↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
73/82

第73話 渋谷に穴が開いた日

 渋谷は、人が多い。


 知ってはいた。テレビでも見たことがある。でも、駅の改札を出た瞬間、俺は本気で回れ右をしたくなった。


 人。人。人。四方八方から、人の波が押し寄せてくる。誰もが早足で、誰もが自分の行き先しか見ていない。八月の土曜日の昼下がり。アスファルトの照り返しで、空気が揺れて見えた。


〈湊。この街は、暑すぎる〉


 薄手のパーカーのフードの中で、ルルがぐったりしていた。


〈我は溶ける。綿毛が溶けて、ただの毛になる〉


「ただの毛になったら、どうなるんだ」


〈……ただの毛だ〉


 よくわからないが、深刻そうだった。保冷剤をハンカチで包んでフードに入れてやると、ルルは〈ふう〉と満足そうに息をついた。


「よっしゃ、まずは腹ごしらえだな!」


 大河が、迷いなく坂道を上り始めた。スマホの地図には、事前に調べておいた店に印がついている。「渋谷デカ盛り四天王」の一角だそうだ。四天王が何を競っているのかは知らない。


 その店で、大河は大盛りのカツ丼を五杯食べた。


 五杯目を平らげたとき、店のおじさんが無言で拍手をした。ほかのお客さんもつられて拍手した。大河は照れくさそうに頭をかいた。


「これで今日は、一日もつぜ」


「普通の人は、一杯で一日もつ」


「オレは普通じゃねえからな!」


 胸を張って言うことなのかは、わからない。でも、大河がそれを笑って言えるようになったのは、いいことだと思う。




 鷹宮の目当ての店は、駅から少し歩いた、細い坂道の途中にあった。


 『探索者用品 くろがね屋』。木の看板に、墨の太い字。ガラス戸の向こうには、盾や籠手や探索服が、所狭しと並んでいる。


「いらっしゃい」


 奥のカウンターに、白髪まじりのおじさんが座っていた。六十すぎくらいだろうか。日に焼けた太い腕に、古い傷跡が一本、斜めに走っている。


「……下げ緒を、見せてください」


 鷹宮が、刀袋を肩から下ろした。中から、白鷺を取り出す。合宿の森で、白い鹿と戦ったときにほつれた下げ緒が、柄のところで頼りなく揺れていた。


 おじさんの目が、すっと細くなった。


「ほう。……いい刀だ。鷹宮流か」


「わかるんですか」


「若いころ、探索者をやってた。鷹宮の爺さんの剣は、一度だけ見たことがある。おっかなかったよ」


 おじさん――岩城さんというらしい――は、下げ緒の棚を指さした。


 そこから、四十分かかった。


「……黒は、強そう。でも、紺も、捨てがたい」


 鷹宮は、三本の下げ緒を手に取ったまま動かなくなった。黒と、紺と、白。何度も見比べては、元に戻し、また手に取る。


「鷹宮ー、どれでもよくね?」


「よくない」


 鷹宮が、大河を一瞥した。氷点下の視線だった。大河が、すっと口を閉じる。


「わ、わたしは、紺がかっこいいと思います!」


 ひよりが手を挙げる。鷹宮は紺を見つめて、うなずいて、また黒を見る。


 雫が、スケッチブックに書いて見せた。


『白。白鷺だから』


 鷹宮の手が、止まった。


 白い下げ緒には、細い藍色の線が一本だけ織り込まれていた。鷹宮は、それを白鷺の柄に当ててみた。白い鞘の色と、すっとなじむ。


「……これにする」


 鷹宮は、白い下げ緒を握りしめた。


「それに、ルルの色でもあるし」


〈む? 我の色か。ふん、見る目があるではないか〉


 フードの中で、ルルが得意げに膨らんだ。保冷剤がずれて、俺の首筋に落ちた。冷たい。


 岩城さんが、その場で下げ緒を付け替えてくれた。手際がよかった。結び目は固く、きれいだった。


「大事にしな、嬢ちゃん」


「……はい」


 鷹宮は、真新しい下げ緒を、指先でそっとなぞっていた。


 待っているあいだ、大河は店の奥の盾の棚に張りついていた。大人の背丈ほどもある、鋼の大盾。表面に、迷宮石の粉を練り込んだ灰色の塗装。値札を見て、大河は「ゼロが一個多い……」とうめいていた。


