第73話 渋谷に穴が開いた日
渋谷は、人が多い。
知ってはいた。テレビでも見たことがある。でも、駅の改札を出た瞬間、俺は本気で回れ右をしたくなった。
人。人。人。四方八方から、人の波が押し寄せてくる。誰もが早足で、誰もが自分の行き先しか見ていない。八月の土曜日の昼下がり。アスファルトの照り返しで、空気が揺れて見えた。
〈湊。この街は、暑すぎる〉
薄手のパーカーのフードの中で、ルルがぐったりしていた。
〈我は溶ける。綿毛が溶けて、ただの毛になる〉
「ただの毛になったら、どうなるんだ」
〈……ただの毛だ〉
よくわからないが、深刻そうだった。保冷剤をハンカチで包んでフードに入れてやると、ルルは〈ふう〉と満足そうに息をついた。
「よっしゃ、まずは腹ごしらえだな!」
大河が、迷いなく坂道を上り始めた。スマホの地図には、事前に調べておいた店に印がついている。「渋谷デカ盛り四天王」の一角だそうだ。四天王が何を競っているのかは知らない。
その店で、大河は大盛りのカツ丼を五杯食べた。
五杯目を平らげたとき、店のおじさんが無言で拍手をした。ほかのお客さんもつられて拍手した。大河は照れくさそうに頭をかいた。
「これで今日は、一日もつぜ」
「普通の人は、一杯で一日もつ」
「オレは普通じゃねえからな!」
胸を張って言うことなのかは、わからない。でも、大河がそれを笑って言えるようになったのは、いいことだと思う。
鷹宮の目当ての店は、駅から少し歩いた、細い坂道の途中にあった。
『探索者用品 くろがね屋』。木の看板に、墨の太い字。ガラス戸の向こうには、盾や籠手や探索服が、所狭しと並んでいる。
「いらっしゃい」
奥のカウンターに、白髪まじりのおじさんが座っていた。六十すぎくらいだろうか。日に焼けた太い腕に、古い傷跡が一本、斜めに走っている。
「……下げ緒を、見せてください」
鷹宮が、刀袋を肩から下ろした。中から、白鷺を取り出す。合宿の森で、白い鹿と戦ったときにほつれた下げ緒が、柄のところで頼りなく揺れていた。
おじさんの目が、すっと細くなった。
「ほう。……いい刀だ。鷹宮流か」
「わかるんですか」
「若いころ、探索者をやってた。鷹宮の爺さんの剣は、一度だけ見たことがある。おっかなかったよ」
おじさん――岩城さんというらしい――は、下げ緒の棚を指さした。
そこから、四十分かかった。
「……黒は、強そう。でも、紺も、捨てがたい」
鷹宮は、三本の下げ緒を手に取ったまま動かなくなった。黒と、紺と、白。何度も見比べては、元に戻し、また手に取る。
「鷹宮ー、どれでもよくね?」
「よくない」
鷹宮が、大河を一瞥した。氷点下の視線だった。大河が、すっと口を閉じる。
「わ、わたしは、紺がかっこいいと思います!」
ひよりが手を挙げる。鷹宮は紺を見つめて、うなずいて、また黒を見る。
雫が、スケッチブックに書いて見せた。
『白。白鷺だから』
鷹宮の手が、止まった。
白い下げ緒には、細い藍色の線が一本だけ織り込まれていた。鷹宮は、それを白鷺の柄に当ててみた。白い鞘の色と、すっとなじむ。
「……これにする」
鷹宮は、白い下げ緒を握りしめた。
「それに、ルルの色でもあるし」
〈む? 我の色か。ふん、見る目があるではないか〉
フードの中で、ルルが得意げに膨らんだ。保冷剤がずれて、俺の首筋に落ちた。冷たい。
岩城さんが、その場で下げ緒を付け替えてくれた。手際がよかった。結び目は固く、きれいだった。
「大事にしな、嬢ちゃん」
「……はい」
鷹宮は、真新しい下げ緒を、指先でそっとなぞっていた。
待っているあいだ、大河は店の奥の盾の棚に張りついていた。大人の背丈ほどもある、鋼の大盾。表面に、迷宮石の粉を練り込んだ灰色の塗装。値札を見て、大河は「ゼロが一個多い……」とうめいていた。
「坊主、盾役か」
岩城さんが、カウンター越しに声をかけた。
「うっす! ガッコのやつ、合宿でひび入っちまって」
「いい体してる。盾は腕じゃねえ、腰で持て。……そいつは、お前さんが一人前になったら売ってやるよ」
