第70話 九条さんの忠告
「長官の話は、終わったか」
黒崎冬馬の声は、絨毯に吸い込まれるみたいに低かった。
「……はい」
「そうか」
黒崎は、それ以上何も言わなかった。ゆっくりとこちらへ歩いてくる。足音は、やっぱりしない。
すれ違う瞬間、黒崎は足を止めた。
「迷宮庁は、君の力を把握している」
横顔のまま、俺のほうを見ずに言う。
「……それだけは、覚えておけ」
そして、長官室の扉をノックもせずに開けて、中に消えた。
俺は、廊下に一人で立っていた。背中に、じっとりと汗がにじんでいる。合宿の森で黙者と向き合ったときと、少し似た感じだった。声が聞こえない相手は、何を考えているのかわからない。
……いや、人間はそもそも全員そうなんだけど。
「湊くーん! お疲れさまー!」
八階でエレベーターを降りると、九条さんが待ち構えていた。紙コップのコーヒーが、さっきより一つ増えて、両手に一つずつになっている。
「長官、どうだった? 緊張した? あのソファ、沈むでしょ。私も最初、沈んで出られなくなって、秘書さんに引っぱり出してもらったの」
「……沈みました」
「でしょー! あれ、絶対わざとだと思うんだよね。偉い人の部屋のソファって、なんで沈むんだろうね」
九条さんは、右手のコーヒーを飲み、左手のコーヒーを飲み、それから俺の背中を押して歩き出した。
「さ、下まで送るね!」
研究室の前の廊下は、長くてまっすぐだった。天井の隅に、黒い半球の監視カメラが、等間隔に並んでいる。
「この廊下ね、改装したばっかりなの。床、ぴかぴかでしょ。あとあれ、あの観葉植物。一鉢いくらだと思う? 私の月給の――あっ、言っちゃだめなやつだった」
「あ、そうだ、先輩の話もしなきゃ。私の歓迎会のときね、先輩、乾杯の音頭を迷宮語でとったの。りぃん、しゃららん、って。誰も意味がわかんなくて、部長がつられて『しゃららーん』ってグラス上げて。あれ、何て言ってたのか、いまだに謎なんだよねー」
九条さんは、けらけらと笑った。
俺は、笑い返しながら、別のことを考えていた。
〈しゃらん〉。母さんの手書きの辞書の、最初のほうにあった言葉だ。「ありがとう」に近い。たぶん、「あなたの声が、届きました」くらいの意味。
新しく来た後輩への、歓迎の言葉だったのだ。来てくれて、ありがとう。あなたの声は、ちゃんと届いています、と。
……いつか、九条さんに教えてあげたいと思った。今日ではないけれど。
九条さんは、廊下に響く声で、どうでもいい話をしゃべり続けた。
そして、エレベーターホールの手前、カメラとカメラのちょうど真ん中あたりで、ふっと声を落とした。
「――長官を、信じすぎないで」
足が、止まりそうになった。
「止まらないで。歩いて」
九条さんは前を向いたまま、口だけを小さく動かしていた。顔は、さっきと同じ、にこにこした笑顔のままだ。
「……手帳、持ってるでしょ。詩織先輩の」
息が、詰まった。
「先輩、いつも緑の手帳を持ち歩いてたの。何でも書き込んでた。でも、先輩がいなくなったあと、研究室には一冊も残ってなかった。だったら、家でしょ」
「……」
「絶対に、渡さないで。誰に何を言われても」
エレベーターホールに着いた。九条さんが、下りのボタンを押す。階数表示の数字が、ゆっくりと上がってくる。
「先輩はね、『閉じよ』なんて言う人じゃない」
九条さんの声が、少しだけ震えていた。
「先輩の口癖、知ってる? 『開けて、聞いてみなきゃわかんないでしょ』。新しい石板が届くたびに、そう言ってた。どんなに怖そうな文字でも、閉じたままにしておくのは嫌いな人だった」
――開けて、聞いてみなきゃわかんないでしょ。
手帳の文字が、頭の中で、その声になった。会ったことがあるはずなのに、もうほとんど思い出せない、母さんの声に。
「でも、証拠はないの」
九条さんは、悔しそうに唇を噛んだ。
