても、倒しても、次が来る。崩れて消えるより、湧いてくるほうが速い。
サイレンの音は、まだ遠い。
頭が、割れるように痛かった。鼻血が、止まらない。大河の息も上がっている。鷹宮の氷の翼も、さっきより小さくなっていた。
このままじゃ、きりがない。
――そのときだった。
無数の影の命令文の、さらに奥。穴の底の、ずっと深いところから。
別の声が、聞こえた。
影の声じゃない。命令文でもない。もっと大きくて、もっと低くて、地面そのものが震えているような声。
穴が、しゃべっている。




