第71話 閑話 御堂海斗の長い夏
うちの食卓は、無駄に広い。
長さ四メートルの一枚板のテーブルに、椅子が十二脚。客が来ることなんて、年に一度もないのに。家政婦の田辺さんが毎晩夕食を作って、六時には帰っていく。そのあとは、だいたい俺が一人で食べる。
その夜は、珍しく親父がいた。
三週間ぶりだった。
テーブルの端に親父が座って、俺はその右側の席に座る。田辺さんのビーフシチューが、二人分だけ湯気を立てていた。十二脚のうち、十脚が空いている。
スプーンが皿に当たる音だけが、天井の高い部屋に響いた。
「合宿は、どうだった」
親父が、ナプキンで口元をぬぐいながら言った。
心臓が、少しだけ跳ねた。
「……別に。普通」
「黙獣と戦ったそうだな」
「……ああ」
「怪我は、もういいのか」
「……ああ。足首なら、もう治った」
親父は、小さくうなずいた。
それが、心配してくれた言葉なのか、ただ状態を確かめただけの言葉なのか、俺にはわからなかった。親父の声は、いつも同じ温度だ。報告書を読むときも、俺に話しかけるときも。
真白なら、わかるんだろうか。言葉の裏側まで、聞き取れるんだろうか。……いや、あいつに聞こえるのは、たぶん魔物の言葉だけだ。人間の腹の中まで聞こえていたら、あんなに眠そうな顔はしていられないだろう。
俺はスプーンを置いた。親父がこっちを見ている。久しぶりに、まっすぐに。
――言え。よくやった、と。
一言でいい。勇者の名に恥じない戦いだった、でもいい。なんでもいい。何か。
「黒崎から報告を受けた。お前は、真白湊くんと共に戦ったと」
「……そうだよ」
「彼は、どういう少年だ」
テーブルの上の、シチューの湯気が揺れた。
……ああ、そうか。
俺のことを聞いたんじゃなかった。最初から、真白のことを聞きたかったのだ。
「……別に。普通の――」
外れだよ、と言おうとした。
言葉が、喉で引っかかった。
春までの俺なら、迷わず言っていた。外れ風情が。翻訳野郎。何度も、何度も、あいつにそう言った。
でも、あの森で、ずぶ濡れの泥まみれで、俺のくだらない本音を黙って聞いていた奴の顔を思い出したら、どうしても、その言葉が出てこなかった。
「……普通の、変な奴だよ」
「変な、とは」
「人の話を、最後まで聞くんだよ。……どうでもいい話でも」
親父は、少しだけ目を細めた。
「そうか」
それから、何でもないことのように続けた。
「彼を、迷宮庁に迎えたいと思っている。来週の水曜日に、言語研究室の見学に招いた」
「……なんで俺に言うんだよ」
「お前の友人なのだろう」
「友人じゃねえ」
即答した。親父は、ほんの少しだけ、口元をゆるめた気がした。気のせいかもしれない。
そのとき、親父の背広の内ポケットで、スマホが震えた。親父は画面を見て、静かに立ち上がった。
「すまない。仕事だ」
親父は部屋を出ていった。扉が閉まる。
十二脚の椅子と、半分残ったビーフシチューと、俺。
……いつものことだ。
スプーンを取って、冷めかけたシチューを口に運んだ。田辺さんのシチューは、うまい。うまいけど、一人で食べると、なぜか味が薄い。
◇ ◇ ◇
夜中の十二時。
親父は結局、そのまま庁舎に戻ったらしかった。玄関の靴がなくなっていた。
俺は、親父の書斎の前に立っていた。
探しものがあった。母さんの写真だ。
俺は三歳のときに、母さんを亡くした。十二年前の大氾濫で。顔は、写真でしか知らない。声は、もう少しも覚えていない。
合宿の森で、真白が言った。母さんがいなくなってから、ずっと何かを聞き逃してる気がしてる、と。
あれから、ずっと引っかかっていた。俺も、何かを聞き逃している気がした。母さんの声を、一度でいいから思い出したかった。
書斎には、昔のアルバムがあるはずだった。
扉を開ける。鍵はかかっていなかった。
壁一面の本棚。重そうな机。机の上に、書類の束が積んである。アルバムを探して本棚を見上げたとき、机の上の、一番上のファイルが目に入った。
灰色の表紙。白いラベル。
『特別育成生 御堂海斗 スキル【勇者】 出力試験記録』
――俺の、名前。
手が勝手に伸びていた。