「録音は長官しか聞けない。装置の訳が、公式の記録。私がどんなにおかしいって言っても、それはただの、後輩の思い込み」
エレベーターが着いた。扉が開く。
九条さんは白衣のポケットから名刺を一枚取り出して、俺の手に押しつけた。表には『迷宮庁 言語研究室 主任研究員 九条綾』。裏には、手書きの電話番号。
「何かあったら、連絡して。……何もなくても。コーヒー、奢るから」
俺は名刺を握ったまま、エレベーターに乗った。
扉が閉まる直前、九条さんは、ぱっといつもの笑顔に戻って、両手のコーヒーを振った。
「またねー! 今度は先輩の昔の失敗談、いっぱい聞かせてあげる!」
扉が閉まった。
エレベーターが動き出す。俺は、手のひらの名刺を見下ろした。裏の数字が、少しだけ汗でにじんでいた。
◇ ◇ ◇
帰りの電車は、夕方の光でいっぱいだった。
ドアの横に立って、窓の外を流れていくビルを眺める。少しずつビルが低くなって、住宅が増えて、川を渡る。霞ヶ丘まで、あと四十分。
頭の中で、二つの声がぶつかっていた。
――私は彼女の遺志を継いでいる。迷宮の脅威から、人々を守るために。
――長官を、信じすぎないで。
長官の言葉に、嘘はなかったと思う。
頭を下げたときの背中。御堂の話をするときの、少しだけゆるんだ口元。灰原先生の飴の話で、写真を見つめた目。あれが全部、演技だとは思えなかった。
でも。
嘘じゃないことと、正しいことは、たぶん違う。
あの石板だって、そうだ。装置は、嘘をついたわけじゃない。『停止せよ』と、大真面目に訳しただけだ。それでも、本当の言葉は『休め』だった。
嘘をついていなくても、間違えることはある。間違えたまま、それを本気で信じることも。
【大食い】も【臆病】も、たぶん、そうやって生まれた名前なのだ。
電車が揺れた。つり革をつかみ直す。
向かいの座席では、サラリーマンのおじさんが、新聞を顔にかぶせたまま眠っていた。新聞の見出しが、逆さまに見える。『迷宮庁、来年度の魔石供給計画を発表』。おじさんのいびきが、その見出しを規則正しく上下させていた。
……迷宮庁の計画は、たぶん、こういうところで世の中を動かしているんだろう。
スマホを取り出すと、ルビのグループに、メッセージがいくつもたまっていた。
『湊! どうだった!? 生きてるか!?』
『ぶ、無事ですか……!? 捕まってないですか……!?』
『冷たかった? あそこ』
『おつかれさま』
最後の一つには、小さな絵が添えてあった。ルルが、どら焼きを差し出している絵だ。ねぎらいのつもりらしい。ルル本人がこれを見たら、〈我のどら焼きを勝手に配るな〉と怒りそうだけど。
俺は少し考えて、短く返した。
『無事。あとで話す』
既読が、四つ、一瞬でついた。
母さんの手帳の、日記のページを思い出した。湊は、いつも人の話を最後まで聞く子だ。
俺は、まだ、誰の話も最後まで聞いていない。
長官の話も。九条さんの話も。灰原先生の話も。どれも、途中で終わっている。そして、いちばん最後まで聞かなきゃいけない人の話は、手帳の暗号の中に閉じ込められたままだ。
研究計画に入れば、もっといろんなことがわかるのかもしれない。
でも、入ったら、きっと手帳のことを聞かれる。そうしたら、俺は嘘をつけるだろうか。あの穏やかな目を見て。
窓の外で、夕日が川面に沈んでいく。
そういえば。
羊羹を、持って帰るのを忘れた。
ルルには、絶対に言わないでおこう。どら焼きを二つ、いや三つ買って帰ろう。それで、今日のことは、羊羹抜きで報告しよう。
ポケットの中で、スマホが震えた。
取り出して、画面を見る。メッセージが一件。
送り主の名前を見て、俺は目を疑った。
合宿の最終日、帰りのバスの前で、大河が無理やり全員と連絡先を交換させた。「これで全員友達な!」と言って。あのとき、迷惑そうな顔で、それでも最後にはスマホを差し出した奴がいた。
御堂海斗。
画面には、短い一文だけが表示されていた。
『親父に何か言われたか』




