第72話 手帳の暗号
〈これは……我の知っている言葉だ〉
ちゃぶ台の上で、ルルが十一冊目の手帳のページに顔を押しつけていた。
「読めるのか!?」
俺は思わず身を乗り出した。居間にいた全員が、いっせいにルルを見る。
〈うむ。これは……「ね」だ〉
「ね?」
〈いや、「れ」かもしれぬ。……「ぬ」という可能性もある〉
「全部ちがう字だろ」
〈似ておるではないか。どれも、くるりとしておる〉
ルルは悪びれもせずに言った。……と言っても、大河とひよりと鷹宮と雫の耳には、「きゅい、きゅい、きゅー」と得意げに鳴いているようにしか聞こえていない。みんなが期待に満ちた目で俺を見るので、通訳するのが心苦しかった。
「……まだ、わからないって」
居間に、小さなため息が四つ重なった。
迷宮庁から帰った翌々日。真白堂の二階の居間に、ルビの全員が集まっていた。
研究室のこと。石板のこと。長官の勧誘。廊下の黒崎。それから、九条さんの「手帳を絶対に渡さないで」。昨日のうちに、俺はみんなに話してあった。
「御堂からメッセージ来たって、マジかよ」
大河が、今日だけで三回目の同じ質問をした。
「マジだ」
「あいつが? 自分から? 『親父に何か言われたか』って?」
「そうだ」
「……あいつ、熱でもあんのか?」
それは俺も少し思った。
で、問題は手帳だった。迷宮庁が欲しがっているかもしれない、母さんの手帳。その中でも、暗号で書かれた、最後の二冊の後半。
「母さんが、誰にも読まれたくなかったことが書いてある。たぶん」
だから、迷宮庁より先に読みたい。そう言ったら、全員が「手伝う」と言ってくれた。
ちゃぶ台の上には、十一冊目と十二冊目が開いて置いてある。迷宮文字と、母さんの小さな記号。丸と、点と、短い線の組み合わせ。
俺がいくら集中しても、意味のある言葉にならない。こめかみがずきずきするだけだ。
とん、とん。
雫が、ペンの頭でちゃぶ台を叩いた。
自分のスケッチブックと、手帳のページを、並べて置いている。スケッチブックのほうは、雫が中学のころから無意識に描いていた、蔓の模様――迷宮文字のページだ。
雫は、手帳の記号の一つを指さした。それから、スケッチブックの迷宮文字の一つを指さす。
そして、二つのあいだに、すっと線を引いた。
『この記号、この字の、右半分だけ』
「……え」
見比べる。
手帳の記号は、小さな丸と、短い線が二本。スケッチブックの迷宮文字は、もっと複雑な、蔓が絡み合った形だ。でも、その蔓の右半分だけを取り出して、うんと単純にすると――
「同じ形だ」
雫はこくりとうなずいて、次々に線を引いていった。この記号は、この字の上の部分。この記号は、この字の、くるりと巻いたところだけ。
『お母さんの記号、迷宮文字の、かけら』
字の横に、小さな絵。大きな蔓の字が、ぱきっと割れて、小さな記号になっている絵だった。
〈おお。そうか、だから我にも読めたのか〉
ルルが、ぽんと跳ねた。
〈かけらでも、元の字の響きが残っておるのだ。……だから「ね」なのだ〉
「だから、ねかれかぬかわからないんだろ」
崩しすぎて、元の字がどれかわからなくなる。でも、手がかりにはなる。
ということは、この記号は、迷宮文字の略字だ。母さんは、迷宮文字を自分だけの形に崩して、それを――
「……何に、使ってるんだ?」
略字だとしても、並べても意味にならない。迷宮語の文になっていないのだ。
「四十七」
ぽつりと、鷹宮が言った。
鷹宮は、さっきからずっと黙って、手帳のページを一枚ずつめくっていた。メモ帳に、記号を一つずつ書き写しながら。
「同じ記号を一つにまとめたら、四十七種類。何回数えても、四十七」
鷹宮は、鞄から一冊の本を取り出した。
茶色く日焼けした、薄い和綴じの本。この前、うちの店で百円で買っていった、手習いの手本だ。
「……持ち歩いてるのか、それ」
「悪い?」
「悪くない」
鷹宮は、本の最初のページを開いた。筆で書かれた、大きな仮名が並んでいる。
「いろは歌も、四十七。仮名を一つずつ、全部使って、同じ字は二度と出てこない」
居間が、しんとした。
扇風機の首が、かたん、と回る音だけがした。
「……それだ」
俺は一冊目の手帳をひっつかんで、最初のページを開いた。
『迷宮語・手書き辞書 その一』。その下に、枠で囲まれた迷宮文字が、整然と並んでいる。辞書の索引みたいだと思っていた、あのページ。
数える。一、二、三――
四十七。
並び順は、迷宮語の音の順番でも、形の順番でもなかった。なんでこの順番なんだろう、と最初に見たときに思った。その答えが、今、目の前にあった。
「この一覧が、鍵だ。一番目の字が『い』。二番目が『ろ』。三番目が『は』」
「つまり……迷宮文字のかけらで、ひらがなを書いてる、ってことですか!?」
ひよりが、目をまん丸にした。
「たぶん。母さんは、子どものころ、自分だけの字を作って手紙を回してたらしい。……その、大人版だ」