ファイルを開く。グラフが、何枚も綴じてあった。四月。五月。六月。七月。毎月の日付と、数字と、折れ線。特別育成生の訓練で、毎月受けている「出力測定」の結果だ。測定器に手を当てて、スキルの強さを測るやつ。
俺はずっと、あれは成長を見るためのものだと思っていた。強くなっていれば、親父が見てくれると思っていた。
グラフの横に、細かい字で書き込みがある。
『周辺魔素の取り込み率:測定限界を超過』
『外部魔力の受容量:前回比一二〇パーセント』
意味が、よくわからない。取り込み率? 受容量? 俺のスキルは【勇者】だ。全能力に高い補正。人々の希望を背負う。どこにも、取り込むなんて書いていない。
最後のページに、枠で囲まれた一行があった。
『器としての適性:極めて高い』
その横に、赤い判子。『長官閲覧済』。
「……器?」
声に出してみても、意味はわからなかった。
器。入れ物。何かを入れるための、もの。
背中に、冷たいものが落ちてきた。春に、凍った剣を振るっていた鷹宮の横顔が、なぜか頭に浮かんだ。
俺は、測られていた。
成長を見るためじゃない。何かに使えるかどうかを、確かめるために。
――親父は、俺が勇者だから俺を見てるんだ。
森で、真白にこぼした言葉を思い出す。あのときは、勇者じゃなかったら見てもらえない、と思っていた。
でも、違ったのかもしれない。
勇者ですら、なかったのかもしれない。親父が見ていたのは、器だったのかもしれない。
ファイルを閉じた。元あった場所に、元あった角度で戻す。手が、少し震えていた。
本棚の一番下の段に、古いアルバムがあった。
開くと、最初のページに、女の人が写っていた。明るい茶色の髪。大きな口を開けて笑っている。腕の中に、小さな男の子。
……俺と同じ色の、髪だった。
母さんの声は、やっぱり思い出せなかった。
◇ ◇ ◇
水曜日。
朝から、何をしても落ち着かなかった。
今日、真白が迷宮庁に行く。親父に会う。勧誘される。
だから何だ、と思う。あいつがどうしようと、俺には関係ない。
庭で剣を振った。三百本振っても、頭の中がうるさいままだった。
昼過ぎ、スマホが震えた。権藤だった。
『御堂さん、読書感想文って何書けばいいんすか』
続けて、細川。
『海斗さーん、来週プール行きません? 権藤のおごりで』
『おごらねえよ』
『おごれよ』
なぜか俺を挟んで、二人で言い争っている。最後に、細川から、踊るペンギンのスタンプが三つ連続で届いた。意味がわからない。たぶん、本人にもわかっていない。
合宿の森で、俺を置いて逃げた二人だ。帰りのバスの前で、気まずそうに頭を下げてきた。それから毎日、こうしてどうでもいいメッセージを送ってくる。
返事はしていない。でも、ブロックも、まだしていない。
夜八時。部屋のベッドに寝転がって、スマホの画面をにらんだ。
真白とのトーク画面は、真っ白だった。合宿の最終日に、犬飼の野郎が無理やり全員と連絡先を交換させてから、一度も使っていない。
文字を打つ。
『お前、今日親父に』
消す。
『勧誘されても断れ』
消す。偉そうすぎる。いや、俺は偉いんだけど、そういうことじゃない。
『別に心配してるわけじゃねえけど』
消す。誰が心配してるって言った。言ってない。俺は何を書いてるんだ。
打って、消して、打って、消して。気がつくと、三十分たっていた。
……くそ。
一番短い言葉だけを打って、何も考えないうちに送信ボタンを押した。
『親父に何か言われたか』
送ってから、スマホを枕の下に突っ込んだ。
十秒後に、引っぱり出した。
既読がついていた。
返事は、来ない。
一分。三分。五分。画面を見ているのが馬鹿らしくなって、天井を見る。また画面を見る。まだ来ない。
十五分たったころ、スマホが震えた。
『勧誘された。断るつもり』
短い返事だった。あいつらしい、愛想のかけらもない字面。
俺は、その一行をしばらく見つめていた。
胸の奥で、何かが、ふっとゆるんだ。張りつめていた糸が、一本だけ切れたみたいに。
……なんで、俺が、ほっとしてんだ。
スマホを胸の上に置いて、天井を見上げた。
答えは、どこにも書いていなかった。