「坊主、盾役か」


 岩城さんが、カウンター越しに声をかけた。


「うっす! ガッコのやつ、合宿でひび入っちまって」


「いい体してる。盾は腕じゃねえ、腰で持て。……そいつは、お前さんが一人前になったら売ってやるよ」


「マジっすか! じゃあ、出世払いで!」


「出世してから来い」


 岩城さんは、ふっと笑った。日に焼けた目尻の皺が、少しだけやわらかく寄った。




 次は、雫の番だった。


 画材店は、くろがね屋から坂を下りた先の、大きなビルの三階にあった。


 フロアに足を踏み入れた瞬間、雫の目の色が変わった。


 色鉛筆の棚の前で、雫は立ち止まった。百色入りの木箱。一本ずつばら売りの、外国製の鉛筆。水彩絵の具のチューブが、虹みたいに並んでいる棚。


 雫は、一本一本、そっと手に取って、光にかざしていた。前髪の奥の目が、きらきらしている。


 ……水族館の子どもみたいだな、と思った。いや、水族館の子どもよりも真剣だ。


 雫は、白と黄色と水色の色鉛筆を一本ずつと、新しいB5のスケッチブックを買った。それから、少し迷って、二十四色の色鉛筆セットを一つ。


『POPのお礼、もらったから』


 ばあちゃんが、こっそりバイト代を渡していたらしい。雫は、紙袋を大事そうに胸に抱えた。


 ひよりは、弟と妹たちへのお土産にシールを五種類買って、大河は試食の金平糖を三回もらって店員さんに覚えられていた。


 時計を見ると、午後三時を少し過ぎていた。




 駅へ戻る途中、坂の下の小さな広場を通りかかった。


 石畳の広場に、ベンチと、植え込みと、小さな噴水がある。夏休みの人混みで、ベンチは全部埋まっていた。ベビーカーを押す人。アイスを食べる中学生。ストリートミュージシャンの、ギターの音。


 そのときだった。


 ――りぃん。


 音がした。


 風鈴ではない。もっと低くて、重い。地面の下で、巨大な鈴が一つ、鳴ったような音。


 足の裏が、震えた。


「ひゃっ……!」


 ひよりが、悲鳴を上げて立ちすくんだ。顔が真っ青だった。


「来ます……! 下から……何か、来ますっ……!」


 地面が、揺れた。


 地震じゃない。もっと近い。広場の真ん中の石畳に、黒い線が走った。ぱきぱきと、乾いた音を立てて、線が枝分かれしていく。蜘蛛の巣みたいに。


 噴水の水が、止まった。


 そして、石畳が――抜けた。


 轟音。土埃。悲鳴。


 広場の真ん中に、直径五メートルほどの、真っ暗な穴が開いていた。


「……小穴だ」


 自分の声が、ひどく遠くに聞こえた。


 小穴(こあな)。ここ数年、ごくまれに起こる現象だ。大開口のときのような大きな迷宮ではなく、小さな迷宮が、いきなり地面に口を開ける。国内で年に一度あるかないか。ニュースで見たことはあった。


 まさか、目の前で起きるとは思わなかった。


 穴の底から、音が湧き上がってきた。


〈侵入……〉


〈地上……確認〉


〈多数……多数……〉


 鈴の音が、何十も、何百も重なって、耳の中で鳴り響く。


 穴の縁に、黒い影が、のそりと這い上がってきた。四つ足。光る目。霞ヶ丘迷宮の三層で何度も見た、影狼だ。


 その後ろから、もう一匹。さらにもう一匹。黒い翼の洞蝙蝠が、羽音を立てて穴から飛び出してくる。


 小氾濫。


 広場が、悲鳴で埋め尽くされた。


 人が、いっせいに逃げ出す。押し合い、ぶつかり合い、誰かが転ぶ。ベビーカーが倒れかける。アイスが石畳に落ちる。ギターが、放り出されて鳴った。


 遠くで、サイレンの音がした。でも、遠い。土曜日の渋谷の道路は、車でぎっしり詰まっている。迷宮庁の対処班も、探索者も、ここに着くまでには時間がかかる。


 地上に出た影は、数分で崩れて消える。教科書には、そう書いてある。


 でも、穴が不安定なうちは、影は次々に湧いてくる。それも、教科書に書いてあった。


〈侵入者、多数。排除〉


 一匹の影狼が、逃げ遅れた人の群れのほうへ、ぐっと身を沈めた。


 隣で、しゅっ、と布の擦れる音がした。


 鷹宮が、刀袋から白鷺を抜き出していた。真新しい白い下げ緒が、夏の日差しの中で揺れている。


「……付け替えたばかりなのに」


 大河が、ばきばきと指を鳴らした。


「カツ丼五杯、食っといてよかったぜ」


 ひよりは震えていた。震えながら、それでも一歩も下がらなかった。雫が、胸の紙袋をそっとベンチの下に置いて、俺を見た。


 フードの中で、ルルが毛を逆立てていた。


 俺は、息を吸った。


「――やるぞ」


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。