ひよりが、すぐにノートと鉛筆を用意した。雫が、記号と迷宮文字の対応表を描き始める。四十七の枠。驚くほど速くて、正確で、なぜか枠の隅にいちいち小さなルルが描いてある。
鷹宮が、いろはの手本と、俺の持つ一覧を見比べる。俺が、記号を一つずつ読み上げる。ルルが、崩れすぎた記号の響きを確かめる。
最初の一行を、全員で解いた。
『め ら す お つ ゆ』
「……意味、ないですね」
ひよりが、しょんぼりした。
「ずれてる」
鷹宮が、すぐに言った。
「ページの最初の記号だけ、いつも枠で囲んである。……これ、ずらす数だと思う。時計の針みたいに、いろはを何文字ぶんか回してから読む」
言われたとおりに、三つずらしてみる。
ひよりの鉛筆が、ゆっくりと動いた。
『わ た し は』
「読めた……!」
ひよりが、悲鳴に近い声を上げた。
「すげえな鷹宮! お前、数学のテスト何点――」
「黙って」
鷹宮は大河をにらみつけた。それから、ほんの少しだけ、得意そうな顔をした。……数字は鷹宮の前から逃げていくらしいが、記号は逃げないらしい。
そこからは、地道な作業だった。
一行解くのに、十分かかる。一ページ解くのに、一時間。しかも、母さんの文章は略語だらけで、ひらがなに直しても意味がとれないところが多い。記号がかすれて読めないところもある。
それでも、少しずつわかってきたことがあった。
ひらがなの文章の中に、ときどき、記号に崩されていない、元のままの迷宮文字がまじっている。暗号にされていない、そのままの単語。
そこだけは、俺がじかに読める。
十一冊目のページで、一つ目の単語を見つけた。蔓の文字が、ほどけて、組み直る。
〈ことのき〉
頭の中で、日本語になる。言葉の、樹。
「……言樹」
「ことのき? 何だそれ」
「わからない」
本当に、わからなかった。言葉の木。そういう意味の単語だということしか、わからない。
十一冊目には、もう一つ、何度も出てくる単語があった。
〈えいかい〉
詠う、世界。
「詠界……」
口に出しても、ぴんとこない。どこかの地名なのか、何かのたとえなのか。母さんは、この二つの単語のまわりに、何ページも何ページも書き込んでいる。でも、そのほとんどが、まだ記号のままだ。
十二冊目のほうは、少し様子が違った。
ページの頭に、暗号になっていない、普通の数字で見出しが書いてある。『一日目 第一層』『六日目 第二十四層』『十一日目 第四十八層』。
「これ……日記みたいに、毎日つけてる」
「深層調査の記録だ。……第七次の」
声が、少しかすれた。八年前、母さんが最後に潜った調査。その途中で書いた記録が、この中にある。
そして、十二冊目の後半に、二つの単語が見つかった。
一つ目を読んだ瞬間、ちゃぶ台の上で、ルルがびくりと震えた。
〈しじま〉
「……沈黙」
〈しじま……〉
ルルが、ほとんど同時につぶやいた。春の終わりに、黙者の狼を見たあとで、ルルが口にした言葉。自分でも意味がわからないと言っていた、あの言葉だ。
「黒崎教官が、言ってた」
鷹宮が、低い声で言った。
「黙者は、沈黙に食われた魔物だって。……合宿の森で」
「同じ言葉なのか?」
「……たぶん。合宿のときから、そうじゃないかと思ってた」
俺は、ノートの上の「沈黙」の二文字を見つめた。
「でも、それが何なのかは、わからない。黙者を作るものなのか、ただの名前なのか」
大河の問いに、それ以上答えられる人は、いなかった。
二つ目の単語は、もっと短かった。
〈とびら〉
「……扉」
長官の声が、耳によみがえる。第百層には、扉があった。白い、大きな扉だ。
言樹。詠界。沈黙。扉。
四つの単語が、ノートの上に並んだ。どれも、意味がわからない。どれも、母さんがわざわざ暗号の中に隠した言葉だった。
「……決めた。十二冊目から先にやろう」
俺は言った。
「十一冊目は、言樹とか詠界とか、たぶん、迷宮の研究の話だ。でも十二冊目は、母さんが最後にいた場所の記録だ。扉のことも書いてある。……先に、そっちが知りたい」
全員が、うなずいた。
「あの……でも、その前に……」
ひよりが、ふらふらと手を挙げた。
「少しだけ、休憩しませんか……。頭の中が、いろはでいっぱいです……。さっきから、弟の名前まで、いろはで数えちゃって……」
「腹、減った……」
いつの間にか畳の上で寝ていた大河が、むくりと起き上がって言った。三時間、頭を使ったぶん、お腹も空いたらしい。お前は途中から寝てただろ、と思ったけど、言わないでおいた。
鷹宮が、刀袋の紐をいじりながら、ぽつりと言った。
「……下げ緒、新しいのが欲しい。合宿で、ほつれたから」
雫が、色鉛筆の箱を開けて見せた。POP作りで、白と黄色と水色が、ほとんど指の長さもなくなっていた。
『画材、買いたい』
「じゃあさ!」
大河が、ちゃぶ台をばんと叩いた。手帳が跳ねて、ルルが転がった。
「明日、みんなで渋谷行こうぜ! 買い物して、うまいもん食って、息抜きだ!」