「マジっすか! じゃあ、出世払いで!」
「出世してから来い」
岩城さんは、ふっと笑った。日に焼けた目尻の皺が、少しだけやわらかく寄った。
次は、雫の番だった。
画材店は、くろがね屋から坂を下りた先の、大きなビルの三階にあった。
フロアに足を踏み入れた瞬間、雫の目の色が変わった。
色鉛筆の棚の前で、雫は立ち止まった。百色入りの木箱。一本ずつばら売りの、外国製の鉛筆。水彩絵の具のチューブが、虹みたいに並んでいる棚。
雫は、一本一本、そっと手に取って、光にかざしていた。前髪の奥の目が、きらきらしている。
……水族館の子どもみたいだな、と思った。いや、水族館の子どもよりも真剣だ。
雫は、白と黄色と水色の色鉛筆を一本ずつと、新しいB5のスケッチブックを買った。それから、少し迷って、二十四色の色鉛筆セットを一つ。
『POPのお礼、もらったから』
ばあちゃんが、こっそりバイト代を渡していたらしい。雫は、紙袋を大事そうに胸に抱えた。
ひよりは、弟と妹たちへのお土産にシールを五種類買って、大河は試食の金平糖を三回もらって店員さんに覚えられていた。
時計を見ると、午後三時を少し過ぎていた。
駅へ戻る途中、坂の下の小さな広場を通りかかった。
石畳の広場に、ベンチと、植え込みと、小さな噴水がある。夏休みの人混みで、ベンチは全部埋まっていた。ベビーカーを押す人。アイスを食べる中学生。ストリートミュージシャンの、ギターの音。
そのときだった。
――りぃん。
音がした。
風鈴ではない。もっと低くて、重い。地面の下で、巨大な鈴が一つ、鳴ったような音。
足の裏が、震えた。
「ひゃっ……!」
ひよりが、悲鳴を上げて立ちすくんだ。顔が真っ青だった。
「来ます……! 下から……何か、来ますっ……!」
地面が、揺れた。
地震じゃない。もっと近い。広場の真ん中の石畳に、黒い線が走った。ぱきぱきと、乾いた音を立てて、線が枝分かれしていく。蜘蛛の巣みたいに。
噴水の水が、止まった。
そして、石畳が――抜けた。
轟音。土埃。悲鳴。
広場の真ん中に、直径五メートルほどの、真っ暗な穴が開いていた。
「……小穴だ」
自分の声が、ひどく遠くに聞こえた。
小穴。ここ数年、ごくまれに起こる現象だ。大開口のときのような大きな迷宮ではなく、小さな迷宮が、いきなり地面に口を開ける。国内で年に一度あるかないか。ニュースで見たことはあった。
まさか、目の前で起きるとは思わなかった。
穴の底から、音が湧き上がってきた。
〈侵入……〉
〈地上……確認〉
〈多数……多数……〉
鈴の音が、何十も、何百も重なって、耳の中で鳴り響く。
穴の縁に、黒い影が、のそりと這い上がってきた。四つ足。光る目。霞ヶ丘迷宮の三層で何度も見た、影狼だ。
その後ろから、もう一匹。さらにもう一匹。黒い翼の洞蝙蝠が、羽音を立てて穴から飛び出してくる。
小氾濫。
広場が、悲鳴で埋め尽くされた。
人が、いっせいに逃げ出す。押し合い、ぶつかり合い、誰かが転ぶ。ベビーカーが倒れかける。アイスが石畳に落ちる。ギターが、放り出されて鳴った。
遠くで、サイレンの音がした。でも、遠い。土曜日の渋谷の道路は、車でぎっしり詰まっている。迷宮庁の対処班も、探索者も、ここに着くまでには時間がかかる。
地上に出た影は、数分で崩れて消える。教科書には、そう書いてある。
でも、穴が不安定なうちは、影は次々に湧いてくる。それも、教科書に書いてあった。
〈侵入者、多数。排除〉
一匹の影狼が、逃げ遅れた人の群れのほうへ、ぐっと身を沈めた。
隣で、しゅっ、と布の擦れる音がした。
鷹宮が、刀袋から白鷺を抜き出していた。真新しい白い下げ緒が、夏の日差しの中で揺れている。
「……付け替えたばかりなのに」
大河が、ばきばきと指を鳴らした。
「カツ丼五杯、食っといてよかったぜ」
ひよりは震えていた。震えながら、それでも一歩も下がらなかった。雫が、胸の紙袋をそっとベンチの下に置いて、俺を見た。
フードの中で、ルルが毛を逆立てていた。
俺は、息を吸った。
「――やるぞ」